曹操怒りの誘導尋問

山陽公載記曰、王聞王必死、盛怒、召漢百官詣鄴、令救火者左、不救火者右。眾人以為救火者必無罪、皆附左。王以為「不救火者非助亂、救火乃實賊也」。皆殺之。
(『三国志武帝紀注引『山陽公載記』)


後漢末、建安二十三年正月の許における吉本らの反乱の後始末として記録されている内容。


曹操はこの乱で重臣王必が死んだことを知ると激怒し、漢の百官を魏国の都である鄴に呼びつけて一種の誘導尋問の挙句に37564にした、という。


まあこの記事の信憑性は議論のあるところだとは思う。


とはいえ、王必原理主義者としては曹操が王必の死に激怒したと読める点は重要だ。


また、漢の百官を多数殺したと言う点についてだが、よく考えてみると、この時代の漢の百官なんてのは多くが曹操の息のかかった者だろう。
少なくとも、曹操に対し服従し、あるいはたてつくことがなかったからこそ今まで地位と生命を保てたのである。

実際、吉本の乱の首謀者の一人侍中・少府耿紀は元は丞相府の人間だし、韋晃は丞相司直つまり曹操直属の監察官現役だった。
当時の漢の百官の多くはこのように曹操シンパで固められていたのだろう。
要職であればあるほどそういう傾向だったに違いない(尚書令などがわかりやすい)。


この時の乱は、曹操に非協力的な勢力が公然と牙を剥いたのではなく、曹操自身が味方と思っていた者たちの反乱だったのである。
裏切られ怒りに燃える曹操にとっては、信頼できると思っていた人間でさえ反乱したのだから、そこまで親しいわけではなかった百官などは自分の敵にしか見えなかったことだろう。「みんな僕を裏切るんだ」みたいな感じである。
だから、無理筋に思えるような難癖をつけてまで殺したのであろう。「だからみんな死んじゃえ」である。



クドくなった。

言いたいのは、この件で殺した「漢の百官」は、「元々曹操に非協力的だった漢王朝の旧臣」などではないということだ。
そんな連中は二十年を超える建安時代の間に絶滅危惧種になっていたはずだ。吉本の乱首謀者たちだって少なくとも表向きは曹操シンパとしてふるまっていたのだ。

曹操は自分のシンパ、自分に服従した者どもが刃向うという事態に直面したからこそ激怒し皆殺しにしたのである。*1


*1:それと同時に、文字通り命懸けでこの反乱を鎮圧した王必の得難い忠誠を惜しんだことだろう。と王必原理主義者として付け加えておく。