余波・国内編

朝日がなにやら国際社会における北朝鮮になっている・または深刻にそうなる、という突破口となるか。


10月16日付・読売社説(2)
 [『慰安婦』決議案]「日本政府はきちんと反論せよ」
http://www.yomiuri.co.jp/editorial/news/20061015ig91.htm

慰安婦問題は1990年代初頭、一部全国紙が、戦時勤労動員制度の「女子挺身(ていしん)隊」を“慰安婦狩り”だったと、歴史を捏造(ねつぞう)して報道したことから、日韓間の外交問題に発展した。


今ごろソースロンダリングについて語りだす読売も褒められたものではないが、でも、まだ遅くはない。勇気は買う。


で、日本人としてはここまでで、コリアの態度および方針について苦情を言う必要はない。それは陪審員が決めることです、でいい。そういう態度で事にあたることを確認することが大事かと思う。説得すべきは陪審員であって、相手ではない。相手を説得する義理はない。ただ、いわゆる同胞であるところのソースロンダリングリーグ参加員への説得は、まったく遺憾ながら私たちの責任だっつーのがホントにやっかい。


で、この説得ができそうもないのなら、少なくとも国内で問題にしておくことが肝要か。決定ではないんだという意味。そのための旗頭になってくれるのか読売。ここが問題だ。政府を叩くのは簡単だ。自分が旗頭になるのはそれよりはるかに荷が重い。少なくとも、下げるなよ!という点が重要。


それができるのなら、読まなくても(笑)新聞も購読する。巨人戦もテレビを付け、機会あるごとに観戦し、さらにそれを友人知人に呼びかけもしよう。というか、個人的にはどうしようもなく巨人は好きではないのだが、でも他のチームを東京で見る機会はドーム、神宮、横浜ぐらいだから人生の中では結構ドームに行っているほうかもしれない。いわゆる商売で並んでいる人なのだろうかという泊り込みのおっさん方に混じって朝から長蛇の列にもめげずチケットを買ったこともあってよ。


ドームもいいけど、昔の後楽園というのがとても懐かしい。子供心に球場全体が酔っ払っているように見えた。がっかりさせないでよ、読売。そういえば、ベルディ戦も見に行ったことがあるな。等々力。

 普通に話したい人を大事にしよう


これ面白い。一週間たっているのでいささか古いが大事な話かと思ったのであえてログ。


The Growing Isolation of Mr. Clark  クラーク氏の孤立

http://komoriy.iza.ne.jp/blog/entry/52486/#cmt


古森義久さんのブログなので、それはそれなりに反りの合う人もそうでない人もいるだろうが、事の次第を丁寧に書きとめていただいているのはとてもうれしい。


クラークさんというどこかの大学の先生がアメリカのブログだかフォーラムで拉致問題を捏造しているとかなんとか書いているらしいというのはどこか別のところで読んだのだがその続編。


要するに、その英語フォーラムの中に別の英語ネイティブの人2名が出てきて、これについての解説および、クラークさんという人が、なんつーかありがちに日本を異質に異質に追い込んでいく展開を書いている件についてコメントを寄せていたという話。


ありがとうだわ、とまずは率直に思った。

「クラーク氏のような外国人論者たちはこれまで日本の社会や政治について、他のG7諸国でなら奇異でインチキとされ、すぐに排されるような解釈を述べてきた。そのような解釈は普通の日本人が絶対に入ってはこない外人だけの集団内でのみ述べられていた。だから正しい解釈か否かは不明だった」


「古森氏の真の『犯罪』は自称日本専門家たちの秘密祭司の主張を普通の日本人たちに紹介したことだろう。外人の自称他称の日本専門家たちが日本についての特定の見解を日本の一般国民に知らせないままに、外人同士で語り、通用させてしまうという時代はもう過ぎたのだ。私たちの何人かはこの変化を、日本の対外関係の正常化の兆候として歓迎する」


とてもよくわかる、と日本人である私が言ったらおかしいが、このトレンドの変化は私にもわかる。ただ、現地という意味では未だにそういうところは多々あるわけで、カナダの一部の報道とか見ると未だに、要するに、「日本人が絶対入ってこない外人だけの集団内」の見解をさも本当のようにやってるもんなぁと振り返ってそう思う。満員電車とか奇妙な犯罪とかなんか、えらく特別な時にだけ日本を名指していくことに情熱持ってるなぁと思しき人もいる。それに対して、ネットというのは実際の地点よりも事が早く進むんだろう。プロダクションと配信の手間、つまりお金がからんでないからかもしれない。


ま、そういうネガティブな話はいいとして、私自身も、ネット上のフォーラムとかコメント欄を見歩いているうちに、トレンドが変わってきてるなぁと思っていた。もはや慣れてしまって半分楽しみに見てしまっているところがないとはいえないチャイナ、コリア勢のクレームに対して、それはちょっと違うんじゃないかと、あきらかに英語ネイティブだなという人が冷静に書き込んでいるところとかをしばしば見る。また、アメリカ人同士で自分の中だけで知った知識なりで靖国神社を語っているところで、日本に行って神社に行ってみなよ、自分で言ってることがどれだけ空想的かわかるからと静かに、だけど上手に話しをほぐしている人を見たこともあった。本当の義勇兵だなぁと日本人としてはまったく感謝に堪えない。


だから、逆にですね、日本でだけ通じるからまぁいいかで語られる物凄くいい加減な外国に関する悪い話、みたいなのには気をつけたいとは思う。


ただ、気をつけるというのは、言葉狩り、アイデア狩りをすることではないというのは気づいていいことだろうと思う。

対話するときに(あるいは一人で考えている時でも)、他者と理解しあえる理屈をちゃんと言うことに心を砕けばまず合格なんじゃないかと思う(他者には対象化した自分も入る)。別の言い方をすれば、今自分の頭の中にあるこれは誰かにとって多少なりとも筋が通っているかな、とか、多少なりとも面白い、別のインサイトの足しにでもなったかしら、とかそんなことを考えながら話せばいいのかな、と。で、その中には、過激だがポイントをついている系の会話が許される場面もあるし、駄目なこともままある。そのへんは空気読むしかない。


そして、もっとその前に、発話していくにあたって、全面的に受け入れられる必要もないし、受け入れる必要もない、という心構えみたいなのが大事か。互いが理解するということは、多分、同じことを考えることではなくて、同じ土俵で語り合えることなんだから。


いずれにしても、とてもうれしい顛末を教えてもらった。
そして、日本人に関する真偽の不確かな情報を配信しまくって餌を与えているのは他でもない日本の新聞だという顛末が悲しい。つか、悲しくなんかない。心底頭に来る。頭がはげるんじゃないかと思うほど頭に来る。しかし頭に来ても仕方がないのでこれを義憤と思ってさまさず、しかし冷静に何かできることはないのかという方向にエネルギーを使いたい。