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暮らすの言葉 随想記 RSSフィード Twitter

2018-03-25


 2015年、遅くとも2016年までのわたしは、ずっと「間に合わない」と焦っていた。
 避難指示解除の遅れが、避難区域の将来にわたって壊滅的な影響を与えることは、避難指示が出ていた時点からわかっていた。わたしが走り出した、走り続けた大きな理由は、そこにある。間に合わない、間に合わない、時間がたてばたつほど、避難区域の荒廃は目に見えるものとなり、焦りは強くなった。2015年後半から2016年にかけての焦燥は、半泣きであったと言ってもいい。
 そうして、2017年春。避難指示の解除は、大きな感慨もなく、淡々と迎えた。もはやなるようにしかなるまい。主に属人的ななんらかの努力と試み、そしていくつかの好条件によって、局所的にはうまくいくところもある。しかしながら、全般的には、傷口は深く、超長期的にわたって対処していかざるをえないだろう。
 ここのところ、ごく一部で活発になっている基準の見直しと帰還困難区域への対応の議論の内容は、あまりに時機を逸しており、彼らにはなんの現実も見えていないことに疲弊に近い徒労感を抱く。2015年から2016年にかけて、比喩ではなく、断腸の思いで時間が過ぎ去っていくのを見送った。2014年に言っていただきたかった。なにをいまさら。
 現在、動き出している特定復興拠点案のいくつかを見ても、期待居住人口は過大に見積もられており、ハコモノは計画通りに行えたとしても、その後は、よほどの好条件か現実的な新事業が加わらなければ、容易には維持できないだろう。自治体によりけりだが、わたしの状況認識からすると、居住人口を10倍近く過大に見積もっているものも見られる。

 帰還困難区域は、30年なりの時限付きで据え置き、その間に、他の地域の復興事業と並行して、将来構想を練り、同時に人々の生活再建と共同体維持事業を行うことがよいのではないかと、ずっと思っていた。30年といえば、長いようだが、しかし、すでに7年が経過し、現下策定されている特定復興拠点とて部分的に実現するのは10年後以降である。ライフタイムスパンで見れば長い30年も、事故の及ぼした影響が波及する歴史的時間単位で考えれば、決して長いものではない。

 個人の人生時間で考えれば、すくいがたい現実も、歴史的時間で回収することは可能だ。それを教えてくれたのは、絶望的な現実を歴史に組み入れることで、不屈の現実に変えようと苦闘している人々の姿である。
 いずれにせよ、この出来事の歴史的帰結を見届けるのは、わたしたちの世代ではない。その次、あるいは、さらにその次の世代になる。

2018-03-11 7回目


 すっかりイベント化した7回目の3月11日は、普段と変わらぬ日常を過ごしていた。
 いや、実際は、去年も、その前の年も、14時46分のサイレンを黙って聞きつつ、同じように過ごしていたのだが。
 ここ1年ほどの間は、震災の言説化が進むのを眺めていた。大抵の人々にとって、被災地の現実は興味の視野からは消え、言説化された震災だけが残された。そこでは、論者の好みによって言論化された震災だけが、あたかも現実であるかのように語られ、現実は、言説のフィルターを通してしか顧みられることはなくなる。
 風化とは、歴史化される過程であり、必然である。
 言説化されないものは、取り残され、多くは、歴史の底に沈む。それをすくいとれるのは、連綿と続く生活だけである。こうしてみると、言説と生活は、本来的に相入れぬものなのであろう。
 
 この震災の不幸は、あまりに大規模であったため、言説化のスピードと現実の回復が見合わないことにある。
 こと、原発事故においては、いまだ帰趨さえ決まっていない生活があるのに、それらの生活をさえ、言説が覆い尽くそうとしている。言説は、これらの生活を救うことは、この先も決してないだろう。
 人々は、この先も、震災について語る。けれど、それは言説化された震災であり、現実の生活ではない。

 置き去りにされる生活に幸いあれ。
 私の思いは、いつもあなた方と共にある。

2018-02-04 Time’s up

2017年はずっと、Time's up、時間切れ、ということを考えていた。
葛藤していたと言ってもいいと思う。

震災が起き、その後、「復興」がはじまった。そこで、多くの人が目指したのは、暮らしを取り戻すことであった。その場合の「暮らし」は、多くの人にとっては、かつてあった暮らしであり、若干変化はしても、なるべく震災前に近いものを求めていたと思う。
その時期は過ぎてしまった。
もう、この先は、かつてあった暮らしを取り戻すことはできない。
ここから先は、「取り戻す」のではなく、新しい暮らしを「作り出す」「生み出す」局面になっていく。そこでの暮らしは、かつてあった暮らしとは、また別のなにものかになるだろう。
これは、夢のある話なのかもしれない。旧来の弊習にとらわれず、やる気と才覚さえあれば己の思うままにやりたいことをすることができる。現に、そうした動きをしている若い世代もいる。
けれど、時流に乗れる人は、そう多くもないだろう。どれだけ底上げしようとも、何かを生み出す才覚とエネルギーと情熱を持った人間は、そんなに多くはない。つまり、才覚を持って新たに切り開くエネルギッシュな少数の人と、方向性を見出せず行き場を見失った多くの人たちという二つの極にはっきりとわかれてくるのだろう。
わたしは、乗り遅れる側の人間であるので、いたましさを抱えたまま、2017年を過ごした。いまも、そのいたましさは消えないが、わたしは、時流の最後尾にいて、行き場を見失う人がなるべく少なくなるように、わずかながらの助けとなるようにしていくしかないのだろう、と、いまは考えている。

そして、いつものことだが、世の大勢が時間切れに気づくのは、もう少し、先のことになる。

2017-12-24 語り得ぬもの、語り得る他者

少しゆっくりめの朝、ホテルの隣のファミリーレストランでの朝食は、滞在5日めにもなると、すっかり飽きてしまって、メニューを見るのさえうんざりであったのだけれど、ため息をつくように比較的食べやすいホットマフィンとハッシュドポテトのセットを頼む。メニューを投げ出すように、彼も同じものを頼んだ。

窓のすぐ下は駅、クリスマス飾りに彩られた駅前を勤め人が忙しそうに、けれど、地方都市らしくゆったりとしたペースで通り過ぎる。

窓の外をじっとしばらく眺めて、そのまま何かを思い出したかのように目元を緩め、わたしを見つめながら言う。「信じられる? もうすぐ6年になる。私たちも年を取った。」 時間を振り返る余裕なんてこれまでなかった、と思いながら、そうだね、とわたしは頷く。それからまた、窓の外を見る。立ち止まって過ぎた時間を振り返るほどには、時間の流れが緩やかになってきたのだろう。そのことが喜ぶべきことなのか、悲しむべきことなのか、わからない。不意に、飲み物はドリンクバーであることを思い出したのだろう、彼は立ち上がり、「コーヒー、飲む?」とわたしに尋ねる。「カフェオレ? ブレンド?」そう確認をして、ドリンクバーに並んだ彼の姿を眺めていた。

そうだね、出会った頃より背中が丸くなった気がする。あなたは少し年を取った、きっと、わたしも同じだけ年を重ねている。でも、着ているセーターはいつも同じ、胸に赤い小さなワンポイントの刺繍が入った紺色のそのセーター、旅先に持ち歩くのにぴったりなのだろうそのセーターを皺にならないよう丁寧に畳む仕草を思い出す。きっと子供の頃からそんな風にしてセーターを畳んできたのね、あなたは。そんなことを考えているうちに、片手にコーヒー、片手に紅茶を持った彼が席に戻ってきた。

しばらくティーバッグを浸したり上げたりした後、考え込むように口を開く。「いまでも、なぜこんなに長い間、放射能被災地域に拘るのか、自分でもよくわからない。いや、もちろん部分的にはわかるし言語化もできる。でも、一番根本のところが今もはっきりしない。それは、あなたもそうなのかもしれない。自分は、それをちゃんと考える必要がある…。」
最後のあたりは独り言めいた口調になって、かき消すように口をつぐむ。
わたしは、「そうだね」とだけ答える。後の言葉は続かない。
わたしと彼の会話は、いつもこんなものだ。時折、なにか意味のあることを会話する、そのあとは、黙って景色を眺め、たまに目配せし、一言二言なにかいうときもある、何も言わないときもある。

わたしは、考えていた。自分がいつまでも続けている理由はなんなのだろうか、と。幾つもあってあげればキリがない気がする一方、そのどれも違う気がする。いくつかの理由は、取り乱さずには話せないほどには、心に深く刺さっている出来事であるのに。

「安東さん、あのね」と囁くような声が、聞こえた気がした。

安東さん、あのね、わたし、ほんとはね。

それは、知り合いになった年長の避難区域の方からの電話だった。突然の電話の非礼を丁寧に詫びた後、彼は、慎重に「本当のこと」を何か言った。でも、きっと、それは、彼の本当に言いたいこととは違ったはずだ。ひとつひとつ、選ぶように語りながら、言葉と声色がどこが不調和な調子に、わたしは、きっと本当のことは別のことなんだろう、と思いつつ、相槌を打っていた。彼は、気づいているのか気づいていないのか、いくつかの「本当のこと」を語り、そして、いややはり違うのだ、と打ち消し、そして、また別の「本当のこと」を語った。

彼は、ただ、本当のことを誰かに言ってみたくなったのだろうと思う。本当のことが何なのかは、きっと、彼自身にもわからない。言葉を手探りし、頭の中を探り起こし、ひとつひとつ声に出して繋いでみても、やっぱり違う。でも、誰かに語ってみたくなったのだ。飛び立つことのできない鳥が、ふと思い立って羽ばたきを確認してみるように。羽ばたきをしている間は、大空を巡る自分の姿を夢見ていられる。あの日から、私たちは「本当のこと」を語るだれかをずっと探しているのかもしれない。それを語れないことを知りつつ、語りうる他者を。

溢れる無数のリフレインの中を今日も歩く、あのね、わたし、ほんとはね、ほんとはね、ほんと、ほんとのことを、わたしは、あのね、あのね…。



語り得ぬものについては沈黙せよ、否、語り得ぬものだからこそ語れ。それが無意味な音声の羅列に過ぎぬとしても。

2017-10-29 「生命の破壊」という表象

『曝された生』で詳細に掘り起こされたウクライナの事例は、それそのものでも十分に興味深く示唆に富むものであるが、著者の放射線や原子力に対する姿勢も、わたしにとっては関心を引くものであった。本文の記述中に「生命の破壊」という表現が出てくる。研究者らしく、他の部分が具体的、そして抑制の効いた記述が多い中で、この比喩的な表現は、唐突感さえ覚える強い表現であった。著者が意図的にこの表現を使ったのか、あるいは無意識に出てきた表現なのか。もう一箇所の福島事故を受けての記述、「チェルノブイリの科学者が成し遂げられなかった疫学的知見の至的基準を築くことを期待している」と共に、著者のとらわれている部分を端的に示しているようにも見えた。

ここで述べられている「生命」は物質的な命と言うよりも、人間の生そのもの、人類の生命の営みそのものをあらわしているように読める。チェルノブイリ原発事故においては、確かに、緊急時には少なくない人命が失われ、そして、その規模においては本書にも示されているように議論はあるものの、放射線による一定の健康影響があったことは言うまでもない。しかし、それにしても、著者が言う「生命の破壊」という、生命の営みそのものに対しての破壊という表象の源泉は、チェルノブイリの被害のみにあるものなのか。本書の内容からしてみても、確かに、国際機関の公式見解に対する疑義は提示されはするものの、ここまでの強い表現が使われる必然性があるほどのセンセーショナルな健康被害の描かれ方はしておらず、違和感を覚える。わたしは、この表現は、チェルノブイリの被害以前から、放射線、原子力、科学技術に抱かれていた無意識のイメージが、著者もそれと感じることなく、表出されたものであるように感じる。

そう思うのは、オーストラリア訪問の際に感じた、核開発と原子力の平和利用、放射線の抜き差しならないイメージの同一化を強く感じているからだ。そのことについては、以前、簡単に書いた事がある。
https://www.facebook.com/ryoko.ando.f/posts/402784640065336

イギリス統治時代のオーストラリアで行われた地上での核実験は、それそのものでは犠牲者は出ていない。実験であるから当然とも言えるが、それでも、実験が行われた砂漠に居住していたオーストラリアの先住民族アボリジニの証言は、濃厚な死のイメージに縁取られていた。そのすぐ後ろにあるのは、言うまでもなく、広島・長崎への原子力爆弾投下と巨大な犠牲である。オーストラリアでの核実験を見守る当時のイギリス軍の将校たちの様子が映像として残されている。彼らは、爆発が成功したことを確認すると、破顔し、互いに握手し、成功を喜びあった。わたしは、背筋が寒くなりながら、彼らは「狂っている」と思った。もちろん、彼らは精神病理的な意味では狂ってはいないし、その点から言えば、まったくの正常である。彼らの核開発にかける情熱は、当時の軍事状況を考えれば必然であり、また論理的にも理解できる。しかし、やはり、わたしは、あれほどの災厄をもたらすことが既に広島・長崎で明らかになっている兵器の成功を無邪気に喜ぶ彼らは「狂っている」と感じた。ここでわたしが感じたことは、スタンリー・キューブリックの映画『博士の異常な愛情』で描かれた科学者像が惹起する感覚とほぼ一致する。みずから手にした科学技術によって、みずからもその一員である人類社会を滅ぼしてなお、科学技術の発展に邁進し、また、それを喜ぶ科学技術者という表象は、キューブリックが戯画化して描いたがために一般に流布したのではない。核開発と核兵器実戦使用という現実によって現前化したものを、キューブリックがアイロニカルに、そして見事に描き出してみせただけである。もし、核開発あるいは、少なくとも核兵器の実戦使用がなければ、放射線や原子力、そして科学技術に対する、ここまでの不信や恐れはなかったと、わたしは確信している。そして、人類は、その歴史を選択しなかった。

話を『曝された生』に戻す。著者が「生命の破壊」という表現を使った背景には、こうした核兵器や原子力に対する、チェルノブイリ以前から存在した死と破壊のイメージが強く反映されている。著者にしてみれば、広島・長崎で行われた「生命の破壊」が、チェルノブイリでも繰り返されたという認識なのかも知れない。しかし、これらが、核兵器にともなう死と破壊が惹起した表象、ないしは表象をとなう現実である以上、それに対して求められる対応は、「疫学的知見の至的基準を築くこと」であるようには思えない。基準がつくられたとしても、「生命の破壊」は現実的にも、表象としても止むことはないからだ。こうした噛み合わない論理が語られるのは、著者が、自身の持つ「生命の破壊」という比喩がどこから出たものなのか把握出来ておらず、相対化して捉えることができていないからであるように思える。また、科学技術に対して不信を抱きつつも、その成果を信頼し、恩恵を日常的に受けていることに対するアンビバレントな感覚が表現されているようにも見える。努めて研究者らしく冷静で論理的に記述している著者の、科学に対する不信と信頼が矛盾した形で示されているように思うと同時に、ここにチェルノブイリや放射線の健康被害を取り巻く、止むことのない混乱が象徴的にあらわされているように感じられた。

プロフィール

ando_ryoko

福島県の田舎で暮らしています。