『大人の見識』

 『国家の品格』以降だろうか、品格をうたった『○○の品格』というタイトルの本がすごく多い。まさに"品格本"花盛りといった感がある。多くの日本人が品位ある行動に努めようと目覚めたため、案内となる「品格本」が求められているのなら喜ばしい事だが、単なる流行なのだろう。

 出張先の書店でたまたま手に取ったこの一冊は「品格」ではなく「見識」を説いている。「品格」というと、ある人物からかもし出される全体的なイメージ、考え方や生き様のような内面的なものと、身なりやしぐさや話し方のような外面的なものとを合わせてのイメージだろう。全体的であり、いささかファジーでもある。一方「見識」となると、その人間の意見や考え方、生きる上での方針であり選択の結果だ。具体的・個別的になる。作者の阿川弘之は大正9年の生まれ、東大の国文課から海軍に入り、戦後は志賀直哉に師事し小説家となった。戦争体験をベースにした作品が多いが、絵本「きかんしゃやえもん」もこの人の作なのだ。

 さて、この本のいちばん最初、序章のタイトルが「老人の不見識 / 序に代えて」。いきなりやられた。最初から強力なパンチ、全くかなわない。この序章に続くのが「日本人の見識」という章。軽々しく騒ぐ「軽騒」な現代日本人を信玄の遺訓を引きながら諭すところから始まり、東条英機批判、太平洋戦争のさなか、ルーズベルトの死に弔電を送った鈴木首相に対する世界の高い評価、そして終戦後その鈴木首相が、「負けっぷりの良さ」を吉田茂に説いたという話・・・。「語り下ろし」形式で書かれた本書は全部で8つの章からなる。「英国人の見識」「東洋の叡智、西洋の叡智」と続き、最後は「孔子の見識」で終る。全編を通して言えるのだが、久しぶりに会った会社のOBか親戚のおじいさんが昔話をしてくれるような、穏やかで優しい雰囲気がある。気構えず、お茶でも飲みながら、のんびりと現代史のワンシーンを語ってくれるのだ。

 序章の最後に「読者がこれを老文士の個人的懐古談として読んで、自分達の叡智を育てる参考にして下されば幸いです」とあるが、まさに「個人的」。阿川弘之という視点から見た歴史が、一人の人間としての明確な立場と考えと意思、即ち「見識」に基づいて書かれている。もちろん逆の見方や立場があることに十分配慮してはいるが、中立公正を期するため、無味乾燥な文字の集合とならざるを得ない歴史の教科書とは正反対だ。語られる歴史に血が通っている。

 一人の作家が「大人の見識」について書いたこの本を読んだ読者は、「見識を持った大人」はこのように語るのだ、という見本をこの本の中に見ることになる。何度も読み返したくなる一冊だ。

大人の見識 (新潮新書)
作者: 阿川 弘之
メーカー/出版社: 新潮社
ジャンル: 和書