akon2.00βのよっぱらいの戯言

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COBOL


追記:あぁ、「EJBは死んでいる」が不謹慎だと思う人は「たうぜん」COBOLは死んでいるなんて口にもしないですよね。COBOLCOBOLerの未来も語ってくださいよ、是非!
さらに追記:もちろんこんな言い回しなんてナンセンスですよねっ! 「リレーショナル難民」をCacheで救う ・・・言い回しなんて何でもアリじゃん。FUDが当たり前のこの世の中でさ。
まず、Cacheはリレーショナル難民を食い物にします。こんなことを書くのが煽りな訳ですね。反省(するわけないじゃん)。 
呼ばれていないけど。
少しだけCOBOLを書いたことがある(でも単位時間当たりの書いた行数は一番長いかも)。「世の中のほとんどはCOBOLなんだ。UNIXだぁCだとおもちゃで遊んでいるんじゃない」みたいことをいわれて、ほうりこまれたです。実はとてもお気楽極楽だった。確かに勤務時間は長かったけどね。出力結果がプリンターの部屋から運ばれてくるまでたーぷり休憩なわけよ。端末機(5550ってPC)は何人かで共用だし。ちなみにアセンブラがこれまた高級言語のようによくできていて楽賃なのよ。だれがこんな楽天地をほろぼしたりしますか。で、ぬるま湯につかっていたら「りれーしょなるでーたべーす」ってやつがでてきたからと娑婆に戻らさせられた。時はOS/2のころです。
で注意しなければいけないのは、メインフレームCOBOLerとオープン系のCOBOLerは生態が違うのです。以前いた会社がマイクロフォーカスに出資した関係で研究していたことがあるのですが(正確にはOO-COBOLを研究していたのですが)、「こんな商品が出てきたら、あのお気楽極楽ワールドがなくなっちゃうじゃん」と思っていたら、いまどきはオープン系では主流で、COMとお話ししたりするんだって。かわいそ・・・。で、EJBCOBOLは直交するんじゃないの?すると、DIと軸は同じジャン。ということは、ルールエンジン、ルールエディタと騒いでいるけど、ルールエンジンが可能ということは、DIコンテナの記述言語はなんでもよくできるということです。だから、COBOLerはDIコンテナのユーザです。未来は明るいジャン。

あああ、Amazon Hacks、売れちゃった。僕ってひどい人かも・・・

がんばれid:koichikさん。

でもがんばる必要ないと思うよ。
http://d.hatena.ne.jp/koichik/20040626にコメントとしたけど、言い足りないので。
EJBと比較されてもなぁ・・・EJB3.0IoCコンテナが採用されたら無用の議論でしょ。EJBが大切な人とソリューションが大切な人で議論しも不毛。EJBってそんなに普及していますか。普及しているならば、もう解説本やMLで議論する必要はないと思いませんか。議論するならば「ステートレスにサービスが切り出せるか、切り出せると本当に実装は簡単」じゃないかなぁ。一応、あるひととEJBはすべてコードを自動生成できるからプログラミングは不要というのはたくらんでいるのでこれが公表できれば「EJBってなに」にもっていけると思う。
とりあえず、批判されるほどものになったことに乾杯!直接コメントがないというのは、直接対決することに意味がないからだと思う(ここにつっこまないように)。若手の研究者が先人の研究に異論を唱えて成り上がろうというのは、一つの定石でじゃん。もっともある研究者が「私の発表している論文は他人に真似されても困らないように、一年前のことを書いている」と研究者の本分を見失っていると思う発言だが、ことビジネスに関しては、もうかる技術だと信じていればあえて信じない人を説得する必然性を感じない。それにある色がついている人が「これがよいよい」と言われても素直に「あっそうですか。私が間違っていました」なんて簡単にいえないじゃないですか。遺恨が残ると思うよ。
それにダイコンを普及させるのに今、必要なのは、反対派勢力を「議論」で、なぎ倒したり切り崩すことではなく(恨みが残るから)、現場での実績だと思う。はい、私の目の前にいるのはSun Microsystemsからやってきたコンサルタントです。ライターではないです。

子供の教育

世の中は、「和」から「個」に向かいつつある気がする。問題は向かいつつあるという状態にあるということである。完全に「個」の時代になれば、「個」の教育をすればよいのだが、端境期にあり、「和」の教育を受けた人間からすると、戦後の人々と同様に、自己否定された気になる。そして、多くの日本人にとって、未知の世界であろう。ある意味では、日本は個人も個性もないがしろにする、偽善的個人犠牲の国であろう。反面、他人の文化の存在を知らない(いわゆる無知の無)ことからくる、自己中心国民でもある。さて、国際人にすべきであろうか。民族を優先すべきなのであろうか。無知の無ではなく、すくなくとも無知の知くらいにはしてあげたい。