対訳『椿葉記』3

同三年閏二月廿日南朝の天気によりて両上皇・新院・儲君直仁親王、八幡の軍陣に幸しまします。南方の官軍利なくして八幡より没落、河内国東条の城に遷幸あり。同五月に又大和国加名生の離宮に渡御なる。同八月に光厳院御落餝あり。其後河州の行宮にて禅衣を著しましまして、つゐに山国の御庵に御隠居あり。かしこにて崩御なる。

上皇-光厳院と光明院の事。
新院-崇光院の事。
儲君-皇太子直仁親王。花園院の皇子とされるが、実は光厳院の皇子であり、花園院の妃に光厳院が産ませた、という説も。典拠は光厳院宸筆の置文。
河州の行宮-河内金剛寺。ここに拝観に行った時に案内の人が「南朝天皇様は政治をされ、北朝天皇様は文化に専念されました」と言っていた。本人たちは帰りたいと言っても帰れなかった監禁状態だったのだが、そこは「強制連行などない。ただついてきただけの人」ということで。
山国の御庵-常照皇寺。

同三年閏二月廿日、南朝天皇の意向によって両上皇、新院、皇太子直仁親王は八幡(石清水八幡宮)の軍陣に行幸された(強制的に連行された)。南朝方は戦闘で不利になり八幡より没落し、河内国東条に遷幸になった。また五月に大和国賀名生の離宮に渡御になった。同八月に光厳院は出家なさった。その後河内の行宮にて禅衣を着して、最後は山国の庵で隠居された。そこで崩御された。