大伴金村の失脚

日本書紀 巻第十九

  欽明天皇 天国排開広庭天皇

 二年春三月、五人の妃を入れられた。

 夏四月、安羅(任那の一国で慶尚南道咸安の地、日本府のあった所)の次旱岐(官職名か)夷呑渓・大不孫・久取柔利、加羅任那の一国で慶尚北道高霊の地)の上首位古殿渓、率麻の旱岐、散半渓の旱岐の子、多羅の下旱岐夷他、斯二岐の旱岐の子、子他の旱岐らと任那の日本府の吉備臣とが百済に行って、共に詔書をうけたまわった。

 秋七月、百済は安羅の日本府と新羅とが通じ合っていることを聞いて、前部奈率鼻利莫古・奈率宣文・中部奈率木刀昧淳・紀臣奈率弥麻沙らを遣わし――紀臣奈率は、思うに紀臣が韓の婦人と結婚して生まれ、百済に留まって奈率となったもので、その父について詳しくは分からない。他の場合もこれと同様である。

 秋七月、百済が紀臣奈率弥麻沙・中部奈率己連を遣わして、下韓(南韓)や任那のことを報告し、併せて上表文をたてまつった。


三国史記 巻第四 新羅本紀第四

第二四代 真興王(在位五四〇―五七六)

 二年(五四一)春三月、雪が一尺も降った。
〔この月、〕異斯夫を兵部令にし、内外の軍事を統轄させた。
〔この月、〕百済が使者を派遣して講和を求めてきたので、これを許した。


三国史記 巻第二十六

第二六代 聖王(在位五二三―五五四)

 十九年(五四一)、王は使者を梁に派遣し、朝貢させ、同時に上表して、毛詩博士、涅槃〔経〕などの経義、ならびに工匠・画師など〔の下賜〕を要請し、〔梁は〕これをゆるした。