世の中には解決できない問題もある→経済成長問題と、個人の総幸福量問題は別な気が・・・

2009-02-02 - こら!たまには研究しろ!!
しあわせの総量(追記アリ - 鰤端末鉄野菜 Brittys Wake


経済成長ってのは、現実にある問題に対処する一つの手段でしかないわけですよ。で、経済成長が大切って議論が起こると、それよりも配分が大切とか、経済成長を行う過程で人々は幸福になっていくのか?っていう疑問符が浮かぶけど、それは、問題のフィールドが違う気がする。というより、それを一緒に解決しようとして失敗したのが、社会主義体制であり共産主義であると思う。


というより、そもそも経済成長政策→仕事の激化と貧富の拡大、現に俺の生活は苦しいまま、という論法に違和感を感じる。経済成長が起これば、設備投資が進み、手順の合理化、もしくは合理化できない組織は淘汰されていくから、実質の労働時間は下がっていく。だから、労働時間の激務は、法整備とか、属する業界の分布図とか体質に依存している面もあると思う。


後、「俺は貧乏なまま」問題に関しても、経済成長政策は、全体の底上げはしても、個人の貧乏感を補填するものではないから、これは、問題の解決法が違う気がする。これに関しては、セーフティネットの充実とか、負の所得税とか色々あるみたいっすね。どっちにしても、金、というかそれらの人たちを支えられるだけの生産性が必要になるから、やはり経済成長あり気になる。


で、個人的な妄想としては、一つの解決法として、例えば、僕の父親は昔そんなに稼いでなかったけど、なんか近所の人の野菜のおすそわけとかで、結構腹が満たされていたりしていた。もちろん、都市部では無理かもしれないけど、同じような発想で「貧乏感」を補填できないか?と妄想します。


余剰労働力のおすそ分け。まぁボランティアと行ってしまえばそれまでですが、それらの余剰労働力の消費を上手い事地域システムに組み込めんかっていう。というか既にやっている所あるみたいですよね。地域通貨の仕組み絡めて。


後、政策を実感出切る出来ない問題もあるし。そもそも、GDPってヤツも、正確に経済の実態を把握できない可能性があるから、名目GDPと実質GDPっていう二つの統計方法を使った近似値で論じているわけですし。


後、何よりも大切なのが、結局、国は個人を助けてはくれないですよ。それは、国っていう枠組みに期待し過ぎってもんです。例えば、戦争になったら、軍人は民間人を基本助けないとかね。


だから、悪い言い方かもしれないけど、家族や親族っていう小集団がいざという時の保険になったり、そのために結婚するってのも、生き残るための一つの方法論だと思う。


そんでもって、世の中には解決できる問題と解決できない問題もあるって事でして。そもそも、経済政策と個人の幸福量を同じ次元で語ること自体が傲慢であると思う。それって、言い換えれば、個人の幸福を国家の政策で決められるって事ですから。そんなのは傲慢意外の何者でもない。


世の中には年収82マソで楽しく生きている方もおられます。経済政策で個人の幸福量を語ると、この手の方たちの幸福を否定することにもなる・・・まぁ下記の方は少し極端だとは思いますが。


http://d.hatena.ne.jp/kotorikotoriko/20080405/1207327335


と適当な事をいいつつも、やっぱり実際問題として、格差とか雇用の問題はあると。で、それらを全てを解決できないけど、経済成長政策は、ようは物と金の流れをスムーズにさせるってことだから、上手くいけば、ある程度、上記の問題を解決させる事もできる。ただし、あくまで可能性の話ですが、と理解しております。