宗教について書くむずかしさ(追記アリ

鰤亭、薔薇でクマを釣るの巻

あんとに庵さ(id:antonian)がこんなことをかいた

ええと、鰤さんからトラバが来ていて、それでコメ欄に書こうと思ったのに何故かわがパソでは書き込めないという、もしかしたら悪霊の仕業か?!な妨害・・いや、単に鰤さんとこのブログの仕様とわがパソの相性が悪いらしいので、返事がてらエントリを書くことにした。

なんせ『薔薇の名前』ネタである。返事書かなくてどうする?というかあきらかに釣ってるだろ?鰤ちゃん。クマー!

『薔薇の名前』ウンベルト・エーコ 鰤ネタにつられてみる - あんとに庵◆備忘録

ええと、わたしのブログは変な人々に絡まれている経緯もあり、コメント欄を承認制にしているのだが(私がオウム真理教と関係があるというのですよ、嗤っちゃうよね)、未承認のコメントはここ数日来ていない。なので、ブログの仕様というより、はてな側でコメントを受け取るときになにか不具合が起こっているのだと思われる。偉い人の解説を切に願う。教えてはてなダイアリー自己解決。いや解決していないがフィルタの設定をとりあえずなしにした。

さて、釣った釣ってないという論争をやってもフィリオクェ論争以上に水掛け論になりそうなので、そこは争わないでおく。いやほんとは釣ってないんだけどね。それをいいだしたら君こそ(セキュリティ上の理由により削除)。『聖フランチェスコの小さな花』がそんなに人間的な文書だというのは知らなかった。あとでどこかで探して読んでみることにする。

聖フランチェスコの小さな花

聖フランチェスコの小さな花

余談だが、ある正教(東方正教会)の司祭が、この人は正教が好きなのはともかくとしてカトリックが好きではなく、それで何かの折に「カトリックはまちがっています。おかしいです。アシジのフランチェスコをごらんなさい。あんな変な人は正教の聖人にはいません」と某信者さんに諭したというのだが、うん、まあ、フランチェスコは変なひとだというのはカトリックの人も認めてくれるんじゃないかと思う。東西を分かつのはそこに聖性を認めるかどうかなんだろうな。なおその正教の司祭が正教的であるとして読むのを勧めたのは、ラドネジのセルギイサロフのセラフィム*1という修道士の聖人伝だったそうだ。この人はこの人でモスクワの郊外の森に熊と一緒に住んでいたというので知られている。たぶんキリスト教外の方からみたらどっちも変なひとということになるんだろう。ようやくここで熊に話が戻ったぞ。

なおお馬鹿といえば、正教にもお馬鹿聖人の長い伝統がある。佯狂者というのだが、「いつわりくるう」つまり合理的で論弁的な理性の使用を自分に禁じるわけだ。聖人伝の一節には「人間にとって最も尊いものである理性を神に捧げる」と書いてあった。ある種のナジル人なのだろう。有名どころにモスクワの佯狂者ワシリイという人がいて、モスクワの赤の広場にある聖ワシリイ大聖堂というのはこの佯狂者ワシリイの墓が聖堂内にあることから来ている。あれの本当の名は「濠の上の生神女大聖堂」とかいうらしい。マリヤさまのお堂なのですね。*2

なお、これを書いている私は、洗礼を受けておらず、厳密な意味でのキリスト教徒ではない。心情的には東方正教会に魅力を感じているが、信者ではない。また、ここに書いていることはあくまでも私の個人的な理解であり、いかなる団体や教会とも関連はない。

宗教について書くむずかしさ

さて、先日の拙エントリ仏教って知られていないよね - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wakeで、こんなことを書いた。

逆にそういう責任を負っておられない、もう少し気軽に個人の立場から発言のできる、信者さんや宗教学者の方には、もうちょっと、そういうサークルの外にいる多くの読者を意識した書き物をしてくださると、お互いに幸せになれるのではないかと、未だいずれの信者でもない人文学屋の身の上からは、思いました。

仏教って知られていないよね - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake

これに対して、いくつかTBをいただいた。またそうやって起こされたブログエントリに対する反応もいくつか拝見した。真摯に受け止めていただき、ありがたいことである。一方で、あんとに庵女史からは、かようなお言葉もいただいた。

そういうわけで、鰤さん、頑張ってください。期待していますよ(他人事)

宗教語るやつが少ないと鰤ちゃんからラヴコールが来たけどさ - あんとに庵◆備忘録

いちおう私、TopHatenarの「部門別ランキング - 宗教」入りするくらいには宗教ネタも書いているのですがね、まあいいや。id:lastlineさんのいつぞやの評を見ても、「料理だったり、英語だったりいわゆるブログ」とある(id:lastline:20081229:1230537837)。「鰤端末鉄野菜」が宗教ブログだという認識を持っている方はほとんどいないだろう。わたし自身がそう思っていないのだから当たり前といえば当たり前だが。そうして私自身は心に浮かぶよしなしごとをこれからも書いていくだけなので、宗教についても折に触れて書きはするであろうが、とくに頑張ったりはしないつもりです。すまん。

ただ、宗教を問わず、継続的にしかも一定の水準のエントリを書いているブログが沢山あって、そのなかには他派他宗教の人とも対話の出来る人が見受けられるのに、なんとなく閉じてしまっているようなのが、おせっかいながら少しもったいないと思った、まとめればそういうことである。特にある宗教に造詣が深いわけでもなく、宗教学の専門家でもない私のブログの宗教関連記事に、ある程度注目が集まっているのは、そうした射程の違いなのではないかという気はしている。信者ではない――洗礼という形で明確に教会共同体にコミットメントしていない外部者として究極においてはフリーランスである私が、他のフリーランスの方向けを意識して書く、とでも申しましょうか。

だが、あんとに庵さんも書いていたが、これは云うに易しく行うに難しいのですよね。宗教観もさりながら、読者と共有する知識によって、こちらの書き方もまた左右される。宣伝とか布教とかいうことを意識しなくてもそうなのである――これはブログ作法一般の問題でもあるが、誰を読者として念頭におくか、ということが付いて回る。

上のエントリのコメント欄で、あんとに庵さんと私がやりとりしているところに「東って何ですか」というid:kibashiriさんの質問が入った。この東というのはコメント欄にもあとから説明があるが東方教会、とりわけ正教(東方正教会ギリシャ正教ロシア正教などともいう)のことを指す。

ギリシャ正教 (講談社学術文庫)

ギリシャ正教 (講談社学術文庫)

ブログエントリで「東」というのが出てきたのは、さしあたり、私に向っていわれた言葉だからだろうと推察する(「君は時々フリーランスになるな。東はどうした?東は?」)。そうして、これはキリスト教徒――すくなくとも教内諸教派について一定の知識をもつキリスト教徒なら、それほど隠語というわけでもない。わたしたち日本人の日常の談話で、「お東さん」(おひがしさん、東本願寺の通称)というようなもので、気軽な談話だけれど、指すものは明確で、とくにぞんざいであるわけでもない。けれど、広範な読者を設定し、誰にでも伝わるように言い換え説明を補っていくと、その気軽さは失われる。ブログの語法も語彙も、想定された読者との共有を前提にして決まる。無から無へ向って叫ぶというものではない。それで、既存のブロガーには、いまある談話の気軽さを犠牲にして、あるいは他に語りたい話題をおいてまで、宗教について広く一般に語る必要があるのか、そういう問いが生じるだろう、中にはあえて境界を維持することを選ぶ方、あるいは最初から語らないことを選ぶ方もいるだろうと思っている。

キリスト教に限らず、宗教ブログの中には、明確に読者を設定しているところもある。信者向けのもの、あるいは信者と一部の事情通向けのもの、それぞれの語法があり、機能がある。そういうものも、なくてはならない。けれども宗教に自覚的なコミットメントをしている人というのは、この現代の日本社会では、むしろ少数だろう。「集まって、排他的で、訳の分からないことをやっている人」と見られ(いやそれだけならいいんだけど)、無益に排除されないためには、何をやっているのか、どんなことを考えているのか、信者同士のサークルの中だけではなく、広く公衆に語っていく必要があるのではないかとも考えている。それはある局面では、同じ宗教の他の教派の方との対話であり、あるいは他宗教の方との対話であり、さらには無神論者や不可知論者の方との対話になるのだろう。

折りしも、id:DrMarks のところで、これからはもっと意識的にキリスト教について書いていかれるとの宣言があった(学ぶ場のない人のための溜まり場―単なる溜まり場はそのままで学び場にはならないよ - Comments by Dr Marks)。その心意気に感じ、これからのいよいよのご発展を祈念する。

関連エントリ:

*1:勘違いしてました(汗)。某氏ご指摘により訂正。ありがとうございます。聖人伝よみなおさなあかんな……。

*2:ニコライ堂が正式名称「東京復活大聖堂」であるように、正教ではときどきこうして愛称のほうが広範に流布するということが起こる。