てんてこ舞いの一日。

今日は朝からてんてこ舞いの一日だった。この様な状況に限って滅多に誘いの無い某市議会議員の先生からお茶の誘いが有る。「喫茶店○○に居るから。」・・・こんなに忙しいのに行ける訳ないだろう!本当に忙しい一日だった。
墨俣城
信長公記』『前野家古文書』『甫庵太閤記』などの伝記やによれば、織田信長が、美濃の斎藤龍興を攻略するための拠点として、木下籐吉郎(後の豊臣秀吉)が、蜂須賀小六ら近隣の土豪の協力のもと、木曽山中の木材を前もって部材として加工したものを夜中に川の上流から流し、現地で組み立てる画期的な方法をとって、城をその夜のうちに完成させた為、「墨俣の一夜城」とも呼ばれている。この功績により秀吉は墨俣城主に任命され、その後の出世に大きな影響を与えたのだとも言われているが、墨俣一夜城の逸話には築城の経緯、及び年代に信頼が置けない点が多々あるのが実情の様で、現在、多くの歴史家は通説を否定し、墨俣一夜城築城物語は江戸時代の創作であるという考えが受け入れられているとの事。画像に見る天守閣は、歴史資料館として現代に建てられた模擬天守で、墨俣一夜城築城が史実とすれば、当然秀吉の築城した墨俣城は、中世城郭に多い切妻造りか良くて寄棟造りの総板張り平屋建て程度のものだったのだろう。ただ別の場所で加工した部材を運び込み、短期間で完成させる方法は、建築史においてはプレハブ工法・プレカット工法の元祖と成るのではとも言われている。因みに話が少々それるが、江戸時代の江戸の町は「火事と喧嘩は江戸の華」と言われる程、頻繁に火災が発生していた。その為、大店もしくは豪商と呼ばれる大金持ちは、店舗と略同じものが建てられるだけの部材一式を前もって木場と呼ばれる大工の資材置き場に常時預けておき、いざ類焼・火付け・出火元等に拠って店舗(店舗兼自宅)が全焼に成った場合でも、直ぐに再建し商売が再開出来る様にしていたとの事。現在では作業効率的にも当たり前の他所加工部材の現場搬入建築方法だが、当時の考えとしては斬新で面白い。また避難場所と保養所を兼ねた「寮」と呼ばれる今で言う別荘(別宅)も所有していた事も、詰まる所、一日でも早く開業する為の「商売第一」を考える江戸の町人とくに商人(あきんど)らしい非常に合理的な災害対策的な考え方の様で有る。