ペルシア クセルクセス 前486―前465

クセルクセス1世の侵略
ダレイオス1世は、再度侵攻の準備を進めたが、エジプトの反乱とバビロンの反乱で実現できぬまま、紀元前486年 に没した。王位を継いだクセルクセス1世は遠征に乗り気ではなかったが、最初の侵攻の司令官を務めたマルドニオスの説得により、紀元前484年にバビロンを平定し、次いでエジプトを平定すると、ギリシア遠征を決意した。
紀元前481年夏、クセルクセス1世は王都スーサを発ち、全軍の集結地クリタラを経て小アジアの拠点サルディスに入ると、ギリシアの各ポリスに使者を送り降服を迫った。これにより、マケドニアやテーバイなどのポリスはペルシア側についた。一方で、ペルシアはアテナイやスパルタには使者を送らなかった。
マルドニオスやメガビュゾスらの指揮するペルシアの遠征軍は、ヘロドトスの記述によれば歩兵170万、騎兵8万、戦車隊など2万に加え水軍51万7000以上(これは三段櫂船1207隻、その他の船舶・輸送船3000隻からなる)これらにヨーロッパ各地からの援軍を加えた総計は528万3000以上という大規模なものであったという。しかしこれは明らかに誇張された数字であり、兵站学上も当時これほどの大軍勢を維持することは不可能と考えられるため、実際に動員された兵力については諸説ある。少なく見積もった説で5万程度、多く見積もった説で100万程度と開きが大きいが、いずれにせよギリシア側の兵力、船舶をはるかに超える規模であったことは間違いない。
紀元前481年秋には、ペルシア軍の再度の来寇がギリシア各地に伝わり、ペルシアの脅威に疎かった諸国も危機を認識するに至った。アテナイの政治家テミストクレスは、スパルタに働きかけてイストモスで会議を開くことを決め、抗戦の意志を固めたポリスの代表者を招いた。ここで、ポリス間の紛争の即時終結(特にアテナイとアイギナ間の紛争処理)、サルディスへのスパイ派遣、ケルキュラ、シチリア島クレタ島に対する援軍要請が宣言された。紛争停止とスパイの派遣はただちに実行され、ここにギリシア連合と呼べる体制が整った。援軍の要請は、シチリア島シラクサカルタゴの脅威により援軍派遣を断念、反スパルタ主義を貫徹するアルゴスが中立、ケルキラは趨勢を見極めるために中立、クレタ島デルポイの神託に従って中立など、空振りに終わった。また、ペルシアの攻撃を真っ先に受ける位置にあるポリスなどにはペルシア側につくものもあり、必ずしもギリシア人が一枚岩になったわけではなかった。
紀元前480年5月頃、ギリシア諸都市連合は再びイストモスで会議を開き、破竹の勢いで侵攻を進める30万のペルシア軍に対して抗戦か降伏かで揺れていたテッサリアの親ペルシア派を威嚇するため、テンペ峡谷に約1万の兵を派遣した。しかし、テンペ派遣軍はマケドニアアレクサンドロス1世の使者にペルシア軍の強大さを説かれて撤退、見放されたテッサリアはペルシア側についた。テンペ後退後、再びイストモスで会議が開かれ防衛策が議論された。ペロポネソス半島諸国はコリントス地狭での防衛を提案したが、アテナイなどが反対した。結局、ギリシア連合軍の作戦立案を担当したアテナイテミストクレスは、テッサリアからアッティカに抜ける幹線路にあるテルモピュライ(テルモピレー)の山間の隘路とエウリポス海峡への入り口にあたるアルテミシオン沖に防衛線を築くことでペルシアの侵攻を食い止める作戦を立て、合意した。
紀元前480年8月、ギリシア連合軍はテルマ(テッサロニキ)から南下してきたペルシア軍と両地(テルモピュライおよびアルテミシオン)で衝突した。スパルタが主力となって防衛にあたったテルモピュライの戦いでは、カルネイア祭によってスパルタは少数の兵しか出仕できなかった上、地元民に内通者が出てペルシア軍に迂回路を教えたために背後を突かれ、スパルタ王レオニダス1世の奮闘むなしく防衛線を突破された。テルモピュライでの敗退により、ギリシア軍はアルテミシオンからの撤退も余儀なくされ、日和見的な立場をとっていたボイオティアの各ポリスは親ペルシアの意志を明確にし、これに追従するかたちでカリュストス、テノスなどアッティカに隣接するポリスにも親ペルシアの動きをとるものが現れた。
ペルシア軍の接近を受け、テミストクレスの布告により、アテナイ住民はトロイゼン、アイギナ、サラミスに避難した。しかし、避難の費用は自己負担だったため、財力のない貧民と一部の聖職者、あるいはデルフォイの神託を誤って解釈した者はアテナイのアクロポリスに籠城した。ペルシア軍の前にアクロポリスは陥落し、アテナイは完全に占領された。
アテナイの要請で避難の支援のためサラミス島に集結していたギリシア連合は、次の防衛策を検討した。ペロポネソス半島の諸国は、アテナイが制圧された以上、アッティカ半島の防衛は不要と考え、イストモスに防衛線を築くことを主張した。しかし、テミストクレスは断固反対し、敵味方双方を篭絡して、なし崩し的にサラミス水道での海戦にこぎつけた。ギリシア連合艦隊をまとめあげることに成功したテミストクレスは、地の利を生かしてペルシア艦隊を破った。
紀元前480年のサラミスの海戦の敗北によってクセルクセス1世は戦意を喪失し、マルドニオスに後を託し、自身はバビロニアの反乱を鎮めるため帰国した。陸上部隊ギリシアの総司令部のあるイストモスのポセイドン神殿に入ったが、ギリシアの防衛線に攻撃は行わず、テッサリアからマケドニアまで退いた。