宝永5年7月26日。伏見町下西側大久保勘之右衛門の乳母を武井四郎左衛門槍持が行って呼び出した。勘之右衛門の子どもを抱いてが、その子を置いてきてくれとのことで同僚の女に頼んでまたやって来た。槍持ちはこの乳母の夫であった。3、4歳の子を連れて来て、乳母に受け取って養育するようにと言った。いや受け取らないとあれこれ言い争ううちに乳母を切り倒した。そこへ米倉七郎兵衛がやって来て槍持ちを叱りつけ、自滅(自害)させた。あるいは槍持ちを蹴り込むとも、突き殺したとも。七郎兵衛妻は勘之右衛門の伯母であった。勘之右衛門は近頃痢病をちょうど煩っていた。乳母は死ななかった。