「ブラタモリ 新宿大久保」再放送決定!

オオクボ 都市の力


 『オオクボ 都市の力』の著者、稲葉佳子さんが案内するNHKの番組「ブラタモリ 新宿大久保」が好評だったとのことで再放送が決まった。
 6月8日(火)の0:15、つまり6月7日(月)の深夜だそうだ。
 今、稲葉さんにディレクターから電話があったとのこと。
 前回見逃した人は是非、見て欲しい。ホンの一瞬だけど、オープニング時に、僕が編集した『オオクボ 都市の力』のカバー(写真)が映る。
 たったそれだけだけど、まったく何も出なかった銀座編では、案内役の岡本哲志さんの『銀座を歩く―江戸とモダンの歴史体験 』に目立った動きがなかったのに、『オオクボ』のほうは注文が結構来た。


 ところで『オオクボ 都市の力』、都市論として絶対にお薦めできる一冊。本当は『趣都の誕生―萌える都市アキハバラ』ぐらい話題にしたかった。読者が重なるかと思ったのだが、そういうこともなかった。
 オオクボと言えば、もちろんあのオオクボである。韓流の渦巻く街、エスニックタウン。ちょっと古い僕のようなおじさんには、国際通りの外国人のお姉さん。
 しかし、番組は百人町の鉄砲隊から始まる。そう、オオクボは江戸時代、江戸を出て最初の宿、内藤新宿の北側にあり、江戸の守りである御鉄砲百人組の大縄地(おおなわち)だったのだ。そして明治には東京の郊外、新開地となり、官僚と軍人、そして社会主義者文人など異色の人びとが住んだ。いまNHKで宣伝している孫文を助けた日本人、梅屋庄吉が住んだのもこの街だ。


 戦後、新宿には歌舞伎町が生まれ、オオクボはその後背地となってゆく。中国人や韓国人が集まり、出稼ぎの人たちも集まった。ホステスさんが住み、連れ込み宿もまた1960年頃から進出してきたと言う。じゃぱゆきさんがオオクボに集まってきたのは80年代半ば。国際通りが有名になったのは、この後だ。
 一方、オオクボは留学生の街でもあった。国際学友会は1935年から留学生受け入れの拠点となっていたし、日本電子専門学校には留学生が多く、また日本語学校も一時期乱立した。
 また90年代前半、「外国人お断り」のアパートが多く、外国人居住が社会問題となっていた。(その頃の話は、まち居住研究会『外国人居住と変貌する街―まちづくりの新たな課題』に詳しい。稲葉さんはまち居住研究会の一員で、もうすぐオオクボ研究歴は20年になる。)


 その後、外国人居住事情も様変わりし、エスニックタウンに変わってゆく。外国人を警戒していた大家さんたちが、日本人の高齢者よりも外国人のほうがまだしも安心と判断したという、なんとも言い難い理由も大きい。そうこうしているうちに、外国人とのつき合いになれてきたという。またニューカマーが経済的に成功し不動産を取得する例も増えて、外国人が外国人のためのアパートや宿を提供している例も増えてきた。韓流ブームで日本人観光客もどっと押し寄せてきた。
 そして今、オオクボは韓国系はもちろん、ミャンマー系、イスラム系などが入り乱れる、日本でもっともエキサイティングは街になった。そこに韓流ブームのおばさんたちも健在で、韓国などから友人・知人を頼って訪れる外国人も増え、一大交流地になってきたというわけだ。


 このようなダイナミックな変動が起きたのはなぜか。
 印象的だったのは、一つには新しく入ってくる人びととの軋轢を乗り越える開放性。社会主義者や留学生を受け入れてきた歴史が育んだ都市性だ。
 そしてなによりも、マイナーを受け入れる都市のヒダともいうべき細街路や小さなビル。安いアパート。
 生物同様に、多様性が環境の変化に適応するための条件だとしたら、大規模で機能的なまっさらなビルだけでは心許ない。希望と大志だけしかない人びとを受け入れる懐の深さが必要だ。それがオオクボにはあった。正統派の近代都市計画から見れば、安全性に欠け、非効率と見られる街だからこそ、いろんな人が生きられたのだ。
 連れ込み宿が外国人アパートに変身するなど、コンバージョンも過激だ。とてもここでは紹介しきれないが、一つ一つの路、一つ一つのビルのなかの店舗の変遷を詳細にしらべたこの本は、都市のヒダのダイナミズムを具体的に、証拠を示しながら豊穣に語っている。通り一遍のルポ、研究報告とはそこが違う。


 まあ、ともあれ、オオクボを訪ねるとワクワクする。
 これはさすがに京都はもちろん、大阪にもない。


 追記:森川嘉一郎さんにもお世話になっとことがある。とても丁寧で良い方だった。
 『趣都の誕生―萌える都市アキハバラ』も面白い。お世話になった講演の記録は盛り場−趣都の誕生(第12回都市環境デザインフォーラム・関西「都市環境デザインのファッションとモード」)。


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