城郭紹介/一豊の気分をどうぞ!!高知城

今日これから出掛けるが、出発に1時間程余裕が有るので、現在の高知市内に現存する天守など15棟が国の重要文化財の指定を受けている、高知城の紹介だ。先ずは1枚目の画像は本丸より天守閣を撮影したもの、2枚目の画像は、天守閣最上段に有る踊り場より本丸一帯を撮影したもの。築城当時、一豊もこの様な風景を見た事だろう。さて山内一豊がこの城を築城するまでの話をしよう。豊臣政権下の時代、当時四国の猛将と言われていた長宗我部元親土佐国一帯を領していたが、関ヶ原の戦いの前年の慶長4年(1599年)に元親死去により子の盛親が家督を継いだ。ところが慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは西軍に与して改易され、翌年の慶長6年(1601年)に、代わって織田信長豊臣秀吉徳川家康と仕え戦国時代を生き抜いてきた武将、山内一豊が、土佐藩初代藩主として遠江国佐野郡掛川掛川城から転入し、土佐国一国24万2千石を与えられ浦戸城に入った。その後、浦戸では城下町を開くには狭いと言った理由から大高坂山に築城するよう家臣に命じ、造営が始まる。慶長8年(1603年)に本丸と二の丸が完成。一豊はその年の9月26日(旧暦8月21日)に入城し、河中山城(こうちやまじょう)と改名させた。慶長15年(1610年)、2代藩主忠義は、相次ぐ洪水被害と河中の名を忌み嫌い、高智山城と改名。その後城の名は省略されて高知城と呼ばれるようになり、都市名も高知と呼称されるようになった。慶長16年(1611年)に三の丸が完成し、高知城全体の縄張りが略完成した。ところが、享保12年(1727年)に高知城下は大火にみまわれ、城は追手門以外の殆どが焼失し、8代藩主豊敷によって26年の歳月を費やし、宝暦3年(1753年)に縄張りの略全体の再建を完了させている。尚、現在見られる建造物の大半はこの時に再建された物である。ところで、他の藩では見られない土佐藩特有の役職を1つ序に紹介したい。その役職名は「欠付郷士」と言うもので、「かけつけごうし」と読む。一般には「駆付郷士」と書くのが普通だが、何故か土佐藩の残る記録には「欠付郷士」と書かれている。この役職の役料は不明だが、藩政後期の亨保8年(1723)に設けられた家老配下とする御組付郷士と、御側物頭配下とする御旗本郷士から成る軍事組織で、土佐藩の長い海岸線を防備する役だ。土佐藩では兵員不足を補う為、当初兵農分離政策によって農民とされていた長宗我部家の旧臣である一領具足の多くを、異国船の到来に危機を感じ、農村に住み着く事を条件に郷士として取り立て、いざと成った折に手弁当で海岸に有る指定の守備基地へ参集させるものだった。海防覚書の記録によれば、文化7年(1810年)頃には全藩的規模に拡大され、弘化5年(1848年)頃の記録では、14箇所の守備区域に分け、それに配備された郷士は742人、地下浪人522人、足軽600人、筒役(大砲手)と有る。因みに弘化5年と言えば私の母方の家系図に拠れば、母の祖母の母が父(福田永吉)へ嫁いて行った年だった。
高知城天守

高知城天守閣より遠望