不安とソンタグ

ラジオをつけていたら、スーザン・ソンタグのインタビューが流れていた。2000年にトロントで収録したものらしかった。特に世界情勢を語っているのではなくてかなり個人的なというか、答えのない、答えまでの逡巡をもれなく採録してしまったあまり刈り込んでいない素のままのインタビューのようだった。曾祖父母がどこから移民して来たのかを祖母に尋ねた時の祖母の答えから彼女が何かを汲み取る瞬間が目の前に迫るような、彼女の息づかいやちょっとした表情の変化にまで気が抜けないような(見えてないのにへんだが)かなり生々しい感じのインタビューだった。普通の話をしているだけだ、とも言える内容ではあったのに。


こうインタビューが流れたのは当然、ソンタグが先週亡くなったから。

米国の批評家・作家、スーザン・ソンタグさんが死去
http://www.asahi.com/obituaries/update/1229/001.html


印象的なのはそのものすごく低い声と話し方。自分でslow writerだと言っていたがそういう感じの話し方ではあった。目から鼻に抜けるような、あるいは軽妙洒脱なといった話し口調ではない、真面目な、あるいは重苦しいような、言い過ぎるだろうことを知ってあえていうなら冗談が面白くないような人柄をその声と語り口が告げていた。


と、明らかに若干ネガティブな気分で私はこの文章を書き出しているわけだが、この人のことを考えると私はだいたいいつもそういう気分になる。思うに、彼女を「才女」というのは、どこかちょっと間違っているのではなかろうか。私にはとても不器用な人の不器用な生き方のように見えてしまうわけで、その不器用さをつくろうためにこそスタイルが必要だったのではないのかなど思えてしまうのだ。不安、欠損こそが彼女を彼女たらしめた重要な要素なのではないのか。そして、多分だからこそ、日本に限らず、いや、思いきっていえば日本とアメリカの知識人を引き付けたのではないのか。しかしそうなら、それは解明されるべきだし、それがなされないのなら、その不安を核とした集積はかならずセキュリティの思想へと走ることになるはずなのだ…。


まとまらないから、いや少し丁寧に考えたいから今日はこのままにしておくが、1つだけ暫定的な仮説のための説を作っておくのなら、この人の世界観の核は不安と非存在なのだろうと私は思ってみたりもするわけで、そういう人が描く「アメリカ」をアメリカという総体として受け取ることに対して、私は大きな疑義を突き付ける。アメリカでいわゆる知識人にしか受けないのはそういうわけなんだろうと思う。カナダ人がこの人を適当に受け入れられるのは、カナダ人はアメリカ人ではないからだ。この差異はとても大きい。(さらにいうのなら、カナダ人は大英帝国と大きくなるまで一緒に要ることによって空白期間が存在しないという意味で実はアイデンティティが希薄なようでそうでもない、ってなところも重要だろうと思う。)


と、バラバラにいろんなことを考えながら、なんだかぼんやりと生暖かい(っつっても8度ぐらいだが)夜をやり過ごして帰ってきたら、隊長が名文を書いていた。明日頭がはっきりしている時間にもう一度読もうと思うが、不安とか核心といった語が見え、なぜだか今日の午後のソンタグとの遭遇以降の自分とかなり接近遭遇しているようで興味深い。なんでしょうね、惑星の位置ですか(笑)。

しかし、いま感じられる漠然とした不安は、こういった日本を成功に導いた手法の背景にある世界的な秩序の変容が、新たな博打を我が国に強いていることにあるといって過言ではない。もう戦後ではない、だが戦後に成功してきた方法論以外の方策を編み出していく仕組みが、我が国にはまだ育ってきていないということが、おそらく不安の核心であろうと思う。

http://kiri.jblog.org/archives/001302.html


私が昨年来考えていたのは、戦後が終ったとか世界秩序が変わったから不安がもたらされるというよりは、世界の見取りを語るための言葉がない、枠組みを提示できる知恵が出回っていないということなのではないのかということ。それはアメリカにもないし、ヨーロッパにもない。


また、アメリカで効く薬が日本で効くとも限らないし、ヨーロッパの薬が世界一とも言えないし、みたいな、どこで何が効くかはとても一様ではない。といって、では絶望的に何もないかといえばそういうこともなくて、もうすぐ便秘が解消される的に、もうちょっとで…というところに来ているような気がしないでもないだな、なんか。いや、別に知の巨人を待望しているわけではないし、そういう出方もしないだろうと思うのだ。もっと「成りゆき」的で、だからこそ強いway to thinkが出回るんじゃないのか、という感じ。だとしたら、それは出回るという現象を通じて私たち一人一人がかなり関与することになる。


いずれにしても、リーダーが開示した考え方が大量に出回って賛意を得て、その翻訳がまわったら世界中で同じものが流行るという現象はコマーシャルには続くだろうが、それへの信頼は漸減し、信頼の無さから手堅い道ができる、みたいな…。どこまで言っても今日は何を書いているのだ、私は(いつもだが)、のままだ。


反解釈 (ちくま学芸文庫)

反解釈 (ちくま学芸文庫)

 英国政府機密文書

戦前天皇制への逆行危ぐ 英政府が皇太子留学探る
http://www.kahoku.co.jp/news/2005/01/2005010201000441.htm


なるほど、と思わせるものはあるのだが、この1954年の機密文書が今公開になるのは手順通り(例えば何年たったら公開、といったような)なのだろうか? いずれにしても興味深いので全文見たい。

 津波被害支援国連中心で

米英首脳、国連中心の支援で合意
http://www.nikkei.co.jp/news/main/20050102AT2M0200202012005.html


スマトラ地震
支援巡り新たな火種 国連主導求める欧州
http://www.mainichi-msn.co.jp/shakai/jiken/news/20050103k0000m030086000c.html


アメリカ、日本、インド、オーストラリアのコアグループで、とか言っていたらEUから苦情が出て、とりあえず国連中心に支援しましょうね、という話になった模様。
[捕捉:正確に蓮∧董??棔▲ぅ鵐鼻▲?璽好肇薀螢◆▲?薀鵐澄▲?淵世?灰▲哀襦璽]


とはいえ、そんな気の長いというかどっちが主導かとか言っている場合でもないわけで、機動力のある方が優っていくことはもはや自明のような気がする。


上のソンタグのラジオ インタビュー の次は、毎週日曜の夕方にやってる カナダ で有名な解説者というか コラムニスト の番組だった。今日は、tsunamiに関してのカナダの支援について。この番組の特徴はリスナーからの電話がじゃんじゃん紹介されること。紹介ってか止めようのない生意見露出だ。


出がけだったので熱心には聞いてなかったのだが、中では、 カナダ の支援を誇らしく思うといった意見を言う人もいれば、 首相 が早くから リーダーシップ を取っていないといってもの凄く怒っている人もいた。

いいですか、 マーチン 首相 は首相 になろうと10年も待ってようやくなった、それはいいでしょう、ですがなんですかこれは! 最初の2日ぐらいは仕方がないでしょう、どんな規模の災害なのか誰にも想像だにできなかったんですから、しかしその後も彼は休暇を切り上げなかった! なんですかこれは! これは 侮辱 です! という調子。


日本だと、関係省庁がちゃんちゃんと日本の名前で仕事をしていれば結構国民は納得してます、みたいな感じが基本線で、これは、夫は全然分かってなくても妻が夫の名前でじゃんじゃん結婚式から香典まで裁いている、みたいな構造と同じなんだろうなど考えるととても納得できる。


が、 カナダ にはそういう発想はほとんどない。妻がやるなら妻がやる。せいぜい「ジョンと私から」とか一応名前を添えるのが基本線。と、だからといいきっていいかどうかはちょっと不明ながら、 リーダー がリーダー として存在してない、働いてないなんてことにはここの人たちは恐ろしく不寛容だ。そんなことがあってはならないと堅く信じている風だ。


その他カナダならでは、だったのは、スリランカからの移民だという人の話。みなさんの寄付にはとても感謝している、嬉しく思ってる、だけどね、みんなに知ってもらいたいのは、その膨大なお金は、今必要な人、多くは貧しい農民とか漁民とかという人びと、こういう人には届きません。なぜならスリランカの政府が腐敗しているからです。カナダだってどこの先進国だってそういうことはあると言うかもしれないけど、そういうんじゃないんです、腐敗しきってるんです、と彼は力説に継ぐ力説をしていた。その後リスナーからのどういうリアクションがあったのかは出かけてしまって聞いてなかったのだが、ここまで来ると、どうなるんだろうなぁと実際まったく不安になる。


どこから来た人なのかは聞き漏らしたが、必要なもの、水、衛生事情、食料とかを改善しないとならないのが急務なのは当然だと思うが、大きなお金が動くとなったら、そういう現状役立つものよりも、水の供給施設を作ったり、道路を作ったりと、今までその地にあったこともないような立派なものを作ろうとする人たちも出て来るだろう、それは確かに必要なものではある、だけど、そこにお金を使おうとして生きるのに必要なものが供給できないようなことになるんじゃないのか、という不安を述べている人もいた。


と、なんというか、援助をする側というのは今現在はもうなんといっても「善意」に凝り固まってしまっているところがあるわけだが、援助される側の方ではそういうものが来たら発動してしまう、好ましくないメカニズムをちゃんと知ってる。でもって、こうやってそれを縷々述べる人がいるということは、それって相当そういうことがあったってことなのだろうし、それじゃいけないと考えている人が少なくないということだ。世の中って、健全な人はまだまだ一杯いるじゃないか、だ。


ということは、国連主導でもなんでもいいんだが、とにかく、誰に援助してんだか全くわからないような、ようするにピンハネ機構とでも言うべき機構を介さずにどうやって動けるか、そう動けるなら別に誰が主導でもいいんだよ、ということだ。そういうわけで、ということはということはで、昨年秋に言われていたアナン事務総長の親族及び本人の食料支援疑惑問題をはじめとした国連機構の不効率又は腐敗(丁寧に言ってみよう)疑惑はこの先必ず再浮上するだろうし、そうしてそれが拡大すれば国連という組織の問題に波及する恐れもなくはないだろ。もしそうなるのなら、これは、スタイルが変わる、時代が変わることの象徴的な出来事となるわけではある…。


地震の揺れは、実際起こったよりももの凄いものを引き当てているのかもしれない。まさに、津波だ。