熊野水軍の統率者であり、熊野別当(熊野三山の統括者)。武蔵坊弁慶の父であると伝えられている。母は源為義の娘である鶴田原(たつたはら)であり、源行家の甥、頼朝や義経や木曾義仲の従兄弟にあたる。 寿永3年(1184)、闘鶏神社において、紅白の鶏を闘わせて源平どちらに味方するかを占い、その結果により壇ノ浦に兵船200艘をそろえ参戦する。