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暮らすの言葉 随想記 RSSフィード Twitter

2017-03-11 祈りに代えて

 終わりのはじまりのはじまり。
 そんな気配が濃厚に立ちこめる日に、どのような言葉も、口にすればたちまち力を失い、掻き消されてゆく。
 祈りと聖句に代えて、書き付ける。

 わたしは心が痛い、でも、この痛みは、わたしのもの。わたしは痛みからどこにも逃げない。わたしが、すべてを受け入れて、この痛みに感謝しているとはいえない。そのようにいうには、なにかほかのことばが必要です。いまはそれを見つけることができない。わたしは、自分がこんな気持ちでいて、みなからかけ離れていることを知っています。わたしはひとり。苦悩を自分でひきうけ、それを完全に所有し、そこから抜けだす、そこからなにかを持ちだすのです。それはものすごい勝利で、そこにだけ意味があるのです。手ぶらじゃないということに……。そうじゃなかったら、なんのために地獄におりなくちゃならなかったのでしょうか。
  
    「ある子ども時代の物語」 マリヤ・ヴォイチェショノク 作家、57歳
 

 
 「斧が置かれている……。斧はご主人さまがいなくなっても生きつづけるのだよ……。きみは、わしのことばを思いだすときがくるだろう……。きみはこうたずねたね。(ぼくはたずねていた)人間であることは早く終わるものなのか、どの程度もつものなのか、と。答えてやろう。曲げ木の椅子の脚を肛門へ、あるいは陰嚢にキリを、それで人間はいなくなるんだよ。ハハハ……人間はいない……。クズだけだ!ハハハ……。」
  歴史全体が洗いざらい調べられた……。何千もの暴露、何トンもの真実。過去は、ある人びとにとっては長持ちいっぱいの肉と樽いっぱいの血だが、別の人びとにとっては偉大な時代なんです。

     「赤い小旗と斧の微笑」 アンナ・Mの息子

  スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『セカンドハンドの時代 「赤い国」を生きた人びと』松本妙子訳



 われわれの時代を生きるすべての人びとに、魂の平安を。

2017-01-26 そのうみ、凪いで、あお

 唐突に、海が見たくなり、お気に入りのケーキ屋さんで買ったケーキを車に乗せて、見晴らしのよいポイントまで出かける、なんてことを震災前にはしていた。
 海は、穏やかな時もあり、少しばかり荒れている時もあった。大抵、どんな日も海辺にはサーファーがいて、波間に漂っていた。波待ちの海面に浮かぶサーファーは、海鳥のようにも見え、漂着物のようにも見え、わたしは、ゆらゆらとボードとともに揺れる自分を想像してみたりしながら、海を眺めていた。
 防波堤の脇の狭い道路に、サーファーの車が数台駐めてあり、その向かいには、せめぎ合うように住宅が建ち並んでいた。帰宅の時間になると、子供が跳ねて歩き、迎えの祖父母と思しき年配の男女が、ときおり、諫めるように声をかける。子供はお構いなしに、喚声を上げ、突然走り出し、また止まり、そして、跳ねる。
 住宅の前のプランターには、花が植えられている。庭の木々は、海風に煽られ、いくぶん調子が悪いか、多くは、陸側に向かって樹形を傾けていた。潮風が直接あたる場所の生育に適した樹木は、そう多くはない。成木を持ってきて植えても、調子が悪くなることも多い。大抵の場合、生育もよくない。それでも、ほとんどすべての家に、木は植えられる。まったく、なんでもかんでも潮にやられて、いやになっちまう、とぼやきながらも、プランターでは、子供のようなペチュニアが花をつける。

 その町は、津波に呑まれた。

 震災から一ヶ月ほど経った後、自衛隊がようやくかき分けたばかりの路地を入った。二階まで波が来たのだという。建物の形が残っていたものもあったが、あとは見る影もなかった。2階建てであったはずの建物の2階部分だけが、そのままの形で別の場所に流れて移動していた。庭は跡形もなく、多くの漂着物で埋め尽くされ、境界もわからなかった。津波の襲来の境界線の向こう側、辛うじて難を逃れた住宅では、割れた窓にガムテープが貼られ、主と思われる老人がどこか呆然としたような表情のまま、庭の片付けをしていた。
 海はすばらしく穏やかだった。遠く群青色の水平線まで曇りなく見晴らせ、海面は光を受け、小波が無数に輝いていた。
 わたしは、あの時に見かけた子供たちは、年寄りたちは、無事に逃げただろうか、と考えながら、途方に暮れていた。
 それからは、もう、見に行っていない。

 あの日が近づくと、あの時の光景を思い出す。
 陸上の無残な光景と対照的に穏やかな海のことを。
 海は、忘れてしまったのだ、荒れ狂ったじぶんの姿を。すさまじい破壊のことも、人々の悲しみも苦しみも。
 そのことが、どうしようもなく、悲しかった。

 その海は、凪いで、あお。
 ひかり、跳ねる。

2017-01-24 過去とともに生きること

フランス人ドキュメンタリー監督のOlivier Julien が、チェルノブイリ事故から30年、福島第一原子力発電所事故から5年目を迎えた昨年、’Chernobyl-Fukushima: Living With the Legacy’ というドキュメンタリーを制作し、ドイツ・フランス合同のドキュメンタリー専門テレビチャンネルARTEで放送された。
ARTEでドキュメンタリーを放送してもらえれば一流ドキュメンタリー作家、と言われるようなテレビ局である、とは、フランス人の友人の言。
映像は、主として、ベラルーシ、ノルウェー、福島の三つの被災地の住民たちの証言によって構成される。メディアによって喧伝される悲劇の被災地の被害者としてではなく、原子力災害後も、その地に生きる人々のそのままの声として。証言の間には、美しい被災地の風景も挟まれる。飯舘村の菅野クニさんも出演している。撮影時、スケジュールが立て込んでいたせいで、疲労困憊した表情のままのわたしも出ている。(本当は、撮影を断りたかったくらいには疲れていたのだけれど、ずいぶん前から頼まれていたので仕方なく出たら案の定、である。)
核災害の被災地を映像として作品化することの難しさは、放射能被害が可視化できないことにある。劇的なことはなにも起こらない。せいぜいが、持ち込んだ線量計の数値が跳ね上がる程度のことで、他には、爆発した原子力発電所の無残な姿くらいなものだ。あとは、ただ、日常が続くだけ。現実的には、なんということのない日常の細部に小さな変容が入りこみ、日々の調和を損ない、そのことが、しばしば、日々の暮らしをとんでもなく居心地悪くしてしまう、というのが、放射能被害の最たるところではあるけれど、それを映像として捉えることは、ほぼ不可能と言っていい。したがって、なにが起きたかを明らかにするためには、人々の語りによって構成するしかない。Olibier Julienが映像制作にあたって、被災者の証言による構成を企図したのは、たまたまではなく、放射能災害を映像化する上での本質的な難しさに由来するものだろう。
わたしの英語力では、残念ながら全体の内容を詳細に理解するまではいかないが、映像としてのクオリティは非常に高いものであるように思われる。
フランス、ドイツでは既に放送済みだが、日本では、NHKと放送の交渉をしたものの不調に終わったようで、現在のところ放送される目処は立っていない。
フランス、ドイツでの放送後の視聴者の反応は、非常に興味深いものだった。寄せられた感想の多くは、その内容に「戸惑っていた」ことを伝えるものであったという。つまり、視聴者がイメージしている、チェルノブイリ、福島の被災地の状況と、作品の証言があまりにかけ離れていたため、どう受けとめていいのかわからなかったようなのである。
この映像中の被災地の人々は、泣き叫びもしないし、悲劇を訴えたりもしない。静かに、彼らの日常を語る。自分たちが、いかに生活を取り戻そうとしているのか、そして、取り戻したのかを語る。それは、全世界のほとんどの人々がイメージしている、チェルノブイリ、福島の被災地の姿とは重ならない。多くの視聴者は、その戸惑いにそのまま蓋をして、なかったことにしてしまうのだろう。
この視聴者の反応は、放射能災害の心理的側面における難しさを端的に示しているように思える。わたしが、この感想を聞いてすぐに思い起こしたのは、アレクシェービッチの『チェルノブイリの祈り』に出てくる、チェルノブイリの被災者のひとつの証言だ。彼女は、おかしい、被害が少なすぎる、あんなに大変な出来事がおこったのに、おかしい、と訴える。被害が少ないことは、彼女にとって幸いであるはずなのに、それが彼女にとっての混乱の源になっている。この一言は、放射能災害の真実を突いている。あれだけの悲劇(と我々の誰もが認識した出来事)が起きたのに、結果として残されたのは、拍子抜けするほど変わらぬ、間延びしているように思えるほどに表面的には変わらない日常だけなのだ。
あの混乱に見合うだけの悲劇的な結末が起こらなければ、おかしいではないか。多くの人々、被災地に暮らす人間も含めて、が、漠然と抱いてしまう感覚なのであろう。こうした人々が抱く印象の元は、広島、長崎における原爆投下が大きく影響していることを、近ごろ、強く感じるようになっている。昨秋、オーストラリアを訪れる機会があり、その際に、立ち寄ったアボリジニの文化研究所で、たまたま、1950年代から60年代にかけてイギリス軍がオーストラリアの砂漠で行った核実験の被害についての展示が行われていた。白人にとっては、不毛の地に過ぎなかった砂漠は、アボリジニの人々にとっては、彼らの生まれ、死んでいく命の源の土地であった。彼らは、核実験が行われたことも知らされず、実験が終わった後に、突然に出て行けといわれ、彼らの土地を追われることになった。現実に、どれほどの被曝を受けたのかはわからない。ただ、神話のようにそれらは伝えられる。
我々はある日、母なる大地を追われた、私は若かった、私たちはどこへ行けばよいかわからなかったけれど、当てもなく彷徨った、父も母も一緒だった、移動の途中で母が死んだ、そのすぐ後に父も死んだ。楽園放逐の神話を聞くようだ、と思いながら、わたしは展示を見ていたが、ただひとつ神話と違うのは、その証言は、明瞭、かつ濃厚な死と破壊のイメージに貫かれていることだ。そうして、ここにも、広島と長崎はあった。展示コーナーの一角には、長崎の原爆投下に使われたファットマンの模型が飾られ、それと同じように、福島第一原子力発電所の事故にも触れてあった。アボリジニにルーツを持つと思われる案内係の女性に、福島から来たのだ、と告げると、彼女は非常に同情的な眼差しをわたしに向けて、わたしに何かを語ったが、残念ながら、わたしの英語力では多くは聞き取れなかった。
もちろん、人間を殺傷するための広島・長崎への原爆投下とその後の核兵器開発は、原子力発電所の事故とは本質的に大きく異なる。一方で、広島・長崎の被害とその後の核兵器開発が全世界にもたらしたインパクトはあまりに強く、原子力発電所の事故における放射能災害においても、そのイメージに絡め取られることなく認識されることは困難となっている。

近しい人たちには、悲観的に過ぎるとお叱りを受けそうではあるが、最近は、こうしたことをつらつらと考え込み、口ごもることが増えている。

2017-01-19 忘れられない人

 ほうら、忘れられなくなった。
 だから、止めておけばよかったのよ。ちがう、止められるようにしたかった。
 そう、たとえば、住める区域と住めない区域を明確に区切り、住めない区域の将来像をきちんと共有できる案配にしておけば、わたしは、とっくにこんなこと止めてたの。

 日々から取り残されたような、夜中の静けさのなかで、取り留めもなく考える。
 紫煙を室外に送り出すための換気扇の音を聞きながら、そのうちに、土台、そもそもの前提が無茶なことであったのだろうと、自分の考えそのものがおかしくなって、小さく嗤う。

 人は、忘れる。
 忘れることは、多くの場合、幸いである。忘れられるものは、忘れてしまった方がよい。
 けれど、忘れたくても、忘れられない人たちが、いる。
 たとえば、日々の生活をある日突然奪われてしまった人たちが、その精神的代償を得ることができなかった時、彼らはきっと忘れられない人になる。

 わたしは、本来的に忘れられない性質の人間だ。
 自分が、「忘れられない人」を知ったら、きっと、彼らを忘れることはできなくなる。
 ずっと以前から、それを予期していたから、忘れられるようにしたかった。
 しかし、それは、今にして思えば、いや、最初から思慮の足りない、甘い考えであったのだろう。

 ふと思い起こして、事故の年に、ここから立ち去った知人をネットで検索してみた。
 新しい場所で、彼らの夢を少しずつ繋げていっている様子が綴られていた。
 家族がまたひとり増えた、と書いてあった。
 ここに残れば、彼らの夢をそのまま続けることは難しかったろう。
 彼らは、望んでいた暮らしを、新しい場所で、ふたたびはじめた。
 立ち去る前の、彼らの険しい表情を思い出す。途方に暮れ、悲しみ怒り、そして、世話になった人たちを置いていくことの申し訳なさとの入り混じった表情をしていた。わたしたちは、少しばかり、きつい言葉のやり取りをした。
 彼らは、きっと忘れていない。
 でも、忘れてよいのだ。
 忘れられるのであれば、もう、あんなことは忘れて、そうして、彼らがかつて望んでいた暮らしを続ければいい。
 わたしは、遠い記憶のなかの人に、なる。

2016-08-23 失当見識

わたしたちは歩く
ひと気のない町並みを
破れたブルーシートに飾られた屋根のあいだを
背丈を超えた雑草生い茂る田畑の畦をかきわけ
はなうたまじりに
失当見識のさまよい人のように
いやに明るいあの旋律を口ずさみながら
わたしたちは歩く
かつての風景を発掘しながら
澱のようにたまった忘却をかきわけながら
あの頃の気配を探しながら
わたしたちは歩く
行けば行くほど
家屋は色を失い、
草木は濃く、
記憶は薄れ、
それでも
はなうたまじりに
いやに明るいあの旋律をくちずさみながら

あの日見たあの花はあなたが植えた
わたしはあなたが誰かは知らないけれど
あなたが植えたことは知っている、知っていた
いまもあの花は咲いている
失当見識のさまよい人を迎えるために

プロフィール

ando_ryoko

福島県の田舎で暮らしています。