陳留董祀妻者、同郡蔡邕之女也、名琰、字文姫。博學有才辯、又妙於音律。
適河東衞仲道、夫亡無子、歸寧于家。
興平中、天下喪亂、文姫為胡騎所獲、沒於南匈奴左賢王、在胡中十二年、生二子。曹操素與邕善、痛其無嗣、乃遣使者以金璧贖之、而重嫁於祀。
(『後漢書』列伝第七十四、列女伝、陳留董祀妻)
陳留の人董祀の妻すなわち蔡邕の娘、蔡琰(蔡文姫)。
才能豊かであると評された彼女は南匈奴に拉致され、そこで子供を2人産んだという。
その後、曹操が蔡邕と懇意にしていたため、金を積んで彼女を匈奴から身請けしてやった。めでたしめでたし。
と言う一種の美談である。
單于呼廚泉、興平二年立。以兄被逐、不得歸國、數為鮮卑所鈔。建安元年、獻帝自長安東歸、右賢王去卑與白波賊帥韓暹等侍衞天子、拒撃李傕・郭艴。及車駕還洛陽、又徙遷許、然後歸國。
【注】
謂歸河東平陽也。
(『後漢書』列伝第七十九、南匈奴列伝)
ところで、彼女を連れ去った南匈奴の集団はどうも河東郡にいたようだ。
この当時の司隷校尉といえば、蔡邕の筆法を求めるあまり墓まで暴いたなどという風評のある人物であった。
そんな人物が、自分の管轄内に蔡邕の実の娘がいるとあって何もせずにいられるだろうか。
実の娘ならば、父の筆法を学び秘訣を教えられているかもしれない。
実の娘ならば、父の書をいくつも肌身離さず持っているかもしれない。
もしかしたら、蔡邕の筆法を手に入れんがため、領内の南匈奴に対し積極的に交渉し、曹操には「蔡氏の娘をお救いしてはいかがです?」などと勧めた張本人が彼なのかもしれない。
もちろん根拠はない。まあこういう話は最初に書いた通りの綺麗な話で終わらせておくべきだろうね。