旧日本海軍の艦上戦闘機。略称は「零戦」または「ゼロ戦」。
「零式」とは、皇紀2600年(1940年、昭和15年)に制式採用されたことを示す。
試作要求は昭和12年(12試艦上戦闘機)、略号は「A6M」。
最初に採用された11型に始まり、以降21型、32型、22型、52甲型、52乙型、52丙型、53丙型、63型/62型、54丙型/64型、まで発展した*1。
最初の数字が機体構造、次の数字がエンジンの世代数を示す。形式名は11型(いちいちがた)などと呼ぶ(じゅういちがたではない)。
長大な航続力と高い空戦性能を持ち、大東亜戦争初期に華々しい戦果を挙げ、第二次世界大戦における傑作戦闘機のひとつとして、世界的に知られる。又、その航続力を生かした戦争初期の南方作戦における戦果から世界初の戦略戦闘機とも言われる。
以上のような長所を有するが、以下のような欠点があり、大戦後半はベテランパイロットの損耗もあり苦戦した。
しかし、後継機の開発が難渋したこともあり、終戦まで長く使われた。生産数は一万機を超え、日本最大記録となっている。
「零戦」の読みは「れいせん」か「ぜろせん」かで議論があるが、戦時中にも「ぜろせん」と呼ばれることがあったとも*5。関係者は「A6」と呼ぶことも多かったようだ。
また、当時の新聞、雑誌等には正式名称自体が秘密にされており、もっぱら「海軍新型戦闘機」と書かれていた。「零式艦上戦闘機」と新聞で公表されたのは神風特別攻撃隊が大きく報じられた後の昭和19年11月23日とのこと(堀越二郎:『零戦その誕生と栄光の秘密』)。
『丸』昭和38年6月号にて、内藤一郎氏は以下のように零戦を賞讃している。
零戦がすぐれた飛行機であることを肯定しながらも、強度不足だ、突っこみがきかない、防弾がない、高高度性能が不足だのと、いろいろの批判を耳にすることがある。
その多くは一知半解の妄言にすぎない。またよしそうであったところで、考えてみられたい。わずか一千馬力そこそこのエンジンをつけた飛行機で、この零戦の半分も有能な戦闘機が昔も今も世界のどこに実在したかを……。