おじさんの雑記帳 

「20世紀少年」の感想文そのほか 寺本匡俊 1960年生 東京在住

お年玉っていうくらいだから  (20世紀少年 第335回)

 少年時代のケンヂは、2回、盗みをはたらいている。一つは、お年玉の袋で中身の金額は不明。もう一つは、宇宙特捜隊のバッヂ。お年玉の件は、第12巻の第2話に出てくる。季節は冬。バッヂの件は、第22巻の第11話に出てくる。季節は夏。さて、どちらが先の出来事やら。

 いずれの場面も、急いで駆け去るケンヂを見て驚いたマルオが呼び止めようとするのだが、ケンヂはサダキヨとほぼ同じのランニング・フォームで走り去ってしまった。もっとも、お年玉の件ではマルオはケンヂの窃盗行為を承知しているのだが、バッヂについては何が起きたのか分からなかった。


 第12話第2話の「参拝」は、このお年玉のシーンから始まる。人気の絶えた正月の商店街で、お互い冴えない顔のケンヂとマルオが出くわして、ケンヂはじいちゃん、マルオはバアちゃんが昨年亡くなったため、喪中につき「おめでとう」と言ってはいけない同志であることを知る。二人にとっての大問題は、お年始に行けないのでお年玉がもらえないことであった。

 60年代と現代とでは、いろんな風俗・習慣が変わってしまったが、お年玉は今も昔もそんなに変わらないのではなかろうか。最近の金額の相場は知らないけれど、かつて私たちの遊びだった凧上げも竹馬も羽根つきもカルタ取りも福笑いも、子供たちのお正月から消えて久しいが、お年玉だけはさすが金銭の受け渡し、たくましく資本主義社会を生き延びているご様子だ。


 ちなみに、先ほど風俗という言葉を使ったが、もう何年も前、一回り以上も年下の若者たちと何か真面目な話をしている最中に、私が日本の風俗がどうのこうのと話し始めたら聴き手がみんな笑い出した。いまや若い世代には「フーゾク」としか聞こえないらしい。

 これは政府が悪いと思う。水商売全てを悪者にして勝手に風俗業と名付け、それを取り締まる法律を作って、その中に「性風俗関連特殊営業」も含めてごっちゃにしてしまった。そして、そのままマスコミその他が日常的に使うものだから、こういうことになった。本来は、世間の「ならわし」。例えば野坂昭如は、風俗が移ろっても人の心は変わらないと言ったが、そういう意味で使う。


 話が逸れた。「モチュー」でお年玉がもらえず、ケンヂとマルオが悔しがっているのはプラモデルが買えなくなったからだ。ケンヂが欲しがっているタイガー1型は戦車、マルオがお望みのワルサーP38は拳銃、いずれもナチス・ドイツの御用達。ワルサーは007のミスタ・ボンドの愛用銃だが、ブルース・ウィリスが演じた「隣のヒットマン」は、弟子に勧められたワルサーを断って別の銃を採用している。

 タイガー戦車もワルサーもアメリカ映画によく出てくる。周知のことだが、アメリカの映画産業はユダヤ資本で成り立っている。私の両親の世代が好んだ戦前のアメリカ映画ならば、悪役と言えばインディアンかイタリア系のマフィアが相場と決まっていた。

 しかし、戦後ははっきりとユダヤの敵、すなわちナチス(あるいは、それを彷彿させるアーリア風の金髪碧眼の白人)、または、どう見てもムスリムらしい髭面の中東系の連中になった。インディ・ジョーンズのシリーズを観ると歴然としている。

 
 私がワルサーP38の名を知ったのは、テレビアニメ「ルパン3世」のエンディング・テーマの歌詞による。「ルパン3世」は画像も音楽も画期的な、それまでにない大人向けのアニメーションで、われらの小学校でも大評判になった。特に、放映が始まって早々に、峰不二子(ふーじこちゃん、ともいう)が素っ裸でシャワーを浴びる場面があって、私たちはこれを高く評価した。

 プラモデルといえば私の生まれ育った静岡である。出荷額は全国一と県のサイトに書いてある。昔は私の祖父がそうだったように木工職人の町であった。ジジババの店で売っている木枠の模型飛行機などを作る技術が、プラスティックやアルミニウムに材料を替えて今も生きている。60年代には、すでにあちこちにプラモ屋さんがあったものだ。


 ため息をつきながら「お年玉っていうくらいだから、どっかに落ちてねえかな」とぼやいたケンヂが見つけたのは、街路に落ちていた「お年玉」と書いてある熨斗袋であった。思わず足で踏みつけて獲物を確保するケンヂであった。他方で二人は、自転車に乗った警官あり、遠方より来たるのを知る。
 
 ケンヂがひっつかんで逃げる。よせば良いのに「走れ、マルオ」と言われて走ったものだから、マルオも共犯になってしまった。この件の結末は描かれていない。ジョージ君に声を掛けられて、マルオの回想が中断するからだ。


 お年玉事件とバッヂ事件のどちらが先か分からない。子供はしばらく見ないうちに成長する旨、コイズミも指摘しているが、両者の顔つきを比べてもあまり変化はないようにみえる。どうもお年玉が先のような気がする。そして、そこで警官に捕まっていたら、二度とこんな悪さはしなくなったろう。

 ケンヂの名誉のために補足しておけば、今の子供がどうなのかは知らないけれど、昔は平気で大人が放置したものなどをかっさらって、遊びに使っていたものだ。言い訳が許されるのならば、遊び道具が本当に少なかったのである。

 それに子供同士でも、奪い合ったり盗み合ったり取引したり、大人社会と変わりはなかった。時には本当にひどいこともした。そういうときに感じた心の痛みは、ときに半世紀近くたっても消えずに残ることもある。



(この稿おわり)



近くの公園の新緑(2012年4月15日)