『シェイクスピアのたくらみ』

 著者の喜志哲雄は京大の名誉教授。英文学と演劇学の専門家、シェイクスピア劇のオーソリティーだ。シェイクスピアは言わずと知れた天才劇作家。その作品を見る観客はシェイクスピアが繰り出す虚構の世界に浸り、魅了され、幸福なひと時を味わう。いくらかのお金と時間をついやして劇場に足をはこぶ観客にとって、シェイクスピア劇はそれで十分。それ以上でもそれ以下でもない。しかしこの本はシェイクスピア劇が上演され、それを楽しむ観客がいる、という状況のいわば舞台裏をあばく。

 人が生きていく中で体験する様々な事柄はすべて偶然と必然のたまもの。人の運命をつかさどる神様でもない限り誰もそれをコントロールできない。しかし劇場の中で観客が体験することは、神様ならぬ劇作家の手によって自由自在にコントロールされてしまう。すなわち、登場人物Aは知らないことになっているアレコレを登場人物Bの言動によって観客は知っている。登場人物Cが舞台後半で知ることになる事実を観客は事前に知ることができる。そしてそのどれもが劇作家の意図で自由自在にアレンジできるのだ。この事は当然といえば当然なのだが意外と盲点だったりする。この本はシェイクスピアがいかにして観客の心をコントロールしているのか、それを作品ごとに懇切丁寧に教えてくれる。

 本書では全部で24のシェイクスピア作品に言及しているのだが、どれもこれも言われてみれば「そりゃそうだ」と思えるコトなのだが、言われなかったら永遠に気づかないことばかり。『ジュリアス・シーザー』の観客は「ひょっとしたらシーザーは殺されないかもしれない・・・」と思わされるようコントロールされているし、『オセロー』を観る者は心情的にはオセローに共感しつつも、状況認識において彼とは距離を持たされるのだ。

 シェイクスピアは神様のごとく実に緻密に計算高く観客の心理をコントロールする。そこが天才劇作家たる所以だということがよく分かる一冊だ。


シェイクスピアのたくらみ (岩波新書)

シェイクスピアのたくらみ (岩波新書)