その373 体によいものを食べよう!

食事に対する意識を変えている。

一人のときは外食はやめようと思う。

塩分、糖分を控え、化学調味料を避けるような食生活にしていきたい。

もともと、味の素等の化学調味料は自宅に置いておらず、なるべく素材の味を活かすように心がけてきたつもりであるが、いくら自炊時にそのような意識をしても外食(特に中華料理屋)に行くと、想像を絶する量を摂取してしまう。

昼食は、仕出し弁当が中心になるす、他の人と一緒に食事をするときは外食は避けられない。

だからこそ、一人で居るときでにはできることを実施していきたい。

そろそろいい歳になってきたので、健康にはこれまで以上に留意しなければと思う。

周囲を見渡しても、やれ肝臓だ、やれ腎臓だと、病院に通ったりしている知人が出てきた。

今は元気になったが、父親が腎臓を患って入院した年齢もそう遠くではなくなってきた。

食事や運動よりも精神的ストレスが病気の原因であることは理解している。

しかし、だからといって食事や運動についていい加減な意識でよいはずがない。

特に自分でコントロールできる部分なのだから、意識を高く持つことにこしたことはない。

長寿で有名な沖縄県も、実はそれを支えているのは、高年齢世代であって、若い世代、特に男性は全国的に見てもあまり健康と言えるようでもなさそうだ。

http://ryukyushimpo.jp/news/storyid-29820-storytopic-1.html

戦後アメリカ文化の影響で、ジャンクな食文化が定着したことが原因であるとも言われている。

スパムのような油分・塩分たっぷりの食材を子供のころから毎日食べていれば、それは長生きはできないだろう。

せっかくの沖縄の長寿食の文化が、それこそアメリカの食材とチャンプルーになってしまったのだ。


この沖縄の例を見ても、食事が健康に与える影響が実に大きいということがわかる。

幸い、小さいことから多種多様なものを食べさせてもらったせいか、好き嫌いがなく何でも食べることができる。

学生時代のアルバイトの経験から、包丁を使うこと、洗い物をすることに抵抗がない。

それが故に、まずは自分で作ってみるという積極性はある。

作ってみると、はじめは失敗しても、徐々に上手くなるものである。

成果が上がるから次も挑戦するという、良いスパイラルにはまる。

先日も家に遊びに来た友人に生活力があると言われた。

同世代の男性に比べればそうなのかもしれない。

しかし、これはあまり意味のない比較であって、我流ではなく、しかっりとした基礎を学びたい。

もっと自分をレベルの高いところにおいて刺激を受けたいものだ。

食に関する知識を得て、健康を維持したい。

病気を恐れるという消極的な理由もあるが、健康であれば人生を楽しく過ごせるという積極的な理由が強いのかもしれない。

「適度な運動、体にいい食事」

知力をつけることも大事かもしれないが、まずは、体力・健康面を意識したい。

今年は、運動と食事に対する意識を高めよう。


本日のパパからのメッセージは、

「体によいものを食べよう!」

です。


そして、パパの「今日のよかった!」は、

「くじであたってスポーツサングラスをゲットできた!」

です。

Why?

→ 気分よく自転車に乗れたり。ランニングできるアイテムだから。

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 http://www.rudyproject-japan.com/sport/rydon/index.html

その372 行動の前にまず返事をしよう!

本年の初の落語観賞@高津市民会館に行ってきました。

柳家権太楼師匠の独演会です。

いやー正月らしく賑やかで楽しい会でした。

「子ほめ」柳家おじさん
「反対俥」柳家ほたる
「代書屋」柳家権太楼
「漫才」 ホームラン
「火焔太鼓」柳家権太楼

個人的には「代書屋」がよかった。

枕で、豪華客船「飛鳥」に乗りこんでの落語会のエピソードを話して爆笑をとった後に「代書屋」に展開したところがよかった。

観衆のイメージを明るく広がった世界から、一気にどちらかというとじめじめしていて狭い世界へ一気に転換してしまうところがダイナミックであった。

普通は、流れが途切れたり、枕が面白すぎると、本編が霞んでしまいがちであるが、さすがにきっちりしていた。

お弟子さんのほたるさんにも言えることだが、キャラクターのデフォルメが上手だと思う。

これが爆笑派と言われている所以か。

柳家の伝統を感じさせられました。


で、これは権太楼師匠が枕の中で仰っていたのですが、噺家さんたちの世界では、「行動の前にまず返事をしなさい」という慣習があるそうです。

最初は、「返事より行動だろ」などと思ったりもしたのですが、よくよく聞いてみたら「決して行動を疎かにするのではなく、行動の前に意思表示として返事をしなさい」ということで腹落ちしました。

相手とのコミュニケーションにおいて、こちらの意思を示すことは重要なのかもしれない。

楽屋で師匠に「おーいお茶」と言われて、立ち上がってすぐにお茶を出してもダメだそうだ。

もちろん行動は必要であるが、まずは相手の意思に対して、自分がどのように考えているのかを示すことによって、相手を安心させてから行動をすればよい。

言われてみれば当たり前のことであるが、ついつい返事を疎かにしてしまいがちだ。

特に家族でるとか、職場であるとか、長く時間を共有する相手に対しては、「言葉に出さなくてもわかるだそう」というふうになってきてしまうような気がする。

でも、これは違う。

どんなに親しくなろうと、どんなに信頼関係ができたしても、言葉で自らの意思表示をすることを省いてよいわけがない。

返事をするなど1秒もかからないことである。

返事をしたからといって行動が遅くなるわけでなない。

むしろ、自らの決意表明の表れなので、きっちりと仕事をするであろう。

なんだ、良いことづくめではないか。

自分自身返事をすることが全くできていないわけでもないが、果たして気持ちよく返事をしているであろうか。

そうだ。返事の達人になるくらいの意気込みで、返事への意識を持ってみよう。

コミュニケーションの達人というと、感情表現があまり得意でなかったりすることもあり、ハードルが高すぎるような気もするが、部分的にでもできることはあるのだ。

そう!良いと思ったことは、今すぐはじめてみることだ。


本日のパパからのメッセージは、

「行動の前にまず返事をしよう!」

です。


そして、パパの「今日のよかった!」は、

「二日酔いから劇的に復活できた!」

です。

Why?

→ 何もしないと二日酔いは残ってしまうので、無理をしてでも体、頭を動かしてみると復活しやすいことがわかった。

その371 幸せな気分になって眠るよう心がけよう!

正月明けに体調を崩す人が多いようだ。

生活のリズムが乱れ、暴飲暴食をしていた生活から、規則正しい生活に戻るのにギャップがあり、肉体的にも精神的にも抵抗力が弱まっているのであろう。

すべてとは言わないが、病は気からであると思う。

これは、念じていれば風邪をひかないという根拠のない迷信ではなく、風邪を引かないように意識をしていれば日々の行動が風邪を避けるようになるというものである。

例えば、週末にとても大事な予定があるとする。

そのような状況下では、体力を消耗するような無理な行動を避けるはずである。

一見、無理な行動をしているようであっても、どこかで線引きができている。

いくら気が張っていても、行動を伴わなければ、ウィルスは体に侵入してくるだろう。

「気」とは、目標へ向かう気持ちであり、「気が張る」とは、目標達成のために自然と行動を分別している状態のことを指すように思える。

特に、睡眠時間の確保、睡眠の質の確保を本能的に行っているはずだ。


人にもよるのかもしれないが、言うまでもなく睡眠はとても大切だ。

体力の回復もさることながら、脳科学的にも、その日の出来事を整理しているので、とても重要だと言われているようだ。

人生の3分の1とは言わないが、少なくとも4分の1は寝ているはずなので、そう考えると、いかに快適な睡眠をとるかということに対して少し力をいれてよい。

部屋や寝具などへのこだわりもあるが、最も大切なのは、寝入りの精神状態であるように思える。

肉体的に疲れていても、熟睡できるとは限らない。

いくら体が疲れていても精神が高揚していたり、逆に不安定であったりすると眠れない。

したがって眠る前に、精神を安定させるような行動をとるべきだ。

ゆっくり風呂につかるもよし、心地よい音楽を聴くもよし。

しかし、様々な方法がある中で、最も効果があるように思えるのは、何かの達成感を得ることだ。

昨年から寝る前にブログを書き出したが、それが書き終わると達成感を得られて、わりとスムーズに眠れることが多いような気がする。

1日の出来事を書いているわけではないが、それでも、どこかでその日起こったことにリンクしている部分もあるので、無意識に1日を振り返っているのかもしれない。

そうすると、睡眠中に行われているという脳が行う整理によい影響を与えているのかもしれない。

寝る直前だけでも、どんなに小さくてもよいので幸せな気分になったほうがよい。

小さな達成感があれば、気になることを抱えていたとしても、眠りに着くまでくらいの間は包み隠してくれる。

逆に達成感がないと、いくらプラスのことを思っても不安が露呈してしまう。

どうせなら、うっすらと笑みを浮かべながら眠りたいではないか。

そして、小さなノルマをクリアしていくことは、気分よく眠れるという効用だけではなく、見えないところで自信がつくという効用もあるように思える。

人から見れば大したことのない成果かもしれない。

しかし、そんなことは気にしない。

成果物の内容ではなく、精神衛生上の効用という意味で、何かを成し遂げてから眠りにつくことを薦めたい。

人生の3分の1なり、4分の1なりをどう幸せに過ごすことができるかは、案外と自分でコントロールが可能なのだ。


本日のパパからのメッセージは、

「幸せな気分になって眠るよう心がけよう!」

です。


そして、パパの「今日のよかった!」は、

「某テレビ番組の一般観覧に当選した!」

です。

Why?

→ 教養番組だし、社会見学気分で新しいことが体感できるから。

その370 個性を尊重して周囲の人と助け合おう!

徐々にではあるが仕事モードになってきた。

まだ、他人への振り分けはできておらず、その点は反省しなければならないが、中期的課題を検討する週1のワーキングチームへの参加も決まり、個人的には楽しくなってきた。

ただし、目の前のことを疎かにしてはならないと思う。

仕事の性質上、少し先のことを考えるのは楽しい。

実現できること/できないことの境界は明確でなくても許されるからだ。

また、今回求められている役割は、プロジェクトの担当システムのオブザーバであり、自分の領分以外は、まあ感覚的に無責任なことを言っても許される。

もちろん、それぞれの専門知識を持ち寄って、新たな何かを見つけるという命題があるので、一時も気を抜けないには違いないが、ゴールが書面というのは、システム屋にとってみると気が楽だ。

この考え方は、恐らく間違っていて、書面つまり上流工程の設計書がしかっりしていないと、実際の開発で苦労するわけで、それこそ最も気合いを入れなければならない部分であるとは思う。

しかし、そのように頭で理解していても、実際の開発作業とは、苦しさの質が違う。

目の前に迫った仕事(システムのカットオーバー)は、極端な話1点のミスも許されないので、地味な確認作業を繰り返すだけで華がなく、それでいて緊張を強いられる。

しかも、上手くいって当たり前なので、誰も褒めてくれない。

ミスをしたときに、それは上流工程での整理がいい加減だからと言っても、お客さんに通用するはずもない。

このような状況の中でチームをいかに盛り上げていくかがリーダの役割のひとつだ。

誰も褒めてくれないのであれば、自分が気がつくかぎり褒めてあげよう。

地道な作業を繰り返して、精度の高いもの(システム)を作り上げていくことの喜びをチームで共有したい。

特に昨年の春からチームに加わったメンバに成功体験を味わってもらいたい。

ほとんど雑用に近い仕事しか与えることができず、主体的に何かをしたという実感はないかもしれない。

また、この先ずっと今のセクションにいるとは限らない。

それでも、自分が携わったことに対して成果を感じることができれば、自信がつき、仕事だけではなく人生においてもプラスになるはずだ。


今年は、周りの人を活かしていきたい。

後継者と目していた人材が本人の希望とは関係なく移動させられたり、担当のような上司のかわりに放任主義の上司になったことで、自分ががんばらなければという思いが強すぎた。

でも、一人のがんばりなんて限界があるし、皆でやることでこそ何があっても対応できるようになる。

もっとメンバを信頼しなければ。

そう。うまくいくように段取りさえつけてあげれば、きっとできるはずだ。

人の長所を引き出すことを意識しよう。

どんなメンバでも長所があり、短所がある。

自分自身だってそうだ。

チームの運営にバラツキがあってもよいはずだ。

日本人らしさなのか、均一性、つまり、メンバには平等に仕事を割り当てて、同じような成果を求めるということに拘りすぎていたもかもしれない。

もっと、個性を活かしたい。

対外折衝の得意な人、自分で仕事を探すのは得意でないけれど筋道さえ示せば安定した仕事をする人、集中力は持たないが瞬発力のある人・・・

それぞれに合った仕事を割り振っていけばよい。

適材適所で、きれいに仕事が割り振れるかは別としても、これまでのように均質な結果を求めるのは止めようと思う。

そして個人のプライドを傷つけないように、その人が得意な分野、ストレスのかからない分野で自信をつけさせてあげよう。

思うように結果がでなかったのは、リーダのせいでもあるということを忘れないようにしよう。


本日のパパからのメッセージは、

「個性を尊重して周囲の人と助け合おう!」

です。


そして、パパの「今日のよかった!」は、

「自分のポジションを再認識できた!」

です。

Why?

→ 自分が担当の役割を外れて調整役に徹すれば、できたスペースは誰かが埋めてくれると信じることができたから。

その369 自分のリズムで考えてみよう!

完全に「祭りの後」状態だ。

少々刺激的だった冬休みが終わると、退屈な日々が待ち受けていた。

虚脱感。

本当は退屈などと言ってられる余裕などなく、稽古をしなければならないし、仕事も早く計画をたてて進めないと遊兵を作ってしまう。

そう、それなりに忙しいのだ。

こういうときは、落ち着いて一つ一つ確実にこなしていくことだ。

まるで焦っているかのようであるが、逆である。

何もやる気がしないのだ。

ここは頑張りどころだ。

眠気にかまけてベッドへ直行したい気持ちを抑えて、小さなことでもよいので成果をあげよう。

そして、その小さな達成感を素直に喜びながら気分よく眠り、朝を迎えるのだ。

明日の朝は、もう日常だ。

当たり前のことを一つ一つ丁寧にこなしていく生活を楽しもう。


それにしても、一人になってあらためて考えてみると、人との関係は、緩急のリズムを経て、より強固なものに醸成されるのかもしれない。

ずっと同じペースで居るよりも、時に急速に、時に緩やかにペースを変えながら時間を共有することにより、相手に対する理解が深まることもある。

ふと離れたときに何を思うのか。

離れていても時間は共有できるような気がする。

そう考えると、不思議と距離に対する恐怖心がなくなる。

自分のさまざまな生活のリズムに当てはめ、そのときに自分がどのように思うかを感じ取ってみたい。

それが楽しくさえ感じる。

穏やかに時間が流れていると感じるかどうかは、自分の気持ちの持ちよう一つで決まるのだ。

少しだけ自分の精神をコントロールできるようになってきたかな。

どんな時でも前を向いて歩いて行ける気がする。

心にゆとりを持って日常の生活をこなしていけば気持ちよく過ごせるものだ。


本日のパパからのメッセージは、

「自分のリズムで考えてみよう!」

です。


そして、パパの「今日のよかった!」は、

「晩御飯でベジタリアンな食事ができた!」

です。

Why?

→ 体の負担が少ないから。
  そして、野菜と穀物だけでも満足できる食事が十分にできるとわかったから。

その368 宝物は実は自分の手のひらの中にある!

1月4日の朝日新聞の朝刊に過疎の島がアメリカ人の東洋文化研究者に見初められて再生の道を辿ろうとしているという記事が出ていた。

NPOと手を組み、世界四十数箇所に滞在したアメリカ人高校生を受け入れ、島の人たちとの交流を持ってもらったところ、07年、08年と2年連続で世界一の評価を受けたとのことだ。

島の雰囲気や島民のもてなしにグローバル時代に通用する魅力がある、と記事は伝えている。

これまでの「ないものねだり」から「あるもの探し」への転換こそが、これからの地方が目指す方向であるとも書かれている。

先の東洋文化研究者、アレックス・カー氏は、常に「明珠在掌」(宝物は実は自分の手のひらの中にある)ということを考えているそうだ。

戦後、日本の町並みが加速度的に西洋化したのは、日本人に誇りがないからだともいう。

そのことには、ある程度は共感できる。

敗戦からの復興を最優先し、物理的のみならず精神的にも、旧き善き日本を捨ててしまった感はある。

しかし、裏を返せば、自らの文化に固執せずに、合理性を重視し、柔軟に物事を考えられる民族であるのではないだろうか。

これは特筆すべきものかもしれない。

時代が合理性を求め、日本人がそれに応えたのだ。

ただ、これからは、合理性ばかりを追求する時代ではない。

「何か新しいものを」と焦燥感に駆られるのは、人としての心情だし、これからもある面では、さらに合理性が追求されていくであろう。

しかし、もはやそれが全てではないことを我々は知っている。

精神的豊かさが求められる時代なのだ。

情緒的なるものに重きをおき、本当の豊かさを目指さなければならない。

このとき、日本人が持ち前の柔軟性をどのように発揮できるかだ。

そのためには、アレックス・カー氏が仰るように、外にばかり目を向けるのではなく、内に目をむけることだ。

内なるものを大切に思い、そこに幸福を感じたい。


国というレベル、地域というレベルにとどまらず、個人のレベルで内なるものに目を向けたい。

自らが持っているもの、強みと言い換えてよいかもしれないが、この強みをもっと表に出そう。

どうしても自分の知らないこと、弱みの部分をなんとかしようとして、そちらばかりに意識が向く。

しかし、「ないものねだり」はしんどい。

自分に備わっていないものを追いかけるよりも、自分の得意分野を磨いたほうが楽だし、磨くことによっていつの間にか、自分に備わっていないものが身につくことがあるような気がする。

そのように考えると、速度を落として、情緒的になれるような気もする。

そう。気楽に自分自身の特性を生かすことを基本としよう。

「あるもの探し」を楽しんで、誇りを持って生きて行こうではないか。


本日のパパからのメッセージは、

「宝物は実は自分の手のひらの中にある!」

です。


そして、パパの「今日のよかった!」は、

「予定どおりに帰宅できた!」

です。

Why?

→ ゴールを意識すれば、集中して仕事ができることが実感できたから。

その367 どんなことだって意識の持ち方ひとつでルールは守れる!

意識の持ち方一つで自らの行動は抑止できる。

昨日、ラグビーの大学選手権をテレビ観戦した。

印象に残ったのは、第2試合の帝京大学明治大学のレフリーのゲームコントロールだ。

ただルールに則ってホイッスルを鳴らすのでなく、なぜホイッスルを鳴らしたのかを明確に説明していた。

そして、事あるごとにゲームキャプテンに対して、ルールを守るように説明する。

実に威厳があった。

論理を伴うとやかり説得力は増すものである。

相手との接触を伴うスポーツ、例えば、サッカーなどもそうであるが、どこからがルールに違反しているのかが明確ではなく、レフリーの主観に委ねられる部分がある。

プレーを見ている位置によって、死角があって反則を見落としてしまったり、正常のプレーもファウルに見えてしまったりと、曖昧さが寛容に作用することが前提となる。

したがって、ときに選手は自らがルールを犯していないことがわかるため、その裁定に不満を持つこともある。

しかし、ラグビーでは、そこでレフリーに文句を言うことが許されていない。

レフリーが絶対なのだ。

サッカーなどでは、不満を態度に表わし、時に暴言を吐き、不必要なペナルティを課せられるときさえある。

ラグビーという競技がサッカーと違い、熱くならないかというと、もちろんそのようなことはなく、むしろ相手とのコンタクトが強い分、より興奮するであろう。

しかし、レフリーには従う。

なぜか?

理由は単純で、それがルールであるということが、選手に浸透しているからだ。

ラグビー教室で、学校で、あるいはクラブで、ラグビーに接した時に、特にあらためて習うものではないことかもしれないが、皆、そのことは知っている。

テレビ中継でもいちいち「ラグビーというスポーツはレフリーに逆らえないのです」などと説明はしない。

しかし、クラブ等であれば先輩たちの態度から、観衆であれば選手の態度から、「ラグビーというスポーツはレフリーに逆らえないのです」ということを察する。

そしてそれが徐々に伝播する。

文面ではなく、自らの態度によって、何かを他者へ伝えられていくことはできるのである。


つまり、意識の持ち方ひとつで他者へ良い影響を与えることができるのだ。

これは使わない手はない。

人によって道徳観に差があるのは仕方がない。

しかし、それぞれの道徳観であってもよいので、それを強く意識することだ。

子どもがいればなおさらだ。

正しい態度をとるという意識さえあれば、社会のルールは守れるものだということを身をもって示したい。

子どもたちの反社会的な行動を批判する前に、自分たち自身のことを見つめ直そうではないか。

ごみくずを外に捨てないとか、信号無視をしないとか、ルールとして自分で決めてしまえば、従えることなんていくらでもある。

大きな穴があいてしまう切っ掛けは、小さな綻びである。

できる範囲で構わないと思う。正しい態度を意識して行動したいものである。


本日のパパからのメッセージは、

「どんなことだって意識の持ち方ひとつでルールは守れる!」

です。


そして、パパの「今日のよかった!」は、

「知力、体力、気力が充実できた!」

です。

Why?

→ 非生産的な時間が少ない冬休みであったから。