日本の江戸時代中期から明治時代初期にかけてあった町人による火消。第8代将軍徳川吉宗の時代に開始された。約20町ごとを1組とし、隅田川から西を担当するいろは組四七組と、東の本所深川を担当する16組の町火消が設けられた。のちに、本組が三番組に加わっていろは四八組となり、本所深川の16組は北組、中組、南組の3組に分けて統括された。明治維新後の1872年に新政府によって町火消は消防組39組へと改められた。
ちなみに、いろは組(いろは四八組)の「いろは」のうち、「へ」、「ら」、「ひ」、「ん」は呼び方が悪かったためにそれぞれ「百」、「千」、「万」、「本」に置き換えて使用された。