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2012年1月3日まで利用していたはてなダイアリーの過去記事です。

アドルノ『楽興の時』全解説(1) ベートーヴェンの晩年様式

大芸術家の晩年の作品に見られる成熟は、果実のそれには似ていない。(中略)そこには古典主義の美学がつねづね芸術作品に要求している調和がすべて欠けており、成長のそれより、歴史の痕跡がより多くそこににじみ出ている。(P.15)

 タイトルのとおり、ベートーヴェンの晩年作品について書かれた文章(1937年)。ここでアドルノは、ベートーヴェンのみならず、さまざまな芸術家の「晩年の作品は破局(P.21)」に向う理由について分析をおこなっている。


 はじめに、アドルノはこれらの晩年作品に関する世上の見解についての批判から述べる。彼が批判する世上の見解とは、伝記や運命について言及しながら、晩年の作品における破局を、死を前にして個人性が暴発した結果だ、と意味づけるようなものである。このような解釈をアドルノは「心理的な解釈」(P.18)と呼び、不十分な見方だとした。
 アドルノベートーヴェンを、主観性が働いている作曲家だと評価している(P.16)。しかし、晩年のベートーヴェンにある謎についてもアドルノは着目する。

晩年のベートーヴェンは、きわめて《無表情》な、突き放したようなかたちのものを残している。(同)

 ベートーヴェンの晩年作品には、多声的・客観的な、(これまでのベートーヴェン作品のなかでは登場しなかった)新しい構成が見られる。これらは、彼の主観的な一面とは相反し、時に支離滅裂なほどである――とアドルノは言う。だから「彼の態度に、《主観主義》という紋切り型がぴったりというわけにはいかない」(同)。これがアドルノが指摘する謎である。


 アドルノは楽曲分析から、その謎をつぶさに見ていく。この分析において、彼は慣用(コンヴェンション)の役割を手がかりとした。
 主観主義的な芸術家にとって、過去に作られた慣用は甘受せず、もしも避けがたい慣用ならば表現の衝動にしたがって作り直すことは掟である(P.17)。アドルノベートーヴェンの中期作品に、慣用からの脱却をいくつも認める。しかし、晩年の作品はこの点がまったくちがっているのだ。

最後の5つのピアノ・ソナタにおけるような独特の文章法を用いている場合でさえ、いたるところ慣用の書式や語法がちりばめてあるのだ。そこには、飾りもののトリルの連鎖や、カデンツや、フィオリトゥーラ*1などが盛りだくさんに見られるのだが、ときに慣用が地金のままでむき出しにされている場合も多い。(同)

 晩年作品では、主観主義に反して慣用がシンプルに用いられている。これらの分析結果によって、アドルノ心理的な解釈を退ける。彼の言い分はこのようなものだ――主観主義に反する現象が楽譜のなかに存在しているのにも関わらず、どうして晩年の破局を個人性に理由付けることができようか。

この個人性なるものは、死すべきものとして、また死の名において、実際には芸術作品のなかから姿を消しているのである。晩年の芸術作品に見られる個人性の威力は、それが芸術作品のあとに、この世に訣別しようとして見せる身ぶりにほかならない。それが作品を爆破するのは、自己を表現するためでなく、表現をころし、芸術の見かけ(シャイン*2)をかなぐり捨てるためだ。(P.19)

 アドルノは、ベートーヴェンの晩年作品に心理的な解釈とは真逆の意味を与える。ここからがアドルノの本領発揮、アドルノによる批評のはじまりの部分になるのだが(これまでの批判は前奏に過ぎない)、彼が本領発揮すればするだけ、文章次第に難解な調子を帯びてくる。少し整理が必要だろう。

晩年のベートーヴェンにおける慣用は、むき出しに露呈されつつ、表現となる。多くの人びとによって着目された彼の様式の縮小が、そのためにものを言っている。その狙いは、音楽語から常套句をしめだすことよりも、主観に制御されているという見かけから、常套句を救い出すことにあるのだ。力学から解き放たれた常套句が、自在に自ら語り出ることになるわけだ。しかし、それはまた、立ち退いていく主観性がこれら常套句のうちを駆け抜け、その志向によって一瞬それらを照らしだす束の間のことである。(P.20)

 ベートーヴェンの晩年作品からは「彼の様式」――慣用を拒絶し、主観性を帯びた表現様式――が退く。代わりに現れるのは、慣用である。そこでの慣用は、主観によって支配された状態ではない。「常套句(慣用)」は自然の状態を回復し、そして自ら語り出す。だが、主観性は作品のなかから完全に撤退するわけではない。むしろ、作品中に彼の様式と慣用が同時的に存在している。しかし、それは調和的な共存ではなく、むしろ2つがぶつかり合う不協和的関係を示すものである。
 アドルノベートーヴェンの晩年作品のなかに「単音性、ユニゾン、顕著な常套句などを片手に配しながら、突如としてポリフォニーがその上にそそり立つ」(P.20)といった状況を指摘する。そして、このように様式と慣用のせめぎあい、あるいは、ぶつかりあったときに放たれる「火」/「燃焼」が作品の内容となっている、と彼は言う。


 アドルノが見出した「火」、そしてその意味について、彼はこのような言葉を付している。

秘密はふたつの断片の合間にひそんでいるのであり、両者が相ともに形づくっている形象のうちにしか、それを封じ込めるすべはないのである。(P.21)

 この言葉は非常に重要なものだと思われる。なぜなら、このような、2つの異なるものがお互いを否定しあう関係において、1つの意味を生み出すことが、そのままアドルノの中心的思考方法である否定弁証法と連結して考えることが出来るからだ。火は、様式と慣用のどちらか一方に所属するものではなく、あくまで、その2つがぶつかったときに発生する。よって、通常はどこにも存在しないものである。それはつまり、瞬間的にしか現れず、うつろいゆく、浮動的なものとして考えられる。
 アドルノは言う、晩年作品の破局には「分裂する力」がある。そして、そこでは、引き裂かれ、不協和な状態におかれた様式と慣用が作品を「永遠の記念として保存」するのだ、と。


 注意されたいのは、晩年作品はあくまで「永遠の記念」として保存されるのであり、「永遠」として保存されるわけではないことだろう。「永遠の記念」と「永遠」との間には、大きな意味の隔たりがあるように思われるのだ。
 作品は永遠(≒無限、浮動的なもの)を内包するものとして読むことができるが、しかしそれが作品であるという理由で、これをまた禁じるのである。作品は作品である以上、すでに規定されたものとして我々の前に現れている。浮動的なものは、規定された作品から事後的に見出されるものであり、この順序を変更することは不可能である。
 よって「永遠の記念」という言葉には、直接的に作品の浮動的なもの(多義性)を捉えることへの断念が含まれているように思う*3


 しかし、こうなるとアドルノが楽曲分析から導き出した「火」もまた、一種の「誤読」に過ぎなくなってしまう。同じ誤読であるならば、この方法は彼が手厳しく批判した「心理的な解釈」とレベルは変わらないだろう。ここでは試みられていない布置連関という方法が、アドルノにとってこれらの問題を解決するものだったのではないか、と私は推測する。

*1:旋律に装飾を施すこと。装飾音符のこと?

*2:仮象

*3:これらの問題意識は東浩紀存在論的、郵便的』で指摘された、デリダの「ジョイス産業」への問題意識と多く共有されるものだろう