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2018-04-23

恐れと共に

9番目の音を探して 47歳からのニューヨークジャズ留学

踏み出す時には恐れはつきもの。
この辺りを読みながら、恐さの先に行くことって大事だなと思いました。

P328
 ヒッチコックの映画にStage Fright(舞台恐怖症)というのがある。彼がイギリス時代に作った映画で舞台という限られた空間の中にある恐怖を切り取った名作だ。
 昔マービン・ゲイがステージ出る前に「恐い恐い」と言って袖で震えていたそうだ。その彼の背中をマネージャーがぽんと押す。そうすると彼はおずおずと舞台の光の中へと出て行く。そうして一旦その中に入ると、あのマービン・ゲイになるという話。
 僕には経験がある。今まで恐かったことのないステージなど一回もないくらい緊張の連続だったし、その緊張と舞台でのパフォーマンスの狭間にある、何か見えない川のようなものを渡ったときに気がつくとそこにいるのだ。クリスたちと感じたあのリズム。あれもそうだ。新しいもの、未知なものへの恐怖と興味。現実ではない空間へ入る恐さとドキドキ。
 どこか似てないか。学校の中から徐々に外へ出る準備をしなければならない。
 ・・・
 ・・・変わり続ける自分はこれからいったいこのNYという街で何をやっていくのか。
 思えば人生自体が1つの舞台である。その袖には出演者がいつも待機している。舞台に足を踏み出したらもうスポットの中で顔を俯けているわけにはいかない。・・・
 舞台を降りてメイクを楽屋で落としながら、自分の今夜の舞台に何が必要だったのかを冷静になって考える。色んな人種がいて自分にはない世界を生きている。誰かになるなんてことはできないしやる必要も無い。だとすると、自分のフォルテはなんなのか、今一度じっくり考えてみる時期ではないか。
 ・・・
「とりあえず俺はシカゴに帰るかな。まずは職を見つけなきゃ。千里は?」
 僕は卒業を延ばそうかな、ふとそんなことを考えた。もう1セメスター頑張って何かを探してみる。でも言葉には出せなくて、ただ「サバイブ!」とだけ答える。
「そうさ。サバイブさ!」
「そう人生はサバイブ!」

P340
 ・・・NYを目指した4年前には想像だにしなかった現実が、より目の前に肉薄して来る。人生の経験値とは一体なんの意味があるのだろう。あの頃よりもむしろ無防備で使える武器が何もない。虚栄も、多少残っていた傲慢も、そんなに意味をなさないことがすでに証明済みだし、素手で勝負をしようとだけ思っても足りない力は自分が一番知っている。どんなに今自分が心もとなく孤独なのかということを、誰かに大声で叫びたかった。しかし、まあ、なるようになるでしょうと思い直す。好きなことをやりにここに来た訳だから、と自分に言い聞かせて大きく伸びをして地下鉄の駅に向かった。

2018-04-22

このあたりも

9番目の音を探して 47歳からのニューヨークジャズ留学

印象に残った文章です。

P178
 日本でもこれまでそうだった。身に余るようなチャンスが来たときに断らずに引き受ける。そして演奏本番までにその水準まで必死に練習して成長するのだ。そうやって難所を何回も乗り越えて来たではないか。同じことをやればいいのだ。

P261
 やり終えてまず「感謝」と「安堵」、その2ワードが頭に浮かんだ。その日帰宅すると泥のように眠った。そして起床したとき、まだ「無心」の自分がそこにいた。頭で考えて、一生懸命先を読んで、ああでもないこうでもないと言っていた自分が、昨夜の睡眠の途中に古い殻を脱ぎ捨てて、ひょっこり緑色の芽を出していた。

P278
 リユニオン、この言葉の響きが好きだ。どれだけ経験や時を重ねても、一度分かち合ったあの瞬間をもう一度、そう思える心にあるのは「優しさ」だと思うのだ。人は幸せなど感じる心を持ち合わせてはいない。過ぎてみて感じるのだ。過ぎてから、苦労して痛みを知ってあの瞬間がどれほど愛おしくて大事なものだったかを知る。そしてその瞬間にもう一度戻ることはそれを両方経験したからこそ出来るのだと思う。

2018-04-21

一歩一歩

9番目の音を探して 47歳からのニューヨークジャズ留学

弱音を吐いて、先生に励まされ、涙を流し・・・という時期のお話、励まされました。

P105
 去年の今頃はまだ、長い長いトンネルの中にいた。時間は1ミリも前へ進まなくて途方に暮れていた。しかし1年たって、今同じ季節を過ごす自分は、何を身につければいいのか少しだけ自分の頭で考えることを覚え始めた。
 ・・・
 50歳が近づいて来て譜面もだんだん読みづらくなって来た。いわゆる老眼というやつが始まったのだ。日本にいるときは、ミッキーマウスのように年をとってはいけないのだとどこか思っているところがあった。そのうちに、「よいしょ!」と声をあげないとミッキーになれないときがあって、それでもミッキーミッキーであり続けなければならないのだと自分に課していた。
 今20歳の同級生たちと同じ暮らしをして、アメリカの食べ物を食べて少し緩んだお腹に老眼、白髪もうんと増えたけれど、もしかして人生はここからじゃないか。時間を取り戻そう。自分の音楽に向かうなにかが見え始めたような気がした。でも、それを掴もうとするとすぐに消えてしまう。しかし今はそれでもいい。目の焦点がぼやけて不服を言うよりも、別の目が開こうとしていることを幸せに思おう。
 亀はのろくても、亀にはのろいか速いかなんて思いはない。いつか自分自身のゴールが切れればそれでいい。そのゴールは決して速弾きピアニストではない。あと何年人生があるのかはわからないが、これからは自分自身に近づくことだけをやり続けよう。・・・

2018-04-20

9番目の音を探して

9番目の音を探して 47歳からのニューヨークジャズ留学

大江千里さんのエッセイ、先日読んだのは音楽学校卒業後のお話でしたが、音楽学校時代のものも読みました。
JAZZを身に着けるために一歩一歩がんばっている姿に、ハラハラドキドキ、冒険小説を読んでいるような感じも。
ここは、マネージャーさんがこんな風に後押ししてくれたのが、すごいことだなと思いました。

P4
 秋の始まりの頃に出願していた、ニューヨークにあるザ・ニュースクール・フォー・ジャズ・アンド・コンテンポラリーミュージック(以下ニュースクール)という音楽大学。そのジャズピアノ入学の承認メールが届いたのは、10月の終わり頃だったろうか。
 年末にやるクリスマスロングコンサートの会場もすでに押さえていたし、この出願はどこかで、腕試しみたいなところが無きにしも非ずだった。もちろん、受かったら行かないつもりではなかったけれど、それも100%sure(確か)かと言われると自信などなく、とりあえず先のことは今は考えず、とにかく長年の夢だった音大への挑戦を一度はやってみるーきっかけはそんなノリから始まったはずだった。
 しかし、オーディションテープを送付したら、ありがたいことに「合格」通知が届いた。その途端、僕の中の眠っていたものに一気に火がついた。
 ここで行かなきゃ。もはやこの先の人生で行くチャンスなどないかもしれない。まず仕事の相棒であるマネージャーに相談した。彼は注意深く僕の話を最後まで聞くと、こう言った。
ジャズをやりたいのはここ数年の音楽を見ていててわかっていたし、これは、行ったほうがいいですね」
「ほんとにそう思う?でも仮に行くにしても、年末のクリスマスコンサートまではやり切ってからのほうが。もうテーマも決まっているし」
「いや、今そういう気持ちになったのならば、明日から入学に向けて全部のエネルギーを使ったほうがいいですよ」
「……」
「僕がコンサート会場のキャンセルとかはうまくやります。なので、あなたは次の人生に全身全霊で向かってください」

P7
 夏のある夕方。ヒルズのショーウィンドウに映り込んだ自分を見てはっとする。それは相似した誰か別の人の顔だった。言いたい言葉を呑み込んでいるというか、おとなしそうな顔を繕って、尖ったなにかを隠し持っているように見えた。
 下からおそるおそる覗きこむようにそいつを値踏みしてみる。大まけにまけて、うさん臭い「60点」。そう心でつぶやき、はっとする。
 3年後の50歳の誕生日に、この男、どこで何をしているのだろう。何処かのショーウィンドウに映る自分を見つけては、今日と同じようにサーカスティック(懐疑的)な押し問答を繰り返すのだろうか。一人二役で。少なくとも、そのときは今よりもっと底抜けに笑っていてほしい、なんて思った。もしそのときに鏡の向こうの自分が乗り出して、僕に「今やりたいことができているか?」と質問すれば、即座に「にやっ」と不敵な笑みをそいつに返してほしい。そんな人生を送っていてほしい。そう切に思った。
 それまでの絶対的な価値観の幕をおろすのはしんどい作業だが、何度となく自分の身に降りかかってきた他動的なアラート(警告)、これは他でもない「漫然と生きるよりもゼロを選ぶ」ことへの、自らの心がずっと出していた「サイン」だったわけだ。

2018-04-19

偶然?

美女という災難―’08年版ベスト・エッセイ集 (文春文庫)

いろんな方のエッセイが載っている「美女という災難」を読みました。このタイトルは有馬稲子さんのもの。
こちら↓は「介錯人の末裔」という、こんなこともあるんだなと興味深かったものです。

P81
 メラ爺は、亡き祖母の弟、つまり私の大叔父である。姓が米良なので、いつしかメラ爺と呼ぶようになった。爺は北海道の小さな町役場を定年退職してから、山の監視員などをして悠々と暮らしていた。
 ・・・
 現在、私の手元に、すっかり色褪せた新聞の切り抜きがある。「討ち入りの日、マチの話題に」という見出しで、五十代の爺が神妙な顔つきで巻物を読む姿がある。このメラ爺の祖先が、赤穂浪士事件にかかわっていた。
 吉良邸討ち入り後、大石内蔵助以下十七名は、高輪熊本藩邸にお預けになっていた。義士切腹の際、堀部弥兵衛介錯を行なったのが米良市右衛門で、爺はその直系の子孫に当たる。
 実はこの話、昭和三十年代に初めてわかったことだった。それまで、細川家にかかわる家系だということはわかっていた。その判明した経緯が興味深い。
 昭和三十三年、私の曾祖母が亡くなった。続いて祖父が脳溢血で倒れ、その看病をしていた祖母がこれまた急死。爺にとっては母親と姉を相次いで亡くしたことになる。たて続けの不幸に、これは何かあるに違いないと、神憑りの婆さんの神託を仰いだ。
 お告げは、謎めいていた。
「獣を殺める者がいる。倒れている。それは壁にくっついている。だから悪いことが起きたのだ」
 何とも要領を得ないお告げに、みな頭を抱え込んだ。家中探したが見当がつかない。そのうち、米良家に何年も開かれていない神棚があることに気がついた。
 恐る恐る開けてみると、中から真白い雌雄のキツネの置き物が一対と古文書が出てきた。古文書には何が書いてあるのか、誰も読めない。当時、町内きっての碩学であった収入役に読んでもらって、右の一件が明らかになった。
 米良家には、女は神棚に触ってはいけないという家訓があり、父親が亡くなってから数十年、神棚は閉ざされていた。爺は、役場に勤める傍ら狩猟を行う。神棚は壁にくっついており、中から出てきたキツネは雌が倒れていた。お告げが解けた。
 それから毎年討ち入りが近づくたびに爺が引っ張り出され、地方のテレビに出演したり、新聞の取材があったり、爺はすっかり街のスターになってしまった。
 ・・・
 平成十七年、私は偶然にも近世史家の佐藤誠氏の知遇を得た。・・・さっそく私は、米良家に埋もれていた古文書を借り受け、佐藤氏に披見した。佐藤氏はこの文書翻刻するとともに、系譜を作成してくれた。・・・
 その後、爺の伯父が神風連の乱明治九年に熊本で起こった不平士族の反乱)で自刃し、翌年さらにその叔父が西南戦争で戦死した後、爺の父親屯田兵として北海道に渡ったという経緯がわかった。・・・
 そんな佐藤氏から、今年(平成十九年)になって思いもかけない誘いを受けた。堀部安兵衛のご子孫にお引き合わせしましょうというのだ。安兵衛は弥兵衛の子で、親子で討ち入りに参加している。
 私は約束の一時間以上も前から、ホテルのロビーで落ち着かない時間を過ごしていた。「すべてオマエに任せた。よろしく頼む」と爺は暢気なものである。
 会ってまず、なんと挨拶したらよいものか。十年、二十年ぶりの再会ならまだしも、三百年ぶりの対面である。しかも首を刎ねた相手との再会と思うと複雑な気持ちになる。
元禄十六年の切腹の節は、御役目とはいえ貴殿の父上の首を刎ね……どうもすいませんでした……」
 何やらおかしい。かといって「父君は、見事な最期でありました」と適当なことをいうわけにもいかない。
 そうしている間に、佐藤氏がにこやかに現れた。紹介されたのは、目の前のソファーにいた初老の男性だった。・・・
「あッ、どうもその節は、あの、お役目とはいえ、どうも……」
 何日も思い悩んだ米良家名代の口上は、通夜のお悔やみとなった。
「いえ、いえ、こちらこそ大変お世話になりました」
 と満面の笑みでいわれたときには、救われる思いがした。現代の安兵衛殿は、博学多才で上品な人であった。
 その後、しばらく歓談したのだが、その間何となく落ち着かない。この目の前の人から、よろしくお願いしますと首を差し出されたら、はたして今の私に斬れるだろうか、などという妄念が頭を掠めていたとき、
「……数年前、とうとう私もクビを斬られましてね」
 といいわれ、ギョッとした。何のことはない、定年退職の話だった。
 ・・・
 実は今回の対面、私の都合で二度も日程を変更していた。結局二月四日に落ち着いたのだが、この二月四日こそまさに三〇四年前の介錯の日だったのである。そのあまりにもでき過ぎた偶然に、私たちは顔を見合わせた。
 ・・・

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