Hatena::ブログ(Diary)

暮らすの言葉 随想記 RSSフィード Twitter

2017-12-24 語り得ぬもの、語り得る他者

少しゆっくりめの朝、ホテルの隣のファミリーレストランでの朝食は、滞在5日めにもなると、すっかり飽きてしまって、メニューを見るのさえうんざりであったのだけれど、ため息をつくように比較的食べやすいホットマフィンとハッシュドポテトのセットを頼む。メニューを投げ出すように、彼も同じものを頼んだ。

窓のすぐ下は駅、クリスマス飾りに彩られた駅前を勤め人が忙しそうに、けれど、地方都市らしくゆったりとしたペースで通り過ぎる。

窓の外をじっとしばらく眺めて、そのまま何かを思い出したかのように目元を緩め、わたしを見つめながら言う。「信じられる? もうすぐ6年になる。私たちも年を取った。」 時間を振り返る余裕なんてこれまでなかった、と思いながら、そうだね、とわたしは頷く。それからまた、窓の外を見る。立ち止まって過ぎた時間を振り返るほどには、時間の流れが緩やかになってきたのだろう。そのことが喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか、わからない。不意に、飲み物はドリンクバーであることを思い出したのだろう、彼は立ち上がり、「コーヒー、飲む?」とわたしに尋ねる。「カフェオレ? ブレンド?」そう確認をして、ドリンクバーに並んだ彼の姿を眺めていた。

そうだね、出会った頃より背中が丸くなった気がする。あなたは少し年を取った、きっと、わたしも同じだけ年を重ねている。でも、着ているセーターはいつも同じ、胸に赤い小さなワンポイントの刺繍が入った紺色のそのセーター、旅先に持ち歩くのにぴったりなのだろうそのセーターを皺にならないよう丁寧に畳む仕草を思い出す。きっと子供の頃からそんな風にしてセーターを畳んできたのね、あなたは。そんなことを考えているうちに、片手にコーヒー、片手に紅茶を持った彼が席に戻ってきた。

しばらくティーバッグを浸したり上げたりした後、考え込むように口を開く。「いまでも、なぜこんなに長い間、放射能被災地域に拘るのか、自分でもよくわからない。いや、もちろん部分的にはわかるし言語化もできる。でも、一番根本のところが今もはっきりしない。それは、あなたもそうなのかもしれない。自分は、それをちゃんと考える必要がある…。」
最後のあたりは独り言めいた口調になって、かき消すように口をつぐむ。
わたしは、「そうだね」とだけ答える。後の言葉は続かない。
わたしと彼の会話は、いつもこんなものだ。時折、なにか意味のあることを会話する、そのあとは、黙って景色を眺め、たまに目配せし、一言二言なにかいうときもある、何も言わないときもある。

わたしは、考えていた。自分がいつまでも続けている理由はなんなのだろうか、と。幾つもあってあげればキリがない気がする一方、そのどれも違う気がする。いくつかの理由は、取り乱さずには話せないほどには、心に深く刺さっている出来事であるのに。

「安東さん、あのね」と囁くような声が、聞こえた気がした。

安東さん、あのね、わたし、ほんとはね。

それは、知り合いになった年長の避難区域の方からの電話だった。突然の電話の非礼を丁寧に詫びた後、彼は、慎重に「本当のこと」を何か言った。でも、きっと、それは、彼の本当に言いたいこととは違ったはずだ。ひとつひとつ、選ぶように語りながら、言葉と声色がどこが不調和な調子に、わたしは、きっと本当のことは別のことなんだろう、と思いつつ、相槌を打っていた。彼は、気づいているのか気づいていないのか、いくつかの「本当のこと」を語り、そして、いややはり違うのだ、と打ち消し、そして、また別の「本当のこと」を語った。

彼は、ただ、本当のことを誰かに言ってみたくなったのだろうと思う。本当のことが何なのかは、きっと、彼自身にもわからない。言葉を手探りし、頭の中を探り起こし、ひとつひとつ声に出して繋いでみても、やっぱり違う。でも、誰かに語ってみたくなったのだ。飛び立つことのできない鳥が、ふと思い立って羽ばたきを確認してみるように。羽ばたきをしている間は、大空を巡る自分の姿を夢見ていられる。あの日から、私たちは「本当のこと」を語るだれかをずっと探しているのかもしれない。それを語れないことを知りつつ、語りうる他者を。

溢れる無数のリフレインの中を今日も歩く、あのね、わたし、ほんとはね、ほんとはね、ほんと、ほんとのことを、わたしは、あのね、あのね…。



語り得ぬものについては沈黙せよ、否、語り得ぬものだからこそ語れ。それが無意味な音声の羅列に過ぎぬとしても。

2017-10-29 「生命の破壊」という表象

『曝された生』で詳細に掘り起こされたウクライナの事例は、それそのものでも十分に興味深く示唆に富むものであるが、著者の放射線や原子力に対する姿勢も、わたしにとっては関心を引くものであった。本文の記述中に「生命の破壊」という表現が出てくる。研究者らしく、他の部分が具体的、そして抑制の効いた記述が多い中で、この比喩的な表現は、唐突感さえ覚える強い表現であった。著者が意図的にこの表現を使ったのか、あるいは無意識に出てきた表現なのか。もう一箇所の福島事故を受けての記述、「チェルノブイリの科学者が成し遂げられなかった疫学的知見の至的基準を築くことを期待している」と共に、著者のとらわれている部分を端的に示しているようにも見えた。

ここで述べられている「生命」は物質的な命と言うよりも、人間の生そのもの、人類の生命の営みそのものをあらわしているように読める。チェルノブイリ原発事故においては、確かに、緊急時には少なくない人命が失われ、そして、その規模においては本書にも示されているように議論はあるものの、放射線による一定の健康影響があったことは言うまでもない。しかし、それにしても、著者が言う「生命の破壊」という、生命の営みそのものに対しての破壊という表象の源泉は、チェルノブイリの被害のみにあるものなのか。本書の内容からしてみても、確かに、国際機関の公式見解に対する疑義は提示されはするものの、ここまでの強い表現が使われる必然性があるほどのセンセーショナルな健康被害の描かれ方はしておらず、違和感を覚える。わたしは、この表現は、チェルノブイリの被害以前から、放射線、原子力、科学技術に抱かれていた無意識のイメージが、著者もそれと感じることなく、表出されたものであるように感じる。

そう思うのは、オーストラリア訪問の際に感じた、核開発と原子力の平和利用、放射線の抜き差しならないイメージの同一化を強く感じているからだ。そのことについては、以前、簡単に書いた事がある。
https://www.facebook.com/ryoko.ando.f/posts/402784640065336

イギリス統治時代のオーストラリアで行われた地上での核実験は、それそのものでは犠牲者は出ていない。実験であるから当然とも言えるが、それでも、実験が行われた砂漠に居住していたオーストラリアの先住民族アボリジニの証言は、濃厚な死のイメージに縁取られていた。そのすぐ後ろにあるのは、言うまでもなく、広島・長崎への原子力爆弾投下と巨大な犠牲である。オーストラリアでの核実験を見守る当時のイギリス軍の将校たちの様子が映像として残されている。彼らは、爆発が成功したことを確認すると、破顔し、互いに握手し、成功を喜びあった。わたしは、背筋が寒くなりながら、彼らは「狂っている」と思った。もちろん、彼らは精神病理的な意味では狂ってはいないし、その点から言えば、まったくの正常である。彼らの核開発にかける情熱は、当時の軍事状況を考えれば必然であり、また論理的にも理解できる。しかし、やはり、わたしは、あれほどの災厄をもたらすことが既に広島・長崎で明らかになっている兵器の成功を無邪気に喜ぶ彼らは「狂っている」と感じた。ここでわたしが感じたことは、スタンリー・キューブリックの映画『博士の異常な愛情』で描かれた科学者像が惹起する感覚とほぼ一致する。みずから手にした科学技術によって、みずからもその一員である人類社会を滅ぼしてなお、科学技術の発展に邁進し、また、それを喜ぶ科学技術者という表象は、キューブリックが戯画化して描いたがために一般に流布したのではない。核開発と核兵器実戦使用という現実によって現前化したものを、キューブリックがアイロニカルに、そして見事に描き出してみせただけである。もし、核開発あるいは、少なくとも核兵器の実戦使用がなければ、放射線や原子力、そして科学技術に対する、ここまでの不信や恐れはなかったと、わたしは確信している。そして、人類は、その歴史を選択しなかった。

話を『曝された生』に戻す。著者が「生命の破壊」という表現を使った背景には、こうした核兵器や原子力に対する、チェルノブイリ以前から存在した死と破壊のイメージが強く反映されている。著者にしてみれば、広島・長崎で行われた「生命の破壊」が、チェルノブイリでも繰り返されたという認識なのかも知れない。しかし、これらが、核兵器にともなう死と破壊が惹起した表象、ないしは表象をとなう現実である以上、それに対して求められる対応は、「疫学的知見の至的基準を築くこと」であるようには思えない。基準がつくられたとしても、「生命の破壊」は現実的にも、表象としても止むことはないからだ。こうした噛み合わない論理が語られるのは、著者が、自身の持つ「生命の破壊」という比喩がどこから出たものなのか把握出来ておらず、相対化して捉えることができていないからであるように思える。また、科学技術に対して不信を抱きつつも、その成果を信頼し、恩恵を日常的に受けていることに対するアンビバレントな感覚が表現されているようにも見える。努めて研究者らしく冷静で論理的に記述している著者の、科学に対する不信と信頼が矛盾した形で示されているように思うと同時に、ここにチェルノブイリや放射線の健康被害を取り巻く、止むことのない混乱が象徴的にあらわされているように感じられた。

2017-10-28 アドリアナ・ペトリーナ『曝された生』感想

人類学者である著者が、主として1996年頃のウクライナにおけるフィールドワークを元に、チェルノブイリ事故後のウクライナの人々が、いかに自らの存在を変容させ、新たな生物学的統治メカニズムに対応して来たか(できないで来たか)を、文書資料なども豊富に使いながら、詳述した著作である。著作中で参照されている資料の豊富さもさることながら、著者が第二次世界大戦時のウクライナから逃れて来た移民というルーツを持ち、ウクライナ語に堪能であるということもあり、充実したフィールドワークと資料引用が可能となっている。またもう一点、著者が女性であるということも大きな背景となっていると思われる。聞き取りの一部は、おそらく、著者が女性でなければ聞き取り対象者が話さなかったであろう内容も含まれており、ジェンダーの問題は直接的には語られてはいないが、見えない背景をなしていると感じられた。
本書における分析の観点は、監修の粥川準二氏の解説にあるように、ミシェル・フーコーの「生権力」「生政治」の概念を用いており、フーコーに馴染みにある人間であれば、枠組みとしての理解は平易であろう。フーコーに馴染みのない読者には、まず、粥川氏の解説を読んでから、本文を読むことをお勧めしたい。
 
本書を通読して感じるのは、チェルノブイリ以降、そして、その後のソ連崩壊を受けて、ウクライナという国家に起きた凄まじいまでの混乱である。その混乱について、大多数の人間は、放射線の健康影響という側面以外には、目を向けて来なかったというのが実情ではないか。ひとつには、放射線の健康影響は、科学世界における一定の領野を持つ共通の関心事であったのに対して、社会全般に対する影響は、問題が広範に渡るため、専門分野の領野に治まらず、問題設定が難しかったということはありそうである。また、ソ連崩壊後、独自の道を歩んだウクライナ社会のあり方を特殊なものとみなすことによって、共通の関心となし得なかったことも考えられる。本書の中で描かれるいくつかの家族の姿は、チェルノブイリの影響が濃厚なものも見られる一方で、社会主義体制崩壊後の旧ソ連諸国に共通するであろうと思われる部分もあり、また両者は相互に深く関わっているため、その影響を見極めるのは難しい。それに関しては、ベラルーシのノーベル賞作家であるスヴェトラーナ・アレクシェービッチの『セカンドハンドの時代』を併読すると、より立体的に見えてくる。本書末尾にあるアントンとハリア夫婦のエピソードは、チェルノブイリ事故の被災者という側面よりも、ソ連崩壊後によく見られた家庭崩壊のケースの一例ではないかと思われる。もちろん、その過程においては、チェルノブイリの経験が深い影を落としているが。(それにしても、旧ソ連諸国の家庭のエピソードは、どれも濃厚な暴力と死に縁取られており、しばしば言葉を失う。)

だが、そうした旧ソ連、ウクライナの社会状況の特殊性という面を考慮してもなお、本書から我々に共通する課題を抽出することは可能である。
放射線における健康影響の問題が社会的に決着を見ない要因の一つに、健康影響を政治目的に利用しようとする動きがあることはしばしば指摘されるが、そうした政治的意図がなくとも、なお、健康影響の問題は残り続けるであろうことも本書から示唆される。WHO等国際機関の公式見解では、チェルノブイリ事故の放射線の直接的影響によって死亡した人数は、237名であり、それ以外は、甲状腺癌の増加が見られるのみとなっているが、本書の中では、直接的、間接的にその見解に対する疑義が提示される。そもそも、少なからぬ被災者は、自分自身の被ばく線量を知らない。中には、事故直後の時期に原子炉直近での作業に当たったにもかかわらず、被災者認定を受けていない人もおり、公式見解に対する疑義が提示されるのは止むを得ないことであるようにも思える。また、放射線の影響に関する確率的影響については、統計的、事後的にしか把握し得ないことが本質的な問題として存在する。統計は集団を把握するためには、有用であるが、一方、統計集団の一員である個人の状態を示すものではない。統計は、集団的、かつ事後的であるのに対して、病は極めて個人的なものであり、個人が関心と不安を抱くのは、自分の身体と未来に対してである。同様に、病によって受苦するのは特定個人であり、どのような集団、あるいは個人も、その苦しみを代わり得ない。統計的理解と個人の苦しみや不安の間には、深い溝があり、両者の空隙を埋めるものはない。すなわち、疾病全体が統計的には増えていないことは検出されたとしても、あなたの病がそうであるかどうかはわからない、と言われて、理解はできても承認し難いと人々が感じたとしても至極当然であろう。これらは、統計的な把握には、個人の生のレベルにおいては本質的に「不可知」の領野が残り続けることを示すものである。どれほど「知」の領野を拡大させ、充実させようとも、それが統計的把握の限界である以上、「不可知」が消えることはない。知で覆い尽くそうとすればするほど、反逆を試みる。(そういえば、「知る」という言葉は、古くは、「統治する」ことをも意味した。フランス語の connaitre にも統治するの意がある。)ウクライナの被災者は、知−不可知の価値の転倒させ、みずからを支配する「知」に対して、生存戦略として「不可知」を用いた。
個人の生における、こうした統計的把握に潜む根本的な疑義に加えて、科学の政治性が知−不可知の緊張関係を加速した。例えば、ソ連時代に急性放射線障害のプロフェッショナルであるアンゲリーナ・グスコワが示した判断は、急性放射線障害以外の健康への影響は存在しない、といったものであった。急性放射線障害を生き抜いた人々は、急性症状が落ち着いた数年後に被災者認定を解除されたようである。グスコワ医師は、チェルノブイリ関係の文書には頻繁に名前が出てくる優れた臨床家であると同時に、研究者であった。ステロタイプの冷たい科学者というタイプではなく、患者の救命のために尽くしたとの評価は、患者側の証言にもあり(アレクシェービッチ『チェルノブイリの祈り』)、私も彼女と面識のある人から同様の評価を聞いたことがある。彼女が誠実な臨床家であり研究者であったとしても、本書からは、彼女の放射線障害に対する一連の判断そのものが、結果として濃厚な政治性を帯びたものとなることになったことがうかがえる。本書では深くは言及されないが、一般公衆の被ばくの上限についてもそこに強い政治性を指摘できる。事故直後のソ連時代には、上限値は生涯35レム(350mSv)と設定されたが、ソ連崩壊後、ウクライナほかCIS諸国では生涯7レム(70mSv)が採用された。このプロセスは、当時のソ連科学アカデミーの放射線防護政策の責任者であったL.A.イリーンの著書『チェルノブイリ 虚偽と真実』に詳しいが、その経緯は、まさに「政治」である。一方、イリーン自身は、自身が当初に定めた35レム基準を「科学的」であるとみなしている。しかし、その決定もまた「政治」であった。しばしば、科学者は、社会において設定される科学基準もまた政治の一部であるということに対して、あまりにナイーブであるように見える。統治のメカニズムに取り込まれた科学は、純粋な、そしてどこか牧歌的な、物質世界のあり方を知的探究心のために探るという意味合いでの「科学」ではなく、社会における利害を呼び起こすという一点において、政治化された存在となることは自明である。
本書の中では、チェルノブイリ事故後の健康影響に関する基準や判断がどのような変遷を辿ったかも証言及び文書、論文などから詳述されているが、科学が統治機構のメカニズムに取り込まれ政治化された中、「倫理」が重大な意味合いを帯びて立ち上がってくる場面がある。ウクライナの放射線研究センターの医師が、IAEAなど国際機関に対する強い怒りと不信を表す場面である。つまり、国際機関が作り上げた「真実の体制」は、「比較的無傷でこの文脈に出たり入ったりできる彼らにはほとんど何の犠牲も強いることがない。一方でこの体制が、災害の検証に携わり続ける科学者や臨床医にもたらし得る道徳的影響は破滅的だ。」「彼らは自分たちの権威と技術的資源の支配を利用して、科学的知見を「公式の」言説対「非公式」の言説、「正当性のある」科学対「正当性のない」科学へと分類する。」 この臨床医は、自分のもとを訪れる被災者たちの少なからぬ者たちが、その病と苦しみを生存のための手段として利用しており、病や苦しみを誇張していることをよく理解している。それでもなお、なんらリスクを負わない高みから決定し、指図する同業者たちに対する怒りと不信を抱き、彼らはチェルノブイリの影響を「過小評価」している、と評価する。この箇所には、その決定によってなんら影響を被ることのない人々が、直接的に影響を被る人たちに対して、一方的な決定を下すことの倫理的問題が鋭く指摘されていると理解すべきだろう。どこまでも医療とし、どこからを医療の対象としないのか、それを誰がどのように決められるのか。その決定に対する信頼はどのように確保されるのか。医療が統治のメカニズムに組み込まれた社会において、純粋な科学とはまた次元を異とする倫理的問題が立ち上がる様がここに描かれている。

本書の最終章では、「自己アイデンティティと社会的アイデンティティの変化」について述べられている。前述したように、アントンとハリア夫婦に関しては、ソ連崩壊の影響が色濃いものであるように思える。ソ連崩壊を境に、学校で教えられていた全てのこと、親世代の全ての知恵と価値観が役立たずのものとなった。そこに経済的崩壊も重なり、熟年世代の多くの人々が、社会的役割の一切を失うことになった。このことは、『セカンドハンドの時代』に見事の描かれている。日本も、第二次世界大戦の敗戦を境に、価値観の転倒が起こっており、それと同様の、あるいはそれ以上の衝撃が国全体に及んだことが見て取れる。ソ連時代の価値観を捨てられない人々は、ソヴォーク(ソ連人)との蔑称で呼ばれた。
この激烈なアイデンティティの崩壊と、原子力災害におけるアイデンティティの変容は、私見では、若干異なるように思える。原子力災害でのアイデンティティの変容は、表面的にはより穏やかであり、静かに進行する。「自分になにが起きているのかわからない」「この先どうなるのかわからない」 長期間にわたって残存する放射性物質の存在が、未来に対する自信を揺るがし、不安を掻き立てる。また、生活環境に対する安心感も失われる。自己アイデンティティは、生活環境によっても支えられている。環境に対するそれまでの信頼感に基づく結びつきが揺らぐことによって、自己アイデンティティもまた同じように揺るがされる。他者との繋がりにおいても同様のことが起きる。自分と他者、自分と社会、生活をつなぐあらゆる蝶番が歪み、あるいは不調となる。また、避難する環境になった場合は、それまでの社会的繋がりや社会における自分の位置付けの一切を失うことになる。一から自己アイデンティティを組み直し、また、社会的アイデンティティを構築するという作業は、年を重ねた人であればあるほど、大きな困難をきたすことになる。
人は、社会との安定した繋がり、そして自分自身の役割と居場所を見つけられなければ、安定した暮らしを営むことができない。また、自分の未来に対する(根拠のない漠然とした)信頼、自分自身の体をコントロールできているという身体に対する信頼。平時に暮らしていたならば、意識さえしない当たり前のことを、それらが不調をきたすことによって、まざまざと浮き彫りにするのが、原子力災害の特徴と言える。そうした不調を新しく再調整し、新たな自己アイデンティティと社会的アイデンティティを構築することが必要となる。

2012年にベラルーシにおけるチェルノブイリの被災地域を訪問したことがある。一度きりの訪問であり、どこまで実態に近づけているかは、やや心もとない部分もあるが、少なくとも、1995年前後のウクライナにおけるような破滅的な状況ではなかったことは確かである。これは、ベラルーシが、ソ連邦崩壊後も、社会主義体制のまま連続性を持ったまま継続しており、ウクライナに比べて、社会状況の破綻の衝撃がより穏やかなものであったことも関係しているのではないかと思っている。独裁体制の中で、体制の批判をする言論の自由が制約されているということを差し引いたとしても、人々は、当時の混乱や困難な状況を語りながらも、自身を「被災者」としてよりも、生活を立て直した、状況に立ち向かい、克服しつつある人間として語ることを好んだ。こうした語りが可能となったのは、その時期、ベラルーシ国内での被災地においては、個別の補償制度に加えて、生活状況(ウェル・ビーイング)の向上があったことが大きいように感じている。私が訪問した地域は、EUの支援が入った地域になるが、そこでは、研究プロジェクトのみならず、被災者、被災地域に直接、目に見える形でメリットがある支援が行われていた。具体的には、所得を増加させるための酪農支援の貸付制度、在来種より乳量の多い牛の導入、その他農業支援、また、健康診断制度の拡充による健康状況全般の向上等である。こうした全般的な生活環境(ウェル・ビーイング)の向上が行われた場合、「被災者」、あるいは「病者」としての自己アイデンティティを保持するメリットはほとんどない。むしろ、困難な現実に立ち向かい、克服した人間である方が、暮らしやすさは格段に向上する。隣国ウクライナとは、まったく別の自己アイデンティティの構築の過程がここにある可能性がある。(上述したように一度きりの訪問であるため、断定は控えたい。現実の諸相は複雑で入り組んでおり、私がここで記述したよりもはるかに複雑であろうことは察しつつ、比較のために敢えて記述する。)
こうした大規模、かつ人為的な災害における、その後の復興プロセスをどのように構築していくかは、非常に難しい問題であるが、ここで示唆されるのは、個々の補償を行うのと並行して、全体の生活状況の好転にリソースを振り向けることが、人々を生政治の渦に巻き込む危険性がより低くなる、ということではないだろうか。

多くの人が、本書を読み、東京電力福島第一原子力発電所事故後のあり方を連想するだろう。日本も同じような状況になるのか、と。現状、ウクライナほどの状況にはなる可能性は、極めて低い、と言って良いと思う。その理由は、多くの問題をはらみながらも、現状、日本の社会状況は、ソ連崩壊後のウクライナに比べれば、はるかにマシと言えるからである。ただ、この先の社会状況次第では、ウクライナの状況に近づくことはありうる。日本の場合は、長期に渡った避難指示の影響が非常に大きく、避難指示の長期化にともない、生活再建、被災地域再建の難易度が格段に高くなっている。アンケート調査等を見ると、現在も続けられている賠償が打ち切られたのち、自力で生活していくことが困難になる人々が一定数存在する危険性がうかがえる。そうした人々のこの先の生活状況次第で、ウクライナよりははるかに小規模とはいえ、生政治に自ら参与する人々が増加する可能性は否定できない。原発事故と避難によって失われた経済的、社会的基盤、そして、社会的役割がこの先回復できるかどうかは、注意深く見守らなければならない。
粥川氏の解説にも触れられていた賠償の問題について付記しておく。総額としては非常に大きな金額が動いたことは事実である。しかし、それが避難者全体に満遍なく行き渡っているものでないことは、制度設計から明らかである。持てる者にはそれに応じて支払われ、持たない者には支払われない、それが賠償のシステムである。また、賠償の金額の妥当性は、生活再建の度合いによって変わってくることも注意が必要である。すなわち、失われた生活基盤がいつまでも回復されない場合、賠償の必要性は継続することになるが、それは、保証されていない。一時的にまとまった金額が入ったため、目につく使い方をする人たちがいたことは事実であるが、しかし、それがその後の生活再建を決して保証しないことは認識しておく必要があるだろう。今年、避難地域12市町村の世帯主を対象として取られた生活実態アンケートでは、すべての世代を通じて、30パーセント以上の比率で「生活費」に対する不安と困難を回答している。

2017-08-16


 アーレントの『全体主義の起源』3巻を読み直している。
 私がこの1,2年、直面してきたものの多くについて明晰に述べられていることに驚くとともに、深く安堵する。言語化することを躊躇ってきたことが多くある。予言の成就を願っているのではないか、という自分自身への反問に明確な答えを出せるだけの余裕がなかった。舌先に引っかかった言葉をのみ込み、砂を噛む、そんなことを繰り返してきた。しかし、アーレントがもはや包み隠すことなく露わにしているのであるならば、私が躊躇う理由もないのだろう。私が感じていたことを、やがてアーレントと話してみたい。語りうる他者がいることの喜びは、何者にも代え難い。
 

2017-03-11 祈りに代えて

 終わりのはじまりのはじまり。
 そんな気配が濃厚に立ちこめる日に、どのような言葉も、口にすればたちまち力を失い、掻き消されてゆく。
 祈りと聖句に代えて、書き付ける。

 わたしは心が痛い、でも、この痛みは、わたしのもの。わたしは痛みからどこにも逃げない。わたしが、すべてを受け入れて、この痛みに感謝しているとはいえない。そのようにいうには、なにかほかのことばが必要です。いまはそれを見つけることができない。わたしは、自分がこんな気持ちでいて、みなからかけ離れていることを知っています。わたしはひとり。苦悩を自分でひきうけ、それを完全に所有し、そこから抜けだす、そこからなにかを持ちだすのです。それはものすごい勝利で、そこにだけ意味があるのです。手ぶらじゃないということに……。そうじゃなかったら、なんのために地獄におりなくちゃならなかったのでしょうか。
  
    「ある子ども時代の物語」 マリヤ・ヴォイチェショノク 作家、57歳
 

 
 「斧が置かれている……。斧はご主人さまがいなくなっても生きつづけるのだよ……。きみは、わしのことばを思いだすときがくるだろう……。きみはこうたずねたね。(ぼくはたずねていた)人間であることは早く終わるものなのか、どの程度もつものなのか、と。答えてやろう。曲げ木の椅子の脚を肛門へ、あるいは陰嚢にキリを、それで人間はいなくなるんだよ。ハハハ……人間はいない……。クズだけだ!ハハハ……。」
  歴史全体が洗いざらい調べられた……。何千もの暴露、何トンもの真実。過去は、ある人びとにとっては長持ちいっぱいの肉と樽いっぱいの血だが、別の人びとにとっては偉大な時代なんです。

     「赤い小旗と斧の微笑」 アンナ・Mの息子

  スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチ『セカンドハンドの時代 「赤い国」を生きた人びと』松本妙子訳



 われわれの時代を生きるすべての人びとに、魂の平安を。

プロフィール

ando_ryoko

福島県の田舎で暮らしています。