国道18号線・旧中山道の長野・群馬県境に位置する峠。標高1,180m*1。中央分水界。
長野県側は北佐久郡軽井沢町、群馬県側は安中市。関東平野と中央高地の境に位置し、峠の両側の標高差が大きい(JR軽井沢駅939mに対して横川駅386m)のが特徴である。
碓氷峠は中山道における関東への入り口であり、古くから東西交通上の重要地点であった。江戸時代には東海道における箱根と同じく、通行には厳しい制限があった。関所は坂本(峠の群馬県側)にあった。現在、峠には熊野神社や見晴台と呼ばれる園地があり、軽井沢からは車でアクセス可能である。
日本書紀には日本武尊がここで亡妃を偲んで「吾嬬はや」(ああ我が妻よ)と嘆いたことから、以後、東国を「あずま」と呼ぶようになったとの記述がある(ただし古事記ではこれは東海道・足柄峠での出来事として記される)。
旧中山道は徒歩や馬でしか通行できない山道だったが、1884年、旧道の南側に、馬車が通れる「新道」が開削された。現在の国道18号線(いわゆる旧道)である。1888年にはこの道路上に馬車鉄道が敷設された(1893年鉄道開通により廃止)。現在は片側1車線の舗装道路となっており、沿道には廃止された鉄道の遺構が見られる。
軽井沢町のうち、軽井沢駅周辺を「新軽井沢」あるいは「新道」と呼ぶが、これはこの道路に由来するものである。旧中山道の宿場町だった地区は「旧軽井沢」「旧道」と呼ばれる。
1971年に旧道の南に開通した自動車専用道路。碓氷バイパスという名称だが、この道が通っているのは正確には碓氷峠ではなく、入山峠である。2001年までは有料道路だったが、現在は無料開放されている。
1993年開通。碓氷バイパスと交差するように、こちらは和美峠付近を抜ける。インターチェンジとしては碓氷軽井沢ICが設置されているが、軽井沢の市街地とはかなり離れている。
横川−軽井沢間の鉄道(信越本線)は難工事の末、1893年にアプト式で開通した。1963年には粘着式の新線に切り替えられた。国鉄・JRの最急勾配地点(66.7‰)として有名だったが、1997年には北陸新幹線が開通し(碓氷峠は長大トンネルで超えている)、在来線は廃止された。
現在、旧線の線路跡は重要文化財に指定されるとともに、横川から途中の碓氷第三橋梁までは遊歩道「アプトの道」として整備、開放されている。
*1:旧中山道の峠の標高。国道はいくぶん低いところを通っている。
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