<予告編>
ストーリー:1910年代、主人公ビル(リチャード・ギア)と恋人アビー、それにビルの妹リンダの3人は、列車の屋根に乗ってテキサスの農場をめざした。広大な小麦農場で働くのだ。アビーはビルの妹ということになっていた。いつのまにか農場主、プリンス的なチャック(サム・シェパード)はアビーに惚れてしまう。ビルは2人の関係をかくして、アビーにチャックの思いに応えろという。その方がなにかとつごうがいいからだが、思いと裏腹な立場に立たされたアビーはやがて…..
テレンス・マリックの初期の代表作だ。いまだにかたられる映像の美しさはここでああだこうだ言うまでもない。照明で必要以上に人物をハイライトしたりせず、ほとんどやわらかいマジックアワーの光だけを利用して撮った映像は、人々を風景の中に溶けこませて、美しい自然の1ピースみたいに見せる。麦畑でもくもくと働く労働者たちは(農業自体は自然を強烈に改変する行為だけど)大きな自然の流れにただよう、水面の木の葉みたいだ。1910年代、大恐慌時代に食いぶちをさがして農場労働の場をもとめるひとたちだから、じっさい彼らは大きな潮流にもまれて流されながら生きているのだ。(現代の彼らが『闇の列車、光の旅』にでてくる)
物語はテキサスが舞台だけど、もっと北方の草原に見える。それも当然で、ロケが行われたのはカナダのアルバータ州レイモンドやバンフ国立公園だ。『ローズ・イン・タイドランド』を思い出すんだよね。あれもテキサス舞台でロケ地はカナダだった。監督はワイエスやホッパーの絵がインスピレーションの元だといってる。まさにその感じだ。農場主がすむ草原の一軒家、なんだか奇妙なプロポーションだなと思っていたら、ホッパーの絵をサンプルにしていたんだった。途中で動物や植物のクローズアップ、天候のショットが自然モノのドキュメンタリー風に挟み込まれる。風が走り抜ければ、ただの草原がひたすらにドラマティックに映る。監督にアニミズム的感性があるかないかはともかく、自然環境をひとつの出演者として扱っているのはまちがいない。その意味ではタルコフスキーを思い出すね。
ただ、映像にくらべるとそこにあるドラマの魅力は少し乏しい感じがした。お話がどこか平板だったり、キャラクターの感情が今ひとつ想像しにくくて、説明的セリフで理解するしかなかったり。話の展開もこなれていない流れで、やや無理くりの感じがぬぐえない。
じつは監督は編集にそうとう苦労していて、撮影後に2年以上かけている。後になってからどうしても必要になって追加で撮影もした。カナダまでロケに行くわけにいかなくて、知合いの家や、LAの高速の下でクローズアップを撮ったのだ。監督は編集に悩みに悩んだあげく、一人のモノローグで物語を補強することにした。「絵に物語を語らせる映画を撮る」といった監督の目標はたぶん達成されている。この映像の中にいることで、どのキャラクターも尊厳をもって大地に生きている存在に見えてくる。そして物語自体はぼくからすれば偉大な映像の乗り物だ。たとえば突然第一次大戦の戦闘機が現れてだだっ広い草原に着陸するシーンがある。 飛行機から降りてきたのは旅芸人で、彼らは農場主の屋敷に滞在するのだ。そしてこれといった波紋は残さずに去る...だけど草原に現れたフォッカー三葉機の映像はその違和感もふくめてなんともいえない印象的なシーンだ。
キャスティングは正直微妙。若いころのリチャード・ギアはなかなか魅力的だけど、二人の男に愛される恋人役と妹役は、何というか、ある意味リアリティがあり、つまり観客が夢を見られるようなルックスじゃない。中でも妹はローティーンの少女なのに場末の闇ボクサーなみのすごみが顔に見えたりする。まるでラリー・クラークの「タルサ」みたいだ。昔話のように妙に老成した声で、「天国の日々」の思い出を観客に語るのは彼女だ。王子的なサム・シェパードも、『ライトスタッフ』の格好よさはみじんもない。ブロンドのさらさらヘアーにされて、ぱっとしない二枚目におさまっている。
それでも美しい風景がただの環境映像ではやっぱりつまらない。この人たちのこのドラマに乗っているから、ある感情込みで見ているわけでね。終盤、農場を出た主人公たちは船で川を下る。緩やかで河岸の表情が豊かなそのシーンがすごく好きだ。