身代わりと人質

存在の彼方へ』はひととおり読み終わったのだが、気になることはたくさんあるので、もう少しメモ。


存在の彼方ヘ (講談社学術文庫)

存在の彼方ヘ (講談社学術文庫)


一番気になる「身代わり」という語について。
こういうことが言えるのではないか。
「身代わり」には、他人に何かを分かち与えるという意味が込められている。
レヴィナスは実際、「他人の身代わりになる」ということを、「自分の口から食べかけたパンを引き離して、他人に与える」ことだ、という風にも表現している。
ここで、「分かち与える」というのは、余っている分をあげる、ということではない、ということが強調される。自分が飢えているときに、最後の一切れのパンを他人に与える、それが「身代わり」ということだ、という。
これは、ずいぶん過酷で重い思想のように思える。実際、レヴィナスは、そういう極限的な思想を語っているようでもある。
だが、少し違う考え方が出来る。


レヴィナスは、自分の命を犠牲にして他人を救う、ということを直接に言っているわけではない(それをまったく否定するわけではないかも知れないが)。
重要なのは、分かち与えることなのだが、彼が言っているのは、何かを他人に与えるということは、自分が何かを失うことだ、という当然なことではないか。
そしてこの、自分が「失う」ものが何であるかが、重要になるのだろう。
それが本当に自分にとって必要なものであるなら、この「与えること」(身代わり)は、「犠牲」に他ならなくなるだろう。
だが、もしそうでないなら、「与えること」は、自分が余計なものを脱ぎ捨て、そこから脱して、身軽になること、自由になる、ということをも意味する。
そこに「身代わり」という概念の、アクチュアルな意味があるのではないか。


そして、何が自分にとって「本当に必要なもの」であるのかは、本人にしか分からない部分がある、とも思う。







もうひとつ、『存在の彼方へ』では、「身代わり」と重なるような語として、「人質」という語が何度か使われる。
「私は他人の人質である」というふうに言われるのである。
ぼくはなんとなく、この二つの言葉を同義のように思って読んでいたが、よく考えると、ずいぶん違った語感である。
「身代わり」は、自分なりに少し分かってきた気もするが、レヴィナスの言う「人質」の方は、まだピンと来ない。


ただ、こういうことに気が付いた。
「人質」をとるという行為は、一般的には、弱い立場の者が強い立場の者たちに追い詰められたときに、窮余の手段のようにしてとられることが多い、ということである。
全てではないが、そういう場合が多い。
この際、人質にとられる者は、「強い立場」の者たちの社会のなかでの弱者(「女子供」「一般市民」)であることが、やはり多いであろう。
強い立場にある社会の権力と言論は、「弱い立場の者」を抑圧したり追い詰めているという自分たちの大きな不正義を不問にした上で、「人質をとる」という行為の非道、不正義、卑劣さを非難するのである。


すると、レヴィナスが「人質」という語で言おうとしているのは、こういうことだろうか。
つまり、非常に弱い立場に立っている他人の窮地や不幸に対して責任を果たすべく、強い立場を持つ者の一員である私は、この他人によって迫られている。
レヴィナスは、「他人が私を告発・迫害する」というふうに、人間の倫理的な生を表現するのだが、その「告発・迫害」とは、他人が(実は根源的な意味で)私にとって「弱い」存在であるからこそ行われうるものなのか。


レヴィナスの議論は、現実の政治的な構造とは別の次元ですすめられるものなので、これを集団の属性の問題にただちに結びつけるわけにはいかないだろう。
だが、そうした現実社会、政治の状況と、無縁なところでその思想が形作られたとも、やはり考えられない。
レヴィナスの思想の政治的な含意については、多くの批判(デリダが行っているような)がありうることは確かだが、彼が上記のような問題をまったく考慮していなかったということではないと思う。

迫害と外傷によって、帝国主義的でかつ邪悪な主体性を剥ぎ取られた自我は、逃避に好都合な隠れ家を有することなく、曇りなき透明性のうちで「われここに」に連れ戻される。(p332)