Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ふたつの70


◆70週
それは、そむきをやめさせ、罪を終わらせ、咎を贖い、永遠の義をもたらし、幻と預言とを確証し、至聖所に油をそそぐためである。

①そむきをやめさせ、罪を終わらせ:血統上のイスラエルの悪に向かう傾向を終わらせる。
②咎を贖い:イスラエルの背きの責めが許される。
③永遠の義をもたらし:「新しい契約」が役割を果たして、聖徒らの試みが終了することで、彼らの仮の義も正式なものとなる。
④幻と預言とを確証し:エデンで語られた女の裔に関わる奥義が終了することで様々な異兆や預言が成就する。
⑤至聖所に油を注ぐ:神殿が完成し、契約の箱が置かれる場所も確保され祭祀の準備が完了する。


①メシアの仲介する契約により、仮の義認の状態に入るJer31:34
②メシアの犠牲の贖罪により「神のイスラエル」の罪が贖われる
③仮の義認が、最終的に試みを通過した聖徒には完全なものとなるレヴィの浄め
④メシアによって神の約束がすべて成し遂げられる2Cor1:20/Rev3:14
⑤天の神殿祭祀の開始が可能となったRev11:19


70週は将来のメシアによる天界の神殿建設と祭祀の準備完了に関わっている。
対して70年は、かつて存在した地上の神殿祭祀の回復に関わっている。

70週の起点がいつになるかについては諸説あるが、終点についてはルカが西暦29/30を提出しているが、考古学に鑑み、これはほぼ動かし難いように観える。そこから69週(483年)を逆算するとBC455となるが、アルタクセスクセスの第20年については証拠が無いわけでもないが、考古学が未だ充分に明瞭ではないので、とりあえず、これには関わらないでおこう。キリストの到来年はほぼ特定されるので、これに拘らなくても、また西暦29/30についても解答が出ていなくても然程の問題にはならず、むしろその後の第70週についてが課題になる。
週の半ばでメシアは犠牲と祭祀を廃するとは、地上の神殿祭祀を言う以外に無い。週の半ば即ちメシアの到来から3年半後であり、これはキリストの公生涯の長さになるのだろう。
そして、第70週には多くの(際立った者)との契約を堅く結ぶ(管制する)というが、これはこの最後の一週の全期間が必ずしも69週に連続しているとは言えない。
もし連続しているなら、公生涯の後三年半後に天界の至聖所が油注がれ、祭祀を開始できる状態に入っていることになるが、天界の「神殿の石」は頭石を除いて未だ試みを経てはおらず、建設されたとは言い難い。Isa28:16/1Pet2:4
そこで、残りの半週は終末の42ヶ月に相当すると観ることができる。その理由はそこで聖徒がこの世と対峙して活躍しているからである。彼らの活動期間は三年半とされており、そうして全70週が完了することにより、相応しい聖徒全体が天に召集され、こうしてペテロの言う「頭石の上に神殿として築き上げられる」
神殿の完成は当然ながら至聖所を持つことになり、そこに契約の箱が安置されるのをヨハネが観ている。Rev11:19 そこで早くとも黙示録後にその時節を設定する必要がある。黙示録は主の日の事態を告げる以上、残りの半週は第一世紀に位置してはいない。
それは第七のラッパに吹奏の時であり、「奥義は終わりに至る」時となる。なぜなら、神の王国がここに完成し、女の裔の全容が現れたからである。また、第二神殿時代に箱は無かったので、この意味は相当に重くなる。
全体から見た場合、70週の意義は、まず69週でのメシア到来のおおよその時期を予告したことになるだろう。ついで7週には城市の再建が関わっているのかも知れない。だが、今日の観点からすれば、まったく第70週に焦点を合わせるべき理由がある。それはメシアのパルーシアの時期をおぼろげながらにも教えないが、何を待つべきかは明瞭にしている。それは、ただ終末があってハルマゲドンが来るというような単純で不鮮明なものではない。大いなるキュロスによってバビロンの束縛から解かれる者らが表れ、無数の追随者がその流れを変えるという、古代の対型の起こることであろう。それは聖霊が行うことで、人間に由来しない。



◆70年
エレミヤの70年はユダと近隣諸国がバビロンに仕える事柄を直接には指している。次いでエルサレムの地の安息を言う。Jer25:1-38
しかし、70年そのものはそれを示さず、当時のユダヤ人も両方の意味にはとっていなかった。Zec7:5-
したがって、キュロスによるバビロン征服は「七十年」の終了とはならない。それは神殿破壊から47年目の秋だった。だが、それを契機にして神殿再建と祭祀に復興が可能となり、23年後に完了する道を拓いた。
もし、その年に70年が終わったなら、2年後と4年後のいずれかでもダニエルなりガブリエルなりが発言しても良いのではなかったか。そしてバビロンが荒れ野になったわけでもない。ユダヤ人の多くが引き続き住むことを願った洗練された都市で在り続け、六世紀にはバビロニアン・タルムードを生んでいるほどである。考古学もバビロンの荒廃が何時かをまだ知らない。

サラの出産はともかく
イザヤのシオンの子らの帰還は、象徴的70年の途中経過を表している。「王たちが懐に・・」とはそういう意味か!ならば「街道」も理解できる。

70が安息であれば、その適用される全体は70週になる。70が年であったなら、70週は当然に70周年490年になる。
年間にこれを適用することは7×7=49日か70日かになる。無酵母の翌日から数えて49日はパスカとの関連が深く、恰もパスカの一部のようである。ニサン16日からシワン5日まで49日、ニサン14日からなら51日でシャブオートまでは52日、年間の週の数に相当する日数364となる。
シャヴオートを迎えた日にアロンの聖別があったか。レヴィの浄めはレヴィ記にあり、それは荒野で一度だけ行われたようである。
しかし、対型的シャヴオートに注目する必要がある。



エズラの書く文脈は2Chr36:21-
36:19 彼らは神の宮を焼き、エルサレムの城壁を取りこわした。その高殿を全部火で燃やし、その中の宝としていた器具を一つ残らず破壊した。
36:20 彼は、剣をのがれた残りの者たちをバビロンへ捕らえ移した。こうして、彼らは、ペルシヤ王国が支配権を握るまで、彼とその子たちの奴隷となった。
36:21 これは、エレミヤにより告げられた【主】のことばが成就して、この地が安息を取り戻すためであった。この荒れ果てた時代を通じて、この地は七十年が満ちるまで安息を得た。
36:22 ペルシヤの王クロスの第一年に、エレミヤにより告げられた【主】のことばを実現するために、【主】はペルシヤの王クロスの霊を奮い立たせたので、王は王国中におふれを出し、文書にして言った。
36:23 「ペルシヤの王クロスは言う。『天の神、【主】は、地のすべての王国を私に賜った。この方はユダにあるエルサレムに、ご自分のために宮を建てることを私にゆだねられた。あなたがた、すべて主の民に属する者はだれでも、その神、【主】がその者とともにおられるように。その者は上って行くようにせよ。』」



21節だけを読むと地の安息が70年となるが、総じて読むとバビロニアの神殿破壊とペルシアによる再建が対置されている。
キュロスの第一年に・・YHWHの言葉を実現するために・・キュロスの勅令が下ったとは、その『実現』はキュロスの勅令の結果として訪れるものとなる。それは即ち神殿の再建でありBC516年に完成し翌515年に奉献されている。それはBC586から70年を数えることになる。


こうして双方を見ると、予型τυποςと対型αντιτυποςであったことになる。
70年は小規模にエルサレム神殿の祭祀の回復を示したが、70週は天界の神殿での祭祀の開始を指し示している。
なぜ70年が示されたかは、祭祀の回復の過程が将来に起こる聖徒らによる地上の働きと、キリストを隅石とする天界の神殿が機能を始める時に起こることについてその価値を悟るよう、また、起こる事柄の順序を予型として示すところにあったと言えよう。
539秋なら537秋までが二年、翌イッヤールまでがほぼ半年。
536秋なら全体がほぼ三年半、しかし、終末の42ヶ月は定礎では終わらない

双方に関わるのは、それぞれのイスラエルの残りの者と、そのきっかけを作るキュロスと大いなるキュロス、それから罪を問われるふたつのバビロンとなる。


◆バビロン
永遠に罪を問われて荒れ果てるバビロンとは、70年においてはその通りに実現していないところにおいて、将来の対型があることが示されている。
それは、永きにわたり神殿祭祀を妨げたものであり、70年の場合には新バビロニアであり、70週の場合には大いなるバビロンであろう。
大いなるバビロンは聖徒の血に酔うことにおいてその罪を明らかにしている。
その宗教は、教理において回復を許さず、キリストの教えを異教の崇拝の中に閉じ込めて来ているのであり、それを解放する素振りさえ見せていない。即ち今日のキリスト教界はキリスト教に対してバビロニア帝国として振る舞っている。だが、そこに東からの猛禽が興される。さすがに聖霊によって語られては強固な伝統的キリスト教界と雖も、信者をつなぎ止めておくこともできなくなるに違いない。また、それだけが頑迷固陋な宗教組織から人々を解放するものなのだろう。(ただし、その人々の多くが新たに変形したキリスト教に向かうのであろう)
したがって、現今のキリスト教は大いなるキュロスによる勅令を必要としているのであり、それは「その時その日その月その年」という極めて狙い澄まされた神の指示を待たねばならない。それはキュロス大王の勅令が結果的に70年を正確に導き出したようにである。Rev9:15

そのときに至れば、ユフラテ河畔を発した四人の使いは聖徒となって神殿再建の業にとりかかるのであろう。彼らはエシュアがそうしたように、まず祭壇を自然石で造り、そこでの簡単な祭儀を開始することになる。それは天界の神殿での祭祀の先駆けであり、地上での崇拝の回復ともなる。そこに聖霊が注がれ3年半の間、彼らは地上で宣教の奉仕に携わるがそれは苦境の中で行うことになる。この世の全体と対立することが避けられないからである。
しかし、彼らの登場によりキリスト教は回復され、「三分の一を殺す」ことになる。即ちキリスト教世界は、聖霊を持つ者らの登場により、一切の正当性を失い神の前に死ぬ。

そこでエレミヤの言葉
25:12 主は言われる、七十年の終った後に、わたしはバビロンの王と、その民と、カルデヤびとの地を、その罪のために罰し、永遠の荒れ地とする。
これは、大いなるキュロスによる四人の使いの解放という黙示録の方の内容によく沿うものとなっている。
古代にはキュロスによって解き放たれた「残りの者」が翌年に祭壇を築いている。それを聖徒の登場と見做すことができそうである。つまり、それは「七十年の終った後」、その翌年のことであった。いや、そうではなく、「七十年の終わった後」なら、非常に細かい順序を知らせてはいないか?つまり、聖徒の死のあと未だ「七十年」は完了せず、なお「三日半」の猶予があり、その後「都市が三つに裂け」いよいよ「大いなるバビロンの滅び」を迎えるが、その直前に神殿は完成することになるのでは?そうして「七十年」に相当する期間が終わりを迎え、おそらくは神殿の奉献を以って大いなるバビロンはその「罪を問われ永遠の荒れ野となる」それがつまり十の角による大娼婦の攻撃ということが云える。ということは「七十年」の意義は黙示録にも生きていることになり、エレミヤの言葉は黙示録の中にまで影響しこだましていることになる。これは律法の幕屋、また第一神殿後の聖書の新旧を貫く非常に巨大な構造体というべきか?
終末では、黙示録の四人が解かれると、キリスト教界が光を失うことは目に見えている。つまり「三分の一を殺す」。それをバビロンの王とカルデア人の地を荒廃させる」というなら、エレミヤの言葉を理解することはできる。キリスト教界は異教化しており、その手から頑固にキリスト教を放さないに違いない。つまり聖徒の言葉にも耳を傾けず、却ってその迫害と殺人を慫慂するという二重人格的悪辣さを発揮するような精神を既に十分に見せている。



「誰が東より人を起こすか?」Isa41:2
【主】は、油そそがれた者クロスに、こう仰せられた。「わたしは彼の右手を握り、彼の前に諸国を下らせ、王たちの腰の帯を解き、彼の前にとびらを開いて、その門を閉じさせないようにする。
45:2 わたしはあなたの前に進んで、険しい地を平らにし、青銅のとびらを打ち砕き、鉄のかんぬきをへし折る。
45:3 わたしは秘められている財宝と、ひそかな所の隠された宝をあなたに与える。それは、わたしが【主】であり、あなたの名を呼ぶ者、イスラエルの神であることをあなたが知るためだ。
45:4 わたしのしもべヤコブ、わたしが選んだイスラエルのために、わたしはあなたをあなたの名で呼ぶ。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに肩書を与える。
45:5 わたしが【主】である。ほかにはいない。わたしのほかに神はいない。あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。



予告通りに何かが起こったとしても、そこにどれだけの価値があるのだろう?神の予告はそれを超えている。予言は驚かせ、もてはやされるかも知れないが、預言には単に驚かせることでなく、神の倫理観を含んだ計画性がある。全体が経綸を成していて、それが人に神との関係性を迫るものとなっている。その関係性が人を救うものとなるのであり、ただ畏れさせることを目的としないのが神の預言であろう。
ただ時を信じるというのは、神を度外視してもできることではないか?また、現エルサレムに神殿を再建することの無益さ、ユダヤ人にかぶれるクリスチャンの矮小さ、70年の終了をバビロン陥落に当てはめ終わりの日とパルーシアを算出する企図の虚しさ、など、多くのこだわりを暴いてしまわないか。どんなに人がキリスト教を回復しようとしても無駄であろう。それは日の出の方角からのペルシアの大王とメディアの副王らを待たねばならない。それでも、自論に固執する人は多そうだ。「大いなるバビロン」が滅んでさえ、大半のキリスト教徒は以前の教理を残したキリスト教を信奉し続けるようだ。ただ、新たな偶像と教理を得るところは変わるらしい。


◆要素
70年
・他国の王に仕える
・キュロスの征服
・安息の満たし
・帰還事業
・アリヤー
・ナハムー(子らの帰還)
・シオン神殿再建
・祭祀の再興
・バビロンの没落・荒廃

70週
エルサレム再建
・メシアの到来と死
・祭儀の中止
・契約の締結
・咎の終りとイスラエルの浄め
・至聖所の油注ぎ
・全ての預言が確証され奥義が終了


黙示録
・ユフラテ河畔の使いを解く(蝗)
・日の上る方角からの諸王の到来
・騎兵の出現
・天の至聖所の箱
・ゼルバベルとエシュア
・メシア王国の完成と奥義の終了
・バビロンの没落
・バビロンの滅び
・聖徒の死と召し
・ラッパの宣告


要素の場所
エレミヤ
 70年間異邦で仕える民
 バビロンの没落
ダニエル
 70週とその意義
イザヤ
 キュロスの役割
 ナハムーと子らの帰還
エズラ
 70年の終り
ネヘミヤ
 70週の始まり

ハガイ・ゼカリヤ
 神殿再建・王なる祭司・バビロンに移る罪
ヨエル・ミカ
 蝗害・子らの戦い


ヨハネ
 黙示録
日の上る方角からの王たちの道が開かれる(以下、定礎後)
使いの解放が三分の一またはバビロンを没落させる
しかし、責苦は三分の一から世界へと広がる
バビロンは聖徒を攻撃し殺させる(罪は移る)
三日半後に天に召され十分の一が死ぬ
バビロンは三つに裂ける
鉢を渡すのは使いではなく生き物だが、注ぐのは使い
神殿ではなく天幕から
神殿の建立 箱の安置 祭祀の準備が整う
王国の設立
完全な義の到来

(なぜ幕屋かと言えば、神殿を構成する者らの完義が待たれるからか?それでなお鉢は解放の前なのか)
四人の騎士、ハルマゲドンは奥義の終了の後で、メシア王国の完成の後になる

キリスト教はどのように捕囚となったのか?

                              • -

こうしてわたしが祈りつつ語り、我が民イスラエルの咎を悔いて言い表し、聖なる山のために神YHWHの御前に伏し願っていたときに
 それは夕べの捧げ物の時刻であったが、我が祈りをいまだ語っているそのときに、初めの幻の中で見た人ガブリエルが素早く飛んで来るとわたしに近づいた。
そして彼は、わたしに悟らせるようにして、わたしと話してこう言った。
「おお、ダニエルよ!あなたに知恵と悟りを与えようとしてわたしは来た」
「あなたの嘆願の祈りが始められたときに、言葉が発せられたので、わたしはそれをあなたに知らせに来たのだ。あなたは大いに寵愛されている、その言葉を熟考し、それを悟れ。」
「あなたの民と聖なる城市には七十の週が定められている。それは咎を止めさせ、罪に終わりをもたらし、邪悪さを償い、永遠の義をもたらし、幻と預言を確定し、聖の聖なる処に油を灌ぐものとなる。」
「これを知って、理解せよ。
エルサレムを修復し建てよ、との勅令が下ってからメシアなる王子まで七週、六十二週がある。」
「困難な時期の内に、街路と城壁とが再建される。」
「その六十二週の後でメシアは断たれる。しかし、それは彼自身のためではない。
[ לֹ֑ו וְהָעִ֨יר]」
「そのうちに、来るべき君主の民が街と聖所を破壊する。その終わりは洪水のように臨む。最後まで戦争が続き荒廃が定め置かれている。」
「彼は一週の間、大いなる者たちとの契約を扱い、その週の半ばで犠牲と供え物とを廃させる。」
「それから、荒廃させる者が憎むべきものの翼に現れる。そして遂に定まった終わりがその荒廃に横たわる者の上にも注ぎ出されることになる。」



『大いなる者ら』[לָ רַ בִּ ים]ララビーム
LXX;[διαθήκη εἰς πολλούς][πολλά]では"Very"の意あり。





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