Notae ad Quartodecimani

情報や資料のノートの蓄積

ネヴィイームの語る『シオンを憂う者』

イザヤの語るシオンと再建者


Isa52:1『シオンよ、さめよ、さめよ、力を着よ。聖なる都エルサレムよ、美しい衣を着よ。割礼を受けない者および汚れた者は、もはやあなたのところに、はいることがないからだ。
52:2 捕われたエルサレムよ、あなたの身からちりを振り落せ、起きよ。捕われたシオンの娘よ、あなたの首のなわを解きすてよ。』
ここではシオンまたエルサレムたシオンの娘が共に語られているが、双方の深い関連性を述べていると捉えることもできる。
もしそうであれば、イザヤの後ろの部分には終末に至る道程が描かれていることになる。(そうなると「第三イザヤ」という区分もまったく陳腐化する)
『シオンよ覚めよ!』はイザヤ後半の概要からして『シオンの子ら』の母親に違いなく、聖徒を意味しない。cf;黙示12章

Isa60
『起きよ、光を放て。あなたの光が臨み、主の栄光があなたの上にのぼったから』で始まり、最後の22節までこの『女』について語っている。
であれば『弱い者は強い国となる』とは『神のイスラエル』について言うのではないことになる。この件でイザヤ書中での『わたしの民』とYHWHが指す相手がシオンの子らを指してはいないケースに度々出会う。それがシオンかというと必ずしもそうではないようなところがある。この背景にはヒゼキヤの時のアッシリアからの保護の事例があるかも知れない。それについてイザヤ書は以前にそれなりのスペースを割いていたし、その預言の対型となると『シオン』と『子ら』を含まない「エルサレムの戦士らまた住民」とも言える。すると、イザヤ2章のような諸国民の参集がシオンに対して起こるのは、北の王の攻撃の脅しの前となる。(これは当然のように思えるが、それでメシアは「恐れ慄いてはならない」と終末預言で言われるのか?)<これはまだ何とも言えない2022.8>
61:1をメシアが自らに当てはめているが、61:3からはそのメシアから割当を受ける者らについて『シオンの中の悲しむ者に喜びを与え、灰にかえて冠を与え、悲しみにかえて喜びの油を与え、憂いの心にかえて、さんびの衣を与えさせるためである。こうして、彼らは義のかしの木ととなえられ、主がその栄光をあらわすために/植えられた者ととなえられる。この口語訳での『シオンの中の・・』は必ずしもそうは訳されず、『シオンについて』との訳もある。シオンの廃れた状態を中から憂うよりは、『打ち捨てられた廃墟』に対する外からの憂いの方が状況に沿うし、ネヘミヤへの連なりも良い。また、ネヘミヤに報告したハナニはユダから来たが、エルサレムからとは言われていない。しかし、この時点で(前445)ではエルサレム神殿は再建されて60年が経過しているので、住民は少ないながら住んではいる。そうなると、61:3は『シオンの中で』でも良いようだが、ネヘミヤの立場は指していないことになる。ではどちらか?
61:4 彼らはいにしえの荒れた所を建てなおし、さきに荒れすたれた所を興し、荒れた町々を新たにし、世々すたれた所を再び建てる。』と続けているが、やはりこれは聖徒について言うのではないことになる。しかも、『シオン』そのものでもない。その者らは『シオンのゆえに嘆いている人々』【共同】であり、『いにしえの荒れた所を建てなおし、さきに荒れすたれた所を興し、荒れた町々を新たにし、世々すたれた所を再び建てる。』61:4 これは使徒会議で議決を述べるヤコブを連想させるのでアモス9:11とイザヤ45:20-21同じく58:12『久しく荒れすたれたる所を興し、あなたは代々やぶれた基を立て、人はあなたを『破れを繕う者』と呼び』との句も関係していることになる。これはネヘミヤ記との関連を指している。しかもイザヤ58章の『あなた』というのは聖徒ではないらしい。なぜなら『ヤコブにその罪を知らせよ』(58:1)とある。
58:12の訳は
『あなたのうちのある者は、昔の廃墟を建て直し、あなたは古代の礎を築き直し、「破れを繕う者、市街を住めるように回復する者」と呼ばれよう。』【新改訳】
『人々はあなたの古い廃虚を築き直し/あなたは代々の礎を据え直す。人はあなたを「城壁の破れを直す者」と呼び/「道を直して、人を再び住まわせる者」と呼ぶ。』【新共同】
これらの翻訳でははっきりしないが、建て直す者は『住めるようにする』また『人を再び住まわせる』のであるから、直接に『シオンの子ら』を指してはいないらしい。(要確認)

アモスの当該箇所は以下の通り。12節以降については聖徒について述べているように見えるが、11節の再興の業を為す者が誰かは不明。
『9:11その日には、わたしはダビデの倒れた幕屋を興し、その破損を繕い、そのくずれた所を興し、これを昔の時のように建てる。
9:12 これは彼らがエドムの残った者、およびわが名をもって呼ばれるすべての国民を/所有するためである」と/この事をなされる主は言われる。
9:13 主は言われる、「見よ、このような時が来る。その時には、耕す者は刈る者に相継ぎ、ぶどうを踏む者は種まく者に相継ぐ。もろもろの山にはうまい酒がしたたり、もろもろの丘は溶けて流れる。
9:14 わたしはわが民イスラエルの幸福をもとに返す。彼らは荒れた町々を建てて住み、ぶどう畑を作ってその酒を飲み、園を作ってその実を食べる。
9:15 わたしは彼らをその地に植えつける。彼らはわたしが与えた地から/再び抜きとられることはない」と/あなたの神、主は言われる。』【口語】

Isa59の最後は『主は言われる、「わたしが彼らと立てる契約はこれである。あなたの上にあるわが霊、あなたの口においたわが言葉は、今から後とこしえに、あなたの口から、あなたの子らの口から、あなたの子らの子の口から離れることはない」と。』これを理解するに当たり、シオンとシオンの子らとの関係を想定するべきかもしれない。(Joh14:16)シオンそのものに聖霊の注ぎはないと捉えるべきかがこの句では曖昧になる。ただ、前の句で『主は、あがなう者としてシオンにきたり、ヤコブのうちの、とがを離れる者に至る』【口語】と言うところは分かり易く見える。

Isa61ではシオンの子らが揃うだけのことでなく、『他国の人々が立ってあなたたちのために羊を飼い/異邦の人々があなたたちの畑を耕し/ぶどう畑の手入れをする。』だが、この後の文章は『祭司と見做される』61:6 以上、聖徒を指すように読める。この辺りは不明瞭。

Isa62の冒頭から明らかにシオンについて語られており『YHWHの口が定める新しい名で呼ばれる』。また11-12節では『 62:11 見よ、主は地の果にまで告げて言われた、「シオンの娘に言え、『見よ、あなたの救は来る。見よ、その報いは主と共にあり、その働きの報いは、その前にある』と。
62:12 彼らは『聖なる民、主にあがなわれた者』ととなえられ、あなたは『人に尋ね求められる者、捨てられない町』ととなえられる」』と母親と子らがはっきりと別に語られている。

Isa63のエドムの謎は、ユダ王国が捕囚に堕したときのエドムの実際の非道を指すとすれば、これは脱落聖徒を指すともとれる。これはエレミヤ49、エゼキエル35、オバデア、哀歌4、申命23、詩137に関連している。⇒『口の息』『言葉が裁く』『口から突き出した諸刃の長剣』
但し、Isa62章でシオンへの言及は一旦終わっているらしい。63章以降はいよいよ終末に入った後が描写されているようで内容が千年期に近い印象がある。
それでも最終章において、再びシオンについて語られるが、さらに注目すべきは『彼女を愛するすべての人よ。彼女と共に喜び楽しめ/彼女のために喪に服していたすべての人よ。』【新共同】とあり、シオンそのものとは別に語られている。ということは、『シオン』を覚醒させる』なりは人の努力では及ばないことかもしれない。だが、その人々がシオンを建てていることからすると、何もしないわけではない。では、シオンをどう築くのか?⇒ネヘミヤか?

また66:19『わたしは彼らの中に一つのしるしを立てて、のがれた者・・・彼らはわが栄光をもろもろの国民の中に伝える』とあるが、これは黙示録の騎兵隊を指すとすると整合性がある。『彼らはイスラエルの子らが清い器に供え物を盛って主の宮に携えて来るように、あなたがたの兄弟をことごとくもろもろの国の中から馬、車、かご、騾馬、らくだに乗せて、わが聖なる山エルサレムにこさせ、主の供え物とする』という言葉からすれば、この彼らというのは、その前の『印を立てた』ところで『のがれた者』であり、また神の栄光を諸国民に伝える者でもある。『わたしはまた彼らの中から人を選んで祭司とし、レビびととする』というのは、それらシオンに参集して子らを運んで来る者らからも聖徒が興されると言っているように読める。

但し、イザヤ書でこれらの内容は常にユダの罪咎と共に語られているし、それはエレミヤやエゼキエルでも変わらない。神殿喪失と再建に至る道程が、シオンの再興に関わることを告げるかのようであり、また、それが現状のキリスト教界の汚染の中からの聖徒への道が拓かれる将来を教えていると観るべき理由は強い。
また、ここで強く注目するべきは『シオン』自身ではないものの、シオンを憂う者、それを再建する者が預言の中に存在し、シオンに対する重要な役割を果たしていること、また、シオン自身がその子らに優った規模を持つこと(当然とも言えるが)により、終末での役割は聖徒に優るとも劣らないという驚くべき(現時点では)内容が込められていることであり、これは新約聖書の中には無く、福音書のイエスの『忠実にして聡き家令』についての僅かな言葉と、黙示録に隠された仕方で述べられているばかりなのである。おそらく、ユーフラテスを立つ四人の使いというのは聖徒ではなかったらしいのである。<これは近いうちに訂正しなければならなくなるように思える>そう見れば、蝗、四人の使い、騎兵隊の全体がイザヤ書を通して一望できることになる。
(反論)『四人の使い』を黙示録の方向から見ると、エルサレム再建のニュアンスよりはよほど『三分の一』への攻撃にウエイトがかかっていて、ただ決められた時刻にユーフラテス河畔から解かれることで、唐突に騎兵の話に進んでいるのであるから、しかもこの騎兵は攻撃的であり防衛するためのものではない。エルサレムも城壁再建もそこに意味は無い。『解かれる』というのは、「シオンを目指して進む」という概念が薄い。あるいは聖徒に起こるパリンゲネシーアを意味するのかもしれない。そうであれば、五ヶ月で蝗が去るという事柄に意味がかかる。
この騎兵は積極的であるところは、三分の一を含めた『大いなるバビロン』の滅びにも趨勢を作るのだろうか。
黙示録のここからエルサレム城市建設を見るには無理がある。それは千年期以後に見られるものか。

しかし、これらのネヴィイームの預言の句は、地に実在するシオニズムへの誤解の危険を相当に孕んでおり、終末での異論の噴出と脱落聖徒からの『不法の人』を介在させるものとなり兼ねない。聖書とは常に諸刃の剣ということになろう。おそるべき論争の種がここにも撒かれているのであれば、聖書に厳密に従おうとしてメシアを退けたユダヤはそれを再演するのだろうか?その下準備は着々と行われているようだが。ともあれ、聖書一神教界の頑迷さには一方ならぬものあり。
現状ではシオンは光を放っておらず、覚醒したのかも不明。おそらくは異教の汚濁の中にいまだ佇んでいる。それでも『葡萄を撒く者が踏む者に追いつく』というのは(逆の訳もあり)収穫が膨大だということか、もし逆ならハバククのような意味にもとれる。撒いた傍から収穫など本来起らず、収穫する傍で耕すのは季節を無視しており、双方とも時間の著しい短縮になる。
ともあれ、少なくとも『シオンを憂う』ということは今出来ることである。

エルサレム再建」というテーマは終末で非常に厄介な問題を作るのが見えている。様々な旧約の句が誤用されると思われる。


それから
総じて、神殿の再建よりも70年ちかく経て後の城壁の再建の事跡が終末の対型では先になることになる。しかし、これは一つ一つの出来事が独立して前表として語られたと観ることで解決して良いようだ。一つの理由として、終末での二度のエルサレム攻撃行動の前表でも、アサ王の事例が後(ハルマゲドン)に、ヒゼキヤ王のものが先(北王の恫喝)になっている。

※『エドムの残りの者』という部分はネイティヴにどう読めるか前後を含めて確認しなければAms9:12/Ezk36:5


<口語訳と岩波委員がどうにかという具合で、便利に汎用できる日本語翻訳でよく流通しているものがないという現状にはいつも苦しんでいる。それは何も自己流の解釈を通し易くするというつもりでなしにそうなので、NKJVの直訳でもあればと思うこともしばしば。キリスト教界ほ方こそ、三一の常識やらに偏向しているではないか。原語と翻訳語の乖離は避けられないし、そのうえ本文での意味も確定しないところもある。そこで原語を参照しても読み手のとり方になるところがあり、それも理解の土台に影響するようなものもある。ある程度は語意、文法、古代用例が決め手にもなるのでその知識を与える方法は欠かせないが、最後は書き手と読み手という人と人の問題になるように思う。全体像や書き手をどこまで、またどう理解しているのかという見識がものをいうと思うけれど、最終的にその人の価値観や倫理性に行き着くように思う。であるから、聖書をどう読むかとは人それぞれになることは否めないし、そうだからこそ信仰というものに意味があるのではないか。(それでも人のレベルの違いというものもあるが)探求を進めても判断するのはやはりその人であり、数式のような正解を求めていれば、メシアの現れの時の宗教家のようにならないものか。知識に長けた人々の理解が幼稚であったり、無神論であったりする例は結構に多い。いや知識に長けるほどその比率は高いようにさえ見える。この幼稚さと無神論とは同じ事柄の裏表なのではないか。>






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