女の子二人がベルです、『壮絶!処女軍団』、累卵の如きもの

みなさんは、学校で、主語・述語や文節について勉強した記憶があるでしょう。では、その「文法」の授業を聞いて、本当に日本語の正しい使い方が分かりましたか? 今日は、我々が教わってきた「文法」の意外な危うさについて考えます。

 先ごろです。低学年の女の子二人が、ベルです。そのちょっと前に、ボール取りの男の子が塀をのりこえて、無断侵入、という件があったあとです。そこへまたまた女の子で、うんざりです。彼女たちはボールではありませんでした。ものさしが庭へ入っちゃったから取らせてください、と言います。ボールならわかりますが、ものさしがなぜ入るんでしょう。
幸田文「ものさし」より

作家幸田文の随筆です。この独特な文章の流れがたまりません。

金川欣二「マックde記号論言語学のお散歩)」の中の「コンテクストの中の日本文化」に、アルゼンチン出身の日本語研究家ドメニコ・ラガナが、幸田文の小説中のある文章の意味をまったく理解できなかったというエピソードが紹介されています。その文章は、「このうちに相違ないが、どこからはいっていいか、勝手口がなかった」。まあ、通用門としての勝手口という知識は要るものの、日本人である我々には特に難解な文章ではありません。冒頭の文章も断章ではあるものの、特に難しいことはないでしょう。

とはいえ、確かに外国人には分かりにくい文章であることは想像がつきます。試しにyahoo!翻訳に、冒頭の文章を入力してみると「低学年の女の子二人が、ベルです。」の部分の訳は、"Two children of a woman of the lower grades are Bell."です。他にどう訳せばいいんだよッと、翻訳エンジンがキレる声が聞こえてきそうです。ちなみに、この文章を読んだ中学生の半分ぐらいも、この「ベル」のことを呼び鈴ではなく人名だと勘違いします。

さらに、翻訳エンジンは、「ものさしが庭へ入っちゃったから取らせてください、と言います。」の部分を、"I say that I let you take it because a ruler has been in a garden. "と訳します。ここでの主語は「彼女たち」ですから、正しくは"They"でなければなりません。

この誤りのそもそもは、この文の主語が「省略」されているからです。ところが、「省略」ではない。もともと、日本語に主語はないんだ、という主張が存在します。

例えば、金谷武洋『日本語に主語はいらない』では、日本語の「主語」は、語順に制限がなく、動詞に人称変化をおこさせず、主格が明確でないなど、英語のような特権性がないことから、「主語」という概念を導入しても日本語の理解に役立たず、オッカムの剃刀で削ってしまうほうがよいという主張をしています。なるほど、例えば、「掲示板に『逝ってよし』と書いてあった」という文章には「省略されている主語」はないようです。

とはいえ、学校文法では、今だに主語というものは自明のものとして扱われています。ここで「学校文法」と書きましたが、現在、学校で教えている文法は、「橋本文法」です。他には山田文法、松下文法、時枝文法などがあります。ふつうの生徒は学校で教わる文法を唯一無二のものだと思っていますから、例えば「形容動詞を品詞として認めない文法がある」などというと変な顔をします。ふつうの子供は、まさか自分が「だれかが勝手に決めたルール」を勉強しているとは思わないものです。

橋本文法、すなわち学校文法にはいくつかいい加減なところがあります。中学校の文法の授業の、たぶん最初か2回目の授業では「文節」というものをやりますが、これもかなりぐだぐだです。通常、文節は、「ネ」を入れて切れるところ、とか、文を意味上不自然でない程度に区切ったものなどと説明されるのですが、これでは全然定義になっていません。「こうしていても、完成しないそうだ」を「こうネ、してネ、いてもネ、完成しないそうだネ」と切るのの、どこが「自然」なのか教えてほしいものです。

このへんの学校文法の変なところに、的確にツッコミを入れている本に町田健日本語のしくみがわかる本』があります。ちなみに、この町田健先生の文体、私は大好きです。例えば、『生成文法がわかる本』では、「うーん、なんか『壮絶!処女軍団』なんていうタイトルのビデオを友達が貸してくれたので、わくわくして再生してみたら、幼稚園の女の子たちの踊りだったみたいな、ちょっと(というか人によってはすごく)期待をはぐらかされたような感はあるのですが(笑)」*1といった調子です。最高です。

主語の話でした。

主語を把握することは、実は文章読解においてはそんなに役に立ちません。大野晋日本語練習帳』で強調されていた「は」はすごく役に立つんですけど。

それでも、「この文の主語は何か?」みたいな問題は、入試によく出ます。どうせ入試に出るのは基本的なものばかりなので、「主語とは何か?」みたいな問題を深く考える必要はなかったりします。主語なんて簡単だよ、「何が?」を表してるやつでしょ?ぐらいの理解で十分なんです。「象は鼻が長い」とか「ぼくは水が飲みたい」とか微妙なやつは出ません。

私は別に主語を教えることは無意味だとか有害だとかは思っていません。子供に対しては、たとえそれがほとんどウソに近くなったとしても、ものごとを単純化して教えなきゃいけないということはあります。ただ、教える側としては、自分が教えているものが所詮は累卵の如きものであるという恥じらいは必要なんじゃないかとは思いますが。

*1:この『壮絶!処女軍団』の比喩は、生成文法の束縛理論の対象が再帰代名詞と相互代名詞に限られることについての感想で出てきました。この文脈でこの比喩が放てる人はそうはいないと思います。