捨てネタを拾ったのはなぜだったのだ?

ふと思ったこと。

なぜアメリカの民主党同性婚の話題を大統領選挙のメインテーマのようにしたのか。メインテーマにしたつもりはなくても、どうしてもこの話題が一番に耳目を引いたことは間違いなく、そしてこの件に関しては考え直す余地のない人が多いだろうことは最初からわかっていたはずだ。


もともとそういうそういう話があったところに機が熟してきたからじゃない? 第一それは人にとって根本的な権利を認めるか否かの話なわけで大事じゃない? そう、多分大事だ。しかしそれは今緊急に大統領選挙でケリを付けるものか? 


同性婚については、根本的な人の権利だという考えでざっくり考えを終える人もいるが、ものは考えようなわけで、個人のチョイスの問題だから国家に関与させないところで好きにすればいい、そんなものは国家のイッシューじゃない、そんなことまで国家に管理させるなと考えるも大勢いる。それはそれで理解可能だし、アメリカの伝統的保守の人は、別に宗教で頭がイカレテなくてもそうだ。


キーは、国家が決めた正邪を避けたいというところで、悪くすれば、では宗教を国家がauthorizeした規範の上におくのか、と危険な気持ちにもなるが、「個人の自由」を高く買い、その個人がある程度社会性があることが望ましい、といった考え方をする人ならば、多分こっちを選択するのが筋が通るとも言える。国家を怖がり、できるだけ俺たちの良心問題に関与させない選択をすべしだ、というのは古典派リベラルならそう選択するかなとも思う。


だから、逆にいえば、古典派でないネオ・リベラルは、とても国家主義というのか、authorizationしてしまって所属員をどこまでも従わせるという考え方を選択しているとも言える。すべて法になったもので仕切りたいと。なぜそのようなことになったかと言えば、社会の中で適度に調和的にやってける個人もいるが、あまりにも問題が多すぎる個人もいるということかなとも思う。


例えば、ドメスティック・バイオレンスなどがこの例かもしれない。何か問題があったら即座に911、警察に電話するという思考形式が一般に是とされている。日本の普通の人が考えているよりはるかに911は「広い」意味で使われている。日本の、なんとかホットラインみたいなのも全部そこだ、と考えるといいのかもしれない。で、そこから諸々のソーシャルワーカーが拘り、例えば妻は危険から去り、一方で夫は裁判所の判断で、つまり公権力によって、妻から引き離され、会ってはいけないという規則等々が設置され、その後それを破れば法を破ることになる。この仕組みは、個人の危機を解消するため、また社会の安全のために当然必要な施策だというのは誰しも認めるところだ。しかしながら、「私」はどこまで社会という名の公権力の求める個人にならなければならないのか、とこの圧倒的な力に恐怖を覚える人がいたとしても、それほど批判されるべきでもないだろう(反社会的であることの自由はないのだと、一般論としてはそう言えたとしても)。


しかし、メディアに露出してしまったもの、あるいは両方の支持者が口をついて出てしまうものは、こういう話ではなかった。認めるか否かであり、寛容か不寛容だった。これは圧倒的に考えが足らない。


このへんは、カナダで同性婚が話題になった時に書いた記事をお暇なら読んでください。自分のサイトは落ちたままですが、晶文社さんのところのサイトはまだ生きているようで、よかったよかった。


終らない棒倒し 第8回 あなたがくれたポストモダン
http://www.shobunsha.co.jp/html/owaranai/08.html

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カナダでこの手の価値観の自由あるいは少数者の権利の話題となると必ずと言っていいほど引用されるのは、今でも最も人気のある政治家ピエール・トルドゥー(首相在任1968-79、1980-84)の、「国家は個人のベッドルームに介入する権利はない」である。政治、あるいは国家が管理するのは個人の社会的側面であって、個人の道徳的側面ではないことを示している。が、まさに彼が言う通りなのだとしたら、結婚とはそのどちらに関わる問題なのかという問題が出来し、人によっては、完全に個人的出来事だと答えるかもしれない。であれば今起こっているような問題は起こり得ない。しかし、ここにあるのは、結婚をわざわざ国家に届け出たい人がいて、それが受領されるべきか否かを、万難を排し、はっきり言えば、議会での議決ではなく、裁判所主導でルールを決してしまおうという作戦勝ちに出ながらも国家への登録という成果を勝ち取ろうという話だ。

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長らく同性婚の運動にかかわってきたDavid Valleeは、このことを、率直に着編めて興味深く告白している。「ゲイの権利の問題はその成功によって堕落している。重要な戦い、例えば、無犯罪化する、自由化する、ともあれ認められるようになるという点では既に勝利している。その結果ゲイの活動は、とても保守的な道を歩くようになった」  *着編めて→極めて、の変換ミス。

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そういうこと。つまり、フェーズは既に変わっていることを認識しないままに、ゲイを認める=自由の追求とばかりに言う人びとは軽卒であるか、でなければ言辞の裏にあるものに思いいたらない、考えるのを止めているという意味で宗教的な人々とマインド設定は同じだ。


そして話の発端になったカナダでは、この問題は夏前の総選挙の大きなテーマではなかった。主要なテーマはメディケアとイラク、アフガン出兵からミサイル・ディフェンスまでをも含む軍事問題。同性婚問題は際立った反対もない変わりに際立った進展もない。このぐらいでいいか、でみんな落ち付いてしまっている感じ。


で、で、なんでアメリカの民主党はこんなのに頭をつっこんだんだろう? 突っ込まされたんだろうなぁ、やっぱりと言いたいものがある。あるいは共闘なのか? 


他にいくらでも、例えばイラク、例えば中東という話があるが、ホントの争点になったら否応なしに旗幟を鮮明にする必要があるしなにかと面倒だ。国民的関心事というなら医療保険の問題があるがこれも半端だった。これもホントにやったら大変だか??,辰討海箸蓮▲殴ぁマリッジの問題は、捨てネタであるようにさえ?┐襦


あと、環境というテーマも、実際誰にとっても大事だとは誰でも思うが、今死ぬか生きるか的に貧しくて、薬が買えるか買えないかで困ってる人に、やっぱり環境を考えているのはケリーですから、ってのもわざわざ相手を引かせる戦略としか思えない。同性婚と並んで仲間割れ誘発要因として作用しそうだ。

 捨てネタを拾うのはなぜなのよ

アメリカの民主党がへんな具合に選挙戦を戦ったのはアメリカの話だからそっちでやってくれ、だとして、それに対して、あきらかにバイアスありすぎだろうなのにこだわりつづける日本のメディア(含むネット)はどうしたことだろう? こっちもまた捨てネタ拾いか?


キリスト教原理派云々にアメリカは取られてしまった」について。この定量がまず不確定。別の見方でもこの説は意味がない。実際勝敗を決めるのはいわゆるスィングボートと呼ばれる、最初から赤、青組いずれかと決せられているところではないところの去就しかない。一方、キリスト教原理派がいるのはそこではない。多くの場合それらは最初っから最後まで赤組だ。従って、スィングボート州の結果を説くのにキリスト教原理派問題をぶつけるのは理屈に会わない。ここは、やっぱ、前に書いたように「問題はUSのようです」の911対応が効果が高かったと言うべきなのじゃないのか。(どちらにしても気持ちのいいものではないんだが)


あと、投票不正問題。不正があっていいわけもないが、あの稚拙で稚拙でどーーしようもない選挙の方法はなにもブッシュが開発したものではない。混乱は前からある。妨害も前からある。開票当日に紹介したように、「58年の生涯ではじめて投票した」というおじさんは、レーガンだろうがクリントンだろうが投票していなかったわけだ。が、投票不正問題を言う人は、その票は数えられていないかもしれない(破棄された、操作された)ことが深刻だ、ということらしいいのだが、その確からしさはどのように求められるのだろう? 地区ごとに詳しいレポートがあがっているのなら、当然それは短期日中に裁判にでもなるのだろうか? 是非やってほしい。民主党といえば弁護士なんだから。それこそ世界中の人びとに求められているものだ。期待してる。


自分の頭の整理にメモしておく。

(1)民主党はなぜ対策できなかったのか(事前に不正があり得ることぐらい、嗅ぎ回ったジャーナリストがいただろうから、その人たちはなぜメディアへのアクセスが保障されているような人びとが多い民主党であるにもかかわらず騒ぎにしなかったのか)
(2)民主党もまた同様に不正に手を染めてはいないという確証はどうか? 
(3)民主党票だけが破棄されたのか? 
(4)選挙妨害の場合、投票を行使したマイノリティー民主党に投票する可能性はどのぐらいか(このことから、投票はすみやかに行なわれたが、単純にマイノリティーがこぞって共和党に投票していた、という可能性も考慮しているのか、という疑問も成り立つ)

 オハイオ別観

シャーウッド・アンダーソン 「ワインズバーグ・オハイオ
ふざけてるみたいだが。
こういうのから入るアメリカって、一見間違いのようで、10年ぐらいたったある朝突然にやっぱり正しかったと確信めいた直観が降りて来るという手のものかと思う。しかしその直観が日々の話題、表面の話題に関与を持ち得るとはまったく限らない。そういう意味で文学文学してていいと思うんだなぁ、こういうの。っと邦訳されててもいいと思うんだが。どうでもいい話だが。どうでもよくないか。