呂政

三国時代、魏の明帝曹叡は、大規模な宮殿造営などを多くの大臣から諫言されている。
楊阜、高堂隆などは曹叡を「阿房宮を作って二世で滅んだ秦の始皇帝」になぞらえて極諫している。

(劉)曄曰「秦始皇、漢孝武之儔、才具微不及耳。」

これを踏まえて見ると、『三国志』明帝紀注引『世語』に見える劉曄による即位直後の曹叡評は、決して褒めていない。
「統一のような大事業を成し遂げるかもしれないが、国がシッチャカメッチャカになるかも」といった、とても微妙な評価になるはずだ。


このエピソードの成り立ち自体が「曹叡は当時の識者から始皇帝に擬せられるような治世であった」ことが先にあって、そこから『世語』のような話がでっち上げられた可能性があるが、いずれにしろ、曹叡始皇帝という意識がこの頃の魏人やその流れをくむ人々の間にくすぶっていたことがうかがえる。