清原なつのさんの新作から(3日加筆改訂)

 ネットでもほんの少し話題ですが、私も「イブニング」に載った清原さんの新作(パラダイスアベニュー)を読みました。前評判はあんまりぱっとしませんが、読んでみ他と頃の感想は苦労してるなーというところです、いっちゃなんだけど、初々しさすら感じるほど手探りで読者を意識して描いてるといったところ、とはいえ自分自身の作品以外を描ける人ではないのですが。担当が人気が出ればどんどん続きますと描いてるのはファンへの脅迫か単なる本音か多少心が動きます。

 で、ちょっと面白かったのが、扉でSF(少し不思議な)というコピーを使っているところ。ご存知のとおり(?)、これは藤子・F・不二雄のキャッチコピーでもあるわけです。ドラえもんその他もSFの範疇に入るわけですが、大人向けの短編もSFであるわけで。そのSF短編の暗澹たることときたら、いやー人生観暗くなりましたよ、小学生にあんなもの読ませるな!といっても勝手に読んだんですが。もちろん、描かれた媒体によって、やや変わってくるのですが、作品のムードやテーマは基本的に灰色の日常を基調にしていました。いやー大人になるのがいやになる様な内容でした(おかげさまで大人にさえなれないわけですが…)。適当に挙げていけば、追憶、後悔、偏執、むなしさという、のがキーワードでしょうか(恐ろしく一面的)、それを日常生活や家庭や「仕事」などに定位して描くものが多かったわけです。とまれ、明るい未来(理想的な大人像)が存在しないという共通点はありました(一時、宮台にすっぽりはまれたのはそのおかげではあります)。ところで、これらの諸短編が描かれたのは実はドラえもんとほぼ平行しているわけです。70年代のドラえもんは「本当に」面白かったですね。そして今考えると、これらの短編とドラえもんは表裏の関係にあったわけです。

 で、多くの人が言ってるでしょうが、「ドラえもん」の本質は「子供である」ことにあるし、短編群は「子供のままである」ことの陰画であるわけです。先ほどあげたような特徴は、実は大人になっても子供であることから来ているわけです(もうひとつ、孤独(SFはこれを表現しやすいし、思春期的な妄想とマッチしやすい)というモチーフがあるわけですが)。昔、医者に藤子マンガの話をしたところ、医者は絵が死んでいると評したわけです、でこれは実際に藤子・F・不二雄の絵を見ていくと70年代の絵というのは徐々に様式化していく過程の絵ですからかなり正当だし、短編群についてはむしろその様式化(徐々に死んでいくこと!)がテーマや作品の基本線をはっきり同調していていいのですね(ある時期以降のドラえもんが読むのがつらいのに重なるわけですが)。

 ネタばれに近くなるけど、清原さんの作品には、藤子・F・不二雄の短編とかなり共通したところがあるわけです。元々、早川文庫に再録されたのも「SFマンガ」としてですし、男性の無邪気な願望や、そのために陥る偏執的行動とその結末(「銀色のクリメーヌ」が典型ですね(「千の王国百の城」所収))を冷徹に描くのは(そうでない場合もある)、彼女のパターンのひとつです。ただここで、男性のというところが問題になるところで女性に関しては違った展開がありうるわけです。主人公が女性であることが多いのは単に少女マンガだからではあります、ただそこで描かれた物語がペシミズム一辺倒、というよりはネガティヴなテーマをネガティヴなまま収束させるあるいはとおり一変な解決をつける作品には、必ずしもならないのが面白いわけです(もちろん初めからのコメディが多いのですが)。清原さんの作品のなかで唐突で奇妙な展開や、ややずれた登場人物が描かれる理由は、私は性的なモチーフの存在が大きいのではないかと思います。それによってSFが仮定しがちな「神の視点」を実は普通には持たないと思うわけです。藤子・F・不二雄のSFが思春期の男の子的(中二病的ということでしょうか、モヒカンチェックで私はタイプ4・ネット中二病でした)だとすれば、もっとあけすけに書けば万能感やサディズムの顕在なわけです。清原さんにはどうしても性的なモチーフ(主人公のあり方や作品の転回ををひとつの超越的な視点から固定させない)が入ってしまうため(思春期男の子的な)SFのような安定(閉塞)をえられなくなっているわけです。今書いたようなSF的なものの基本的な無力さと危うさ(SF的なものを考え方の基本に持っている、当然、上記のような特徴を持つ困った方も結構いるわけで)をきちんと無害化できていると思うわけです。彼女の作品は性的なモチーフを書くということを「マンガ」ですることのひとつの達成ではあると思いますし、それが必要な理由はあると思うのですが。

 でそのような点が今回の作品でうまく出たかといえば、うーんなわけです、分かりやすいといえば分かりやすいけど、男性のあり方(悩み方)に露骨にリアリティがないというのは確かです、はっきり言えば「女性」の「壊れやすさ」と「男性」の「暴力性」に対してあれほど気を使う男性はふつういないと(笑)、ましてあれだけ子供ぽっかったら。今までの場合なら、女性を主人公(視点人物)にすると却ってこのような「変な男性」をうまく出せているのですけど、それは性的なものに直面しているのが女性の側であるからのように思います。もちろん、モチーフの一貫性は確認できるし、中途半端なオチも納得はできるのですが…。

 さてその性的なモチーフを扱うことの理由としては、70年代に藤子・F・不二雄にあったようなある種の閉塞は確実に今も存在するわけです(「1968革命」を起こした変化のもっと大きな結果ではあります)、でそれを考えるのはまた後という事で。そういえばこれはシャウビューネの話ともつながるな。

 なお、「千利休」の書評は近いうち…。

千の王国百の城 (ハヤカワ文庫 JA (667))

千の王国百の城 (ハヤカワ文庫 JA (667))

鹿島則一(8月1日追加)

 ツーわけで、以下の書店で鹿島則一のフォルクスビューネ「終着駅アメリカ」劇評の載った「シアターアーツ」が売ってるそうです、読んでやってください。はまぞうともやっとリンクできるようになりました。なお、この宣伝の意味の分からない方は上記の名前をそのままググってください。この記事とは関係ない予断ですけど、63pで吉野朔実が「朔美」と誤記されています。おそらく編集の誤植でしょう(ファンは気をつけますから)。

http://aict.on.arena.ne.jp/myweb10_018.htm