宝永3年11月3日。少し前、奥平段右衛門召仕が江戸において構(追放)との届けがある。請人は古井村におり、建中寺の百姓であった。近頃、盲人小頭6人が申し合わせて、仲間の知野(最初は政都)のことを霧山に訴えた。多渡都などが首謀者であった。しかし、多渡都などの訴えが正当でなかったので知野にとがめはなく、その後は多渡都などを霧山のところへ寄せ付けなかった。小頭役も離れる。立政寺の借家に16、7になる瞽女しづという者がいた。これを政都は弟子にして引き取り、芸を伝えたことなどいろいろを訴え出ていた。しかし、全て言い訳ができた。今年の暮れは蔵の米の買い上げはなし。