始皇帝の像

(王)朗家傳曰、會稽舊祀秦始皇、刻木為像、與夏禹同廟。朗到官、以為無徳之君、不應見祀、於是除之。居郡四年、惠愛在民。
(『三国志』王朗伝注)

三国時代、魏の王朗の家伝によれば、王朗が後漢末に会稽太守になった頃、会稽では秦の始皇帝の像を夏の禹王と一緒に祀っていたのだという。
王朗は始皇帝は徳の無い君主だから祀る対象にすべきでないと堅いことを言い、その祭祀を止めさせた。

曹操城陽景王の話に似ているが、注目すべきは祭祀をやめさせる理由だ。
始皇帝は「無徳」なので祭祀の対象にふさわしくないということらしい。
始皇帝を当時の知識人がどう見ていたのか、それとローカル祭祀について同じくどう思っていたのか、これらについて考えさせる話である。


ちなみに曹操の例では城陽景王の祭祀が民より収奪する道具と化していたために禁止した、ということになっているようで、理由が王朗の方とは違っている。
曹操城陽景王の祭祀がまっとうに行われていれば禁止しなかったのかもしれない。