エーゲ海のある都市の物語:ミュティレネ(21):アリストテレスとテオプラストス(1)


BC 427年のミュティレネの降伏ののち、もうそのあとには、ミュティレネが中心となるような事柄は起らなかったようです。それでもミュティレネは背景としてはまだ歴史に登場します。さて話はミュティレネの降伏から82年後のBC 345年まで下ります。その年、2人の中年の科学者兼哲学者がミュティレネにやってきました。一人は現代でも超有名な哲学者アリストテレスです。もう一人はテオプラストスという、アリストテレスの死後、アリストテレス学派の2代目学頭となった人でした。ここで2人は生物の研究をしていたそうです。アリストテレスは動物を、テオプラストスは植物を研究していたそうです。アリストテレスというと、ついつい「この人は哲学者だ」という先入観で見てしまいますが、当時のギリシアで哲学者と科学者の間にそれほどの区別はありませんでした。そしてアリストテレスやテオプラストスは、哲学者という語から連想するような、書斎で難しい顔をして思索する人たちではなく、戸外で様々な動物や植物を観察して、それを記述し分類し、そこから何かしらの原理を探り出そうとする科学者でした。


(左:アリストテレス

さて、BC 427年のミュティレネの降伏から、2人がミュティレネに移住するBC 345年までの歴史を概観しておきましょう。まず、哲学に関係した歴史から述べますと、ミュティレネから離れてアテナイの歴史を追うことになりますが、ミュティレネの降伏の頃はソクラテスが活躍した頃でした。ソクラテスは当時のペロポネソス戦争で、意外かもしれませんが、勇敢な兵士として活躍しています。BC 424年のデリオンの退却戦でソクラテスが勇戦したことをプラトンはその著作「饗宴」の中でアルキビアデスの言葉として述べています。また、ミュティレネの陥落の年は、のちにソクラテスの弟子になるプラトンが生まれた年でもあります。さて、このソクラテスアテナイ市民に訴えられて刑死したのは、アテナイペロポネソス戦争に負けたBC 404年よりあとのBC 399年です。この事件はプラトンに強いショックを与え、彼に政治家への道をあきらめさせるきっかけになったのですが、その時プラトンは28歳でした。そのプラトンが60歳の時(BC 367年)に、17歳のアリストテレスはスタゲイロスというトラキアの田舎からアテナイにやってきてプラトンの主催する学園であるアカデメイアに入門します。ただし、この頃プラトンはシケリア(シシリー島)のシュラクサイの政治家ディオンの招きで、シュラクサイの君主ディオニュシオス2世を教育するためにアカデメイアを留守にしていました。このディオニュシオスへの教育は失敗し、プラトンは大変な目にあいますが、何とかアテナイに帰国します。

(右:テオプラストス)



ともかくアリストテレスはこのあと、プラトンが80歳で亡くなるまでアカデメイアで勉学にいそしんだのでした。このアカデメイアアリストテレスが友人になったのがテオプラストスでした。彼はミュティレネの出身ではなかったのですが、ミュティレネと同じレスボス島のエレソスという町の出身です。なお、テオプラストスというのはアリストテレスが付けたあだ名で、本名はテュルタモスといいます。このあだ名の「テオプラストス」のほうが有名になってしまったのですが、テオとは古代ギリシア語で「神」のこと、プラストスのもとになった「プライゼン」というギリシア語は英語の「フレーズ」という言葉と同語源で、その意味も「表現する」です。ですから、最近のネット上の言い方にならって言えば「神フレーズ君」とか「神名言君」といったところでしょうか。アリストテレスがこんなあだ名をつけた理由は、彼の会話の能力が優美であったからだといいます。


では、次に政治上の歴史をたどっていきます。BC 427年、ミュティレネはアテナイの隷属国に落とされましたが、その後アテナイはシシリー島での無謀な遠征のために、大量の兵士を失い、劣勢になります(BC 413年)。するとミュティレネはこれを好機と再び反乱を起しますが、アテナイに鎮圧されてしまいます。しかし、最終的にアテナイはBC 404年にスパルタを中心とするペロポネソス同盟軍に降伏します。この時にスパルタの将軍リュサンドロスによってデロス同盟が解体されますので、ミュティレネはアテナイの支配を脱します。しかし、それよりも抑圧的なリュサンドロスの個人的なネットワークによる支配を受けました。

町ごとに自分が設けさせた政治的結社から選んだ10人ずつのアルコーンを残していった。これは敵対している町々にも同盟国となった町々にも同様に行い、ゆっくりと沿岸を航海して、ある意味における全ギリシアの覇権を自分のために確立した。アルコーンを任命するに当っては貴族や金持ちから採らず、結社の人々や特別な間柄の人々に政治を託し、それに賞罰の権を授け、死刑執行の場には自分も度々立会い、仲間の敵を追放し、全ギリシア人に対して不当にもスパルタ式な政治の模範を押し付けた。


プルターク英雄伝(六) リューサンドロス」より(ただし、旧漢字は新字体に直し、旧かなづかいも現代ふうに改めた。)

このリュサンドロスもペロポネソス戦争の次のコリントス戦争では戦死してしまいます(BC 395)。このコリントス戦争(BC 395〜387年)は結果的にアテナイの勢力を復活させました。それでもアテナイはかつての覇権を取り戻すことは出来ませんでした。ミュティレネは再びアテナイ支配下に入ります。スパルタもしばらくは勢力を保持しますが、BC 371年のレウクトラの戦いでテーバイに覇権を譲ることになります。しかしテーバイの覇権も長続きせず、BC 362年のマンティネイアの戦いで没落します。BC 357〜355年にアテナイの同盟都市間で同盟市戦争が起ります。キオス、ロドス、コス、ビザンチオンの各都市がアテナイに反旗を翻します。その後ペルシアの介入もあり、その結果、アテナイは同盟国の独立を認めたのでした。アリストテレスとテオプラストスがミュティレネにやってきたのは、その後、ということになります。たぶん、この頃のミュティレネはアテナイとの緩やかな同盟の中にあったのではないでしょうか。