後白河院と寺社勢力(44)商品流通と政治権力(2)菓子1 官の思

1.「三条以南都鄙供御人等」の意図

   建久3年頃(1192)、源平争乱に伴う混乱から朝廷への生魚の調達に支障を来たした事に頭を痛めた御厨子所が、近江の琵琶湖畔の粟津・橋本で淡水魚を捕魚する漁師を京の一番繁華な六角町に呼び寄せ、朝廷への生魚供御の  見返りに売買店舗の貸与と生魚売買の権利を与えて「六角町四宇供御人」が誕生した事は先回述べたが、これは京の都市機能の転換と京商人への大きな変化をもたらす事になる(http://d.hatena.ne.jp/K-sako/)。

(1)供御安定供給地としての京

    国家の衰退、相次ぐ内乱・地震旱魃により、諸国に分担させた供御(天皇の食事)が滞る事に頭を痛めた御厨子所は、諸国から魚・鳥・精進菓子(野菜・果物)を売買する商人を京の三条以南に招きよせて、朝廷に近接した場所での供御の安定供給をもたらす「都鄙供御人等」型の新たな流通経路を図った。


(2)京商人への営業税の課税

   その上に、御厨子所は、二条以北のお上の地域と区別して、三条以南を商業区域と見なして、この地域で商業活動を展開する寺社権門に属する商工業者たちへの課税免除の特権を剥奪して新たに営業税を課して厳しい財政を賄う事にしたのだが、これを嚆矢として、大炊寮は米屋課役、造酒司は酒屋課役などと、各役所が我も我もと営業税をかける事になる。


2.御厨子所と内蔵寮の権限争い

  文永11年(1174)御厨子所預(※1)紀宗信が「三条以南都鄙供御人等」と記したように、御厨子所は京の三条以南の商業地で魚・鳥・精進菓子(野菜・果物)の売買を行う者には、権門寺社等所属の如何に係らず一律に営業税をかけて支配していたが、やて内蔵寮の役人の御厨子別当(※2)兼任が常態化するに至って(官庁リストラか?、縄張り争いか?)、内蔵寮と御厨子所預の間で供御人支配を巡る主導権争いに発展する。


  これに危機感を抱いた御厨子所預は、内蔵寮との裁判において、精進御園(※3)、河内国大江御厨(※4)、桂御厨鵜飼(桂供御人)、津江御厨供御人、六角供御人、魚鳥供御人(鯉鳥供御人)、菓子供御人らを含む「御厨子所預副進文書一覧(大谷文書)」なるものを提出し、自らの歴史的権限の由来を証明してその正統性を主張している。


  ところで、この「御厨子所預副進文書一覧(大谷文書)」には、平安時代の御園・御厨主体から、鎌倉時代の魚鳥供御人・菓子供御人主体へと供御の形態が変化して行く様子が記され、はしなくも御厨子所が絶えざる権限拡大に励んだ事を物語っている。


  (※1)御厨子所預(みずしどころあずかり):内膳司に属し宮廷の食事を調える部署の中間管理職。

  (※2)御厨子別当(みずしどころべっとう):御厨子所のトップ、長官。

  (※3)御園(みその):皇室・神社の領有する荘園。果実・野菜などを貢進する土地。

  (※4)御厨(みくりや):古代・中世、皇室の供御を献納した皇室所属の領地。


参考文献は以下のとおり


「日本の社会史第6巻 社会的諸集団」(岩波書店


  


「物語 京都の歴史」 (脇田修・脇田晴子著 中公新書