夷酋列像

蠣崎波響の作品としてあまりにも有名であるが(ご存知ない方は検索してください)、今回は蠣崎波響筆「夷酋列像」について考えたい。
この像はアイヌ十二人を描いた絵画であり、筆者の蠣崎波響は松前藩江戸家老であり、円山応挙の門人でもあった画家でもあった。彼が若き日に描いた「夷酋列像」はアイヌを描いた絵画、いわゆるアイヌ絵の最高峰に位置づけられる作品である。蝦夷錦やロシアの軍服をまとったあでやかな彼らの姿に魅せられる人は多い。一方でその画風が「夷風」を強調しすぎる、とか、描かれた背景の陰惨さなどから批判も多い。毀誉褒貶の激しいこの絵画について少し考察を加えたい。
背景としてはやはりクナシリ・メナシの戦いがある。一七八九年、クナシリ場所の請負商人であった飛騨屋の非道に耐えかねたアイヌが立ち上がり、その戦いはメナシ(北海道東部一帯)に広がった。松前藩の奸計によって鎮圧され、アイヌ最後の武装抵抗となった。これ以降アイヌにはさらに悲惨な運命が待ち受けていた。この時松前藩に味方した、つまりアイヌを裏切った「お味方蝦夷」であるクナシリの酋長ツキノエ、アッケシの酋長イコトイらを描いたのが「夷酋列像」である。
というような説明が一般的にはなされるところであろう。もっとも「酋長」という言い方自体に現代的なステロタイプがすでに含まれているのであるが。当時は彼らのことをアイヌ語では「オッテナ」と呼んでいた。日本語では「乙名」と呼ばれており、「酋」というのは非制度的な呼称でしかない。「乙名」は「コタン」つまり村落の長で、「乙名」の上級権力として「惣乙名」、補佐役として「脇乙名」が存在していた。「乙名」というのは松前藩が任命するのではない。松前藩、さらには日本から独立した権力として「乙名」「脇乙名」「惣乙名」が存立していたのである。
事件の発端はクナシリ惣乙名のサンキチが死亡したことにあった。さらにクナシリの女性が和人に殺されるという事件も重なり、和人に対するクナシリアイヌの感情は悪化していた。乙名のセツハヤフとマメキリを中心に若いアイヌが結集し、サンキチ死後クナシリの最高責任者となった脇乙名のツキノエがエトロフ島にラッコ皮の確保のために出ていった後に武装蜂起を計画した。セツハヤフはツキノエの長男である。マメキリはサンキチの弟である。
騒動はメナシからシベツまで広がり、和人が七十一名殺害されるという事態に至った。事態を重く見た松前藩は二百六十名の部隊を派遣するが、ノッカマップの惣乙名ションコが和人の安全確保に動き、急を聞いてエトロフから急きょ帰ってきたツキノエとアッケシの惣乙名でツキノエの甥のイコトイらがアイヌ武装解除を行った上で松前藩と交渉を行った。結果首謀者三十七名の処刑で解決となった。
戦後松前藩に四十二名の功績があったアイヌが招待されたが、ツキノエとイコトイとションコは結局松前には行かなかった。
ここで問題が起こる。ツキノエ像やイコトイ像、そしてションコ像は「夷酋列像」に含まれている。しかし彼らはいずれも松前には行っていない。つまり筆者の蠣崎波響はツキノエらを見ていないのである。では波響が描いたものは何だったのだろう。そして波響は何のために虚偽のツキノエ・イコトイ・ションコ像を描き出したのであろうか。そもそもツキノエ・イコトイ・ションコとはいかなる人々なのだろう。これらの問題についてはこれから追々検討していきたい。