文化を体現しているということ

人鳥(ぺんぎん)堂の飯島です。意見は、私個人のものです。


立夏 第二十一候『筍 生ず』

 屋外で本を読む、それに気持ちのいい季節になりました。しかし、適当な場所はなかなか見つからないのが現実です。ここはどうでしょうか。人が何人かいることもあり、好い時間にめぐりあうことが肝心です。
 今日の珈琲は、「モカ・グァテマラ」ハーフ・アンド・ハーフ(勝手な命名です)でした。


沿線風景で『バルテュス』と会う

 週に2日、朝、電車に乗り職場に向かいます。二つ目の駅の沿線沿いに、『夢見るテレーズ』の絵、バルテュス展の大きな広告看板に出会う日々がおよそ1カ月くらい続いたと思います。そして、テレビ番組もありました。
 アンドレ・マルローの推薦で、かつてバルテュスが館長を務めた、ローマにある「アカデミー・ド・フランス」のこと、そして、そのローマに「日本文化会館」が設立されたことなどを知るにつけても、”文化的存在”への道は、文化的存在として今日、認知されている国々にとっては、営々として積み重ねられた努力の上にあるという思いとともに、戦略的な選択、館長職にいかなる人を充てるかということを含めて、その叡智が輝く国ほど、成果を上げているのでは、と思わせるのです。果たして、日本はどうでしょうか。そんなときに、節子・クロフスカ・ド・ローラ著『グラン・シャレの美学 言の葉づくし』を読みました。


 バルテュス夫人にして『トルコの部屋』のモデル、ユネスコ「平和のアーティスト」など多彩な経歴を持ち、確固たる、『とはずがたり』の作者のように自分の考えを貫きとおす強い意志の持ち主の書いた本書を読むと、文化的存在の淵源についての、人が、そうあることの不思議も感じてしまうのです。



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