ゆらぎ[Yuragi (Fluctuation)]

  一般的には、物事の基板がぐらついた、ゆらいでいるというように、何らかの危うい状況の要素ではなく、要因を意味している。そこからさら、既存の発想や、枠組み的な考え方では解決や処理できない現象のことを言う。かつての科学観では、平衡状態、つまりバランスに焦点を当て、全体のシステム的な定式化を目標としている。そうした平衡状態を混乱させ、撹乱、逸脱する、例えば雑音のようなものは、システム維持を困難にするとされてきた。つまり、科学的なシステムの価値観においては、制御や統制が当然である。しかし、非平衡系やアンバランスという視点での科学観では、ゆらぎに対して、積極的な意義や意味を見出すようになってきた。なかでも重要なのは、ゆらぎの研究によって、自然・人間・技術の構造を一新したことだと私は考える。特に、生命工学では、ゆらぎ=生きている証という定義にまで至っている。科学や技術だけではなく、社会学においても、「ゆらぎによる秩序性の構造的な解釈」が一般化しつつある。  デザインの本質的な発想も、「ゆらぎ」によって、社会的な実務性あるいは秩序性を構築することであると言える。デザインに対して、応用芸術という呼称が付いて回っていたのは、芸術の応用という言葉のなかに、社会秩序の形成を”ゆらぎ感覚”で具現化するという意味があったからではないかと考える。つまり、時代や社会における、ある種の定式化されたものから逸脱する手だてとして、「ゆらぎ」という積極的なアンバランス感覚を創出することも、デザインの本質ではないかと思う。  しかし、デザインはゆらぎを真正面から受け止める方法論を未だに見つけ出してはいない。なぜなら、技術や科学での術語としてゆらぎに対して、現状では、デザインがその距離感を見失っているからである。

ユーモア[Humor]

  この「デザインのことば」で、ユーモアを定義すること自体は、ユーモアなのだろうか?という問いかけのなかに、ユーモアの本文が宿っていると私は思う。  ラテン語の「体液」を意味するhumorから生まれた言葉である。その体液の流れが、ある種のバランスを失って人間の気質を変貌させると、「変わり者=変人」になると言われた。この「変人」という意味から、その「変人」の行為を笑うこと、そうした笑いを誘引するような喜劇や、日常会話における笑いなどが意味するようになったと言われている。日本では、英語としてこの言葉が入ってきたが、その邦訳には、「性癖」「性向」「滑稽」「詼謔」「俳趣」などがあてられていた。ユーモアとは、「滑稽さ」とともに、人間の感情におけるペーソス=悲哀や哀感など、パトス(情念)的な寛容的笑いを意味している。つまり、日常の社交的場面で、コミュニケーションをより円滑にする、「笑い」という感情や気分を誘い出す要因である。この要因の分析においては、おおよそ次の4つの定義が一般的である。(1)皮肉性=アイロニー、(2)ばからしさ=不条理感、(3)認め得る現実的な承諾感、(4)愛情が感じ取れる。  フランスの英文学者、ルイ・カザミアンは、『ユーモアの発達』を著し、後には、「なぜユーモアは定義できないか」という結論を論文としている。日本では、坪内逍遥夏目漱石が、ユーモアに対して、文学的な解釈と表現を試みた。夏目漱石は、ユーモアは、「人格の根底から生じる味のようなものであり、やさしさに包まれた表現」と言っている。ユーモアは、その人格を包囲する文化圏によって、その表現と解釈に差異が生じることはやむを得ないと言えるだろう。しかし、ユーモアがコミュニケーションにとって、最も重大な要素であるというのであれば、デザインにとっても、「ユーモア」と「ユーザビリティ=使い勝手や相互作用性・インタラクション」の関係は、構造化して仕組まれるべき要素であることは間違いない。  おそらく、ここまでの記述に、ユーモアは皆無だったと自己評価しておきたい。

ユニバーサルデザイン[Universal design]

  この言葉が、日本で流行語に鳴ったのは、1997年のグッドデザイン賞(Gマーク)において「ユニバーサルデザイン賞」が設置されてからである。ハートビル法ノーマライゼーションバリアフリーなどの呼称は、少数派といわれてきた領域を、デザインの対象にしているようだが、実は、デザインそのものの本質を語り直しただけにすぎない。デザインの本質を浮かび上がらせるという点においては、確かに行政から市場経済に対して、一般的な認識を促すことができた。しかし、流行語となったことで、以降、現在に至るまで、その本質は見失われてしまった。
 この言葉は、ノースカロライナ州立大学の教授だった、ロン・メイスンが提唱したものである。彼による7原則論が基本と考えられているが、それは米国中心の考え方にすぎない。日本では、1989年の世界デザイン会議で、NASAのデザイナーであった、故マイケル・カリルが初めて提唱している。元々は、WHOの国際障害者年(1980年)のための、メイスンのレポート「バリアフリーをめざして」(1970年)で登場した言葉といわれているが、一方では、カリルによる、先進国家特有の消費経済主義に偏った訴訟社会批判の意味を持った言葉であり、メイスンにも影響を与えたと私は考えている。
その後、クリントン政権時代に福祉行政の民営化を検討するにあたって、NPOアダプティブ・エンバイロメント」という組織が、監督・訴訟・運営・教育のためのコンセプトとして、ユニバーサルデザインを掲げ、世界的なデザイン用語になった。
 日本では、高齢化社会を迎えるにあたって、商業的・行政的に最もふさわしい言葉として重宝されている。「誰でもが使いやすいモノやコトのデザイン」という定義が一般化してしまったことは、この言葉の本質を訴求するうえでは、大きな御用であったと指摘しておきたい。7原則である、公平性・自由性・単純性・省力性・安全性・情報性・空間性は、我が国においては、その内容を大きく変容させる必要がある。まして、「誰もが使えるモノ」などあるわけがなく、高齢者や幼児、障害者すべてに対するデザインが、いわゆるユニバーサルデザインそのものの本質において、デザインの理想主義の確信を強調させた意味を持っているだけである。この意味が重要である。7原則は、デザイン思考における根本原則として、それぞれのデザイン目標を明確化する上での1つのデザイン評価軸にできると考える。さらに必要なのは、この流行語を、「ヒューマン・センタード・デザイン」という言葉による再定義によって、その本質をもっと訴求することである。

ゆたかな社会[Affluent society]

 第2次世界大戦後、特に先進国家は、貧困と不平等、さらには生活の不安から解放されたかのように、表面的には見えた。しかし、実情は、異質の問題をより多く抱え込むようになってしまった。これは、貧しい時代における生産性の向上などについて、古い経済学の観念に立脚して、経済学的な発展学を希求してきたことに原因がある。このことを、1958年、米国の経済学者、ジョン・ケネス・ガルブレイスが『ゆたかな社会』という著作で指摘した。第1は、欲求の人為的な創出である。本来、生産は欲求を充足させるためのものであったが、欲求や欲望が先行指標となり、そのために生産性の向上を図ることとなる。第2は、消費者負債をさらに生み出すシステムが制度にまでなり、その不安定さによって、インフレーションやデフレーションという難問を必ず抱えるだろうということ。第3は、社会的なアンバランス性が瞬時におこるということ。民間的なアンバランスと公共的なアンバランスがあり、特に後者によって、社会的なサービス体制が不備になっていく傾向となる。ガルブレイスのこうした指摘は、現実と理想を対比させた、大衆消費社会の構造的欠陥への提言だった。今、この指摘は全く正当であった。人間にとっての豊かさとは、貧しさと現実的かつ理想的な距離感を共有しつつ、社会をつくることだということを示唆している。我が国、日本も、戦後の急激な経済成長によって、「豊かな社会」に一応はなったが、かつての社会にあった「心のゆたかさ」を失い、今では、貧しかった頃が郷愁のなかで語られるあり様である。
 とりわけ、デザインはその職能によって、「ゆたかな社会への機能美」を商品として消費させるという構造のなかに組み込まれている。したがってデザインが、欲求や欲望を刺激する装置となってしまっており、これには警鐘を鳴らす必要がある。つまり、豊かさと貧しさの判断基準は、単純に経済的なことだけではないことを、認識する必要がある。昨今のさまざまな社会的な問題を見ても、「ゆたかな社会」の真の意味を再検証し、心的な豊かさのありようを早急に求めなければならなくなってきているのではないかと考える。

唯[Yui(Only)]

 「唯」という言葉を定義しておくべきだろう。「唯我論」「唯物論」「唯識論」「唯心論」などの統治的頭文字となっている。「唯」という字は、「祝の器」の形象文字であり、承認や唯諾、保有の意味を古代より有していた。「唯一」という言葉は、まさしくこれだけが中心であり、これ以外はあり得ないという意味を持っている。例えば、自我、独我を唯一のものとする思想を「唯我論」と呼ぶ。これは、他我を含む外界は単に自我の観念に過ぎないという考え方を中心としている。また、「唯識論」とは、知識や知恵を唯一の観念とし、それらが科学的な思想の根幹になっているという考え方である。
 とりわけ、デザインにとっては、「唯物論」が重要な観念である。この認識を定義しておかなければならない。「唯物」とは、物質的なものを根源的かつ一次的なものとし、精神的なことは二次的で、派生的なものであるとする世界観である。これは、認識論的には、感覚論であり、倫理的には快楽論、宗教的には無神論に向かう傾向があるといわれている。マルクスエンゲルスによる史的唯物論はその代表的な思想観念論である。彼らは、物質的なものとは、経済生活を根本で支える存在であるとみなした。結果として、政治・法律・宗教・哲学・さらには芸術などの上位構造が、物質的な下位構造によって規定されているという考え方、観念論となった。唯物論は、人間の心の働きを第一のものとする唯心論と常に対比されてきた。「物質価値の否定」という観念論は、常に唯心論によって補完されてきた。しかし、これは大衆的な価値観念の中では、安易な宗教論や神秘論と結びつくものとなっている。つまり、「こうした、心的な唯一性にもとづく価値観は、唯物論に対する批判に過ぎないことを明記しておかなければならない。デザインにとって、社会的かつ時代的価値観念の規定のうえで、唯物論の再検証と再定義が重要であることは間違いない。

野性/Wildness, or wild nature


 野性を定義するために、まず同音語である「野生」の意味を明確にしておきたい。「野生」とは生まれたまま、本能そのままの性質で教育や制度によって何ら変化しない状況・状態を意味している。「野性」は、自然のまま、本能のままの荒っぽい性質のことである。
ここでいう自然とは、生まれたままの状況という「野生」的な意味も有しているが、「野性」には、本能のままの性質が教育や制度によって、常識的な一面を獲得していくという意味もある。人間に関して言えば、本能のままの性質や状態が、そのまま保全し継続されたということは、原始時代から現代に至るまでほとんど照明は不可能である。人間の「野性」も時代によって変貌し、それは言語性と同次元であるという考え方があり、このことはクロード・レヴィ=ストロースによる『野生の思考』によって初めて明確にされた。現代における「野性」とは、遺伝子の変容、歴史的な変革、言語構造でのコンテクストの変革、自然破壊による人間の身体的な変貌などと密接に関連していると考えられる。
 私は、これまでも、「野性としてのデザイン」という課題を掲げ、その具現化のために、「何が野性であるのか」を考えてきた。しかし、それは、「野性とは何か」という課題設定ではない。むしろ、自然的・人工的な環境の影響によって、「野性」が変貌してきたことを考察した上でのものである。つまり「現代性」と「野性」との関係性から考えた場合、「野性」よりも「現代性」が持つ荒々しさ、つまり現代的野性の方が問題なのである。それは、現代社会における倫理性や規範性の破壊を引き起こしているからである。デザインには、そうした荒々しさを制御する装置化が望まれているのではないかと考える。

安らぎ/comfort,relaxation,peace of mind, serenity


 現代人にとって、精神的、心理的、身体的に不可欠なものとなっている。身体的な生理安静状態を指し、最終的には人間の死を到達点とした言葉であるが、現代社会の人間にとっては、精神的/心理的な面での意味がひじょうに大きい。現代の人間はさまざまなストレス(圧迫状況)のなかで生活をしている。そのストレスは、結局は、身体的な異変や病気を引き起こす要因となることも既に科学的・医学的に検証されている。
「安らぎを得る」とは、「心がゆったりと落ち着いて穏やかなこと」である。「一時の安らぎ」という表現があるように、人間は実際、「一時的」にしか、そうした状態を獲得できない。この安らぎを得る方法論として「ヒーリング(癒し)」が、人間生活では不可欠となっている。いやしには、心身に働きかけて生命力・自己治癒力を引き出し、治癒・治療・回復を促す活動という意味がある。この「一時の安らぎ」を確実にするには、緊張感や圧迫感、さらには強制力からの解放が必要となる。
 そこで、この安らぎ、あるいは癒し効果を意図する様々な商品やアイテムのデザインにおいては、そのアイテムが生命力や自己治癒力を再活性化することが求められる。しかしその場合に、精神性や心理性が優先されると、非科学的あるいは超科学的、さらにはおまじないや迷信、占い的な要素付けへの偏向が起きることとなる。つまり、デザインが、「安らぎを得たいという欲望」を刺激するためだけの手法となる可能性がきわめて高いのである。デザインは客観的・合理的・科学的な再適正や適合性をコンセプトにおいて、それらを明白、明快に責務と義務があることを忘れてはならない。「安らぎ」に対するデザイン解決は、一方で産業的、経済的効果をもたらすことは明らかであるが、元来は、デザインそのものが、安らぎとは不可分であることを明確にしておくことが、デザイナーの職能倫理であってしかるべきだと考えている。