『シガレット』ハリー・マシューズ【1】


シガレット (エクス・リブリス)
休むときはシラッと休み再開するときは何事もなかったように更新する、そんなブログでありたい。
ということで、久しぶりに更新します。今回は、この間の『空気の名前』同様、白水社の「エクス・リブリス」から先日刊行されたこれ。
『シガレット』ハリー・マシューズ
です。
帯には「実験文学者集団『ウリポ』の鬼才による、精緻なパズルのごとき構成と仕掛け!」とあります。ウリポって、レーモン・クノージョルジュ・ペレックなんかが属してたやつだよね。いや、そんなに詳しいわけじゃないんですが、僕のぼんやりした理解では、数学的な手法を用いた言語実験なんかをしている人たち、というイメージ。このハリー・マシューズはニューヨーク生まれだそうですが、ウリポにアメリカ人もいたとは知りませんでした。
まあ、読んでみましょう。


まず、最初の章「アランとエリザベス 一九六三年七月」。
いつものように、冒頭から。

「どういう意味だ? 『きっと君も説明を聞きたいだろう』って。これじゃあ何の説明にもなっていないじゃないか」
屋敷の破風が、飛翔中の格好のまま剥製にしたコンドルのように私たちの上にそびえていた。続々と人がやって来る。きれいにならした砂利の音がライラックの生け垣の向こうから響き、白い花の咲くヤマボウシの植栽に沿って光の筋が揺れる。白いディナージャケットの男がペンライトで、アランの手紙を読んでいる。
男が手紙を回した。私の番が来て、またヘッドライトが光ったタイミングに中身が読めた。「……あのときの私は――何かに流されていて、ろくにあなたが見えていなかった……暗闇、まばゆい光……とても抵抗できなかった」。私も訳がわからなかった。エリザベスに目がくらんでいたとはいえ、あのアランがこんな手紙を書くとは。
私は理解したいと思った。いつかこの人たちについて一冊の本を書こう。話を一つにまとめようと思った。

どういう状況なんでしょうか? これだけでは、よくわかりません。わかるのは、二つの名前が出てくること。アランとエリザベス。そして、このあとすぐに場面は変わって、アランとエリザベスの出会いが語られます。
長年姿を消していたエリザベスが町に戻ってきて、アランとすれ違う。彼女のことが気になったアランは、ホテルで彼女の名前を調べ、窓づたいに彼女の部屋を覗こうとする。さらに一週間後、彼女が出席するパーティに潜り込み、彼女と言葉を交わし、二人でカジノで遊び、やがてベッドインする。この一連の出来事が6ページで描かれています。たった6ページ! 展開が早いというか、カジノにいたかと思ったら1行後にはもうピロートークですよ。こうした大胆な省略が、あちこちに施されている。
そして、その翌朝、アランはエリザベスに手紙を書きます。「きっと君も説明を聞きたいだろう…」。あ、冒頭の手紙ってこれなのか。でも、ここでも手紙の詳しい内容については触れられず、寸止め状態でどんどん進んでいく。その代わり、ここで読者に重要な事実がひとつ明らかにされます。アランは妻帯者なんですよ。奥さんの名前はモード。あらら、不倫だったのか。しかも、このあとの一文がすごい。「エリザベスはアランの手を借りずに、モードのことを知った」。え? 何それ?
どうやって彼女がそのことを知ったのかは、それ以上書かれていません。この作品にはこんな調子で、さらっと気になることが書かれてるけど詳しい説明はない、という場面がちょこちょこ出てきます。例えば、「彼はエリザベス探しを手伝ってくれた男に大仰な感謝の手紙を書いたことで感情が高ぶっていた」という文章。「彼」ってのはアランのことだけど、「手伝ってくれた男」ってのは誰だかわからない。これまでそんな場面なかったじゃん。重要じゃないから書いていないだけかもしれないけど、ひょっとしたらあの6ページの中で省略されていた箇所に何か隠されているのかもしれない。
「精緻なパズルのごとき構成と仕掛け!」という帯文を読んでいる僕としては、語られていないところに「仕掛け」があるんじゃないかとついつい勘ぐってしまいます。「匂うなあ、匂う」と、犬のように鼻をぴくぴくさせながら読んでしまう。まあ、それが当たってるかどうかは読み進めてみないと何とも言えないんですが。
このあとも、テレビの競馬レースに夢中になったエリザベスがアランに馬乗りになるシーンがあり、エリザベスの肖像画を購入したモードがエリザベスと言い争う場面があり、保険仲介業を営むアランの詐欺行為の話があります。情報量は多いんですが、やはり全体像はよく掴めません。そして、このあとどう展開するのかと思っていると、こんな風にこの章は終わります。

アランは同時に、許しを切望していた。翌日、正午の少し前に彼はモードに電話をかけた。
「馬? ちょっと待って」。モードの声が遠くなった。「アランが馬に保険を掛けるっていう話、知ってる?」彼女は再び電話に向かってしゃべった。「そういう話は知らないわ」
「そこにいるのは誰?」
「エリザベス」
「エリザベスって……?」
「あなたの知っているエリザベス」
「彼女がそこに?」
「私が招待したの。泊まっていきなさいって」。アランは黙っていた。モードが言い足した。「また電話をちょうだい。いつか、あなたも招待してあげるから」

怖っ。いつの間にか妻と愛人が家にいて親し気にしている。アランの唖然とする顔が見えるようです。


「オリバーとエリザベス 一九三六年夏」
いきなり、時代は63年から36年へと飛びます。27年前。ガーデンパーティの場面から。ここで、オリバーという青年が若き日のエリザベスと知り合います。若き日のアランもチラっと出てきますが、27年後の彼にはこのときの記憶はないようです。ちなみに、この章から逆算すると最初の章のエリザベスは50代前半といったところでしょうか。
パーティーの翌日、エリザベスはオリバーを泥風呂があるメビル温泉という場所に誘います。そして、彼女がいたずらを仕掛ける可笑しいシーンのあと、二人は「性交(ファック)」する。これまた、知り合ってわずか6ページ。早いなあもう。このあとも、年上で奔放なエリザベスがオリバーをリードするようにして、二人はいろんな場所に出かけます。

七月の第三週末にオリバーは、もともと二人を引き合わせた友人であるルイーザから手紙を受け取った。手紙には、エリザベスが彼について書いた言葉が引用されていた。「私のオリバー! エレガントで、頭が良くて。でもだからどうだというの? そんなものは信託基金で生活する人間の美徳。彼にはもっと違うもの、彼の祖先の貪欲や不愉快なほどの額の彼の教育費用をあがなうだけの才能がある。どこへでも出て行ける才能。彼はこの前、私の臀部についてのソネットを書いてくれたのですが、その出来がとても良いので、私は次の目標を掲げることにしました。1出版まで漕ぎ着ける、2詩の言葉が真実であり続けるよう毎日乗馬に出掛ける……」。これを読んでオリバーは思った――彼女が我を思う、ゆえに我あり、と。

「彼女が我を思う、ゆえに我あり」。つまり、主導権はエリザベスが握っているんですよ。それにしても、「臀部についてのソネット」ってのは何なんでしょう? どうやらエロティックな詩のようですが、そんなものは恋人同士の間で留めておいて欲しいですよね。「出版に漕ぎ着け」られたらたまったもんじゃありません。
「毎日乗馬に出掛ける」というもの面白い。ヒップの形を保つには乗馬が一番、ということでしょうか。エリザベスは馬が好きなようで、このあとまたしても競馬馬が登場します。しかも、うさん臭い取引の材料として。この取引がらみで、彼女は競馬協会のメンバーでありオリバーの父であるプルーエル氏と面談します。オリバー側からしてみれば、自分の恋人と自分の父親が一対一で会うってのは、何だか微妙な気持ちにさせられますね。しかも初対面ですよ。できれば止めて欲しい。
で、このときオリバーは何をしていたのか。バーで飲んでいたんですよ。そこで、ウォルターという青年と出会う。ウォルターは動物画専門の画家で、これまで人間を描いたことがなかったが魅力的なモデルを見つけたと語ります。

「僕の目は彼女に釘付けになった。僕がじろじろ見たりして夢中になっていることは、彼女にも分かっていました――」。ここでウォルターが間を置いた。オリバーは次に何があったか尋ねた。「彼女、本当に優しくて。明日、うちに来てモデルになってくれるんです。僕にはとても信じられない」
オリバーには信じられた。彼が「でかい糞がしたくなってきた」と言いかけたところでバンドが「ストンピン・アット・ザ・サボイ」の演奏を始めた。二人は騒々しい音の中で、別れのしぐさをした。

ウォルターは名前を口にはしませんが、オリバーには「彼女」ってのがエリザベスのことだとピンときます。つまり、前章に出てきたエリザベスの肖像画は、このウォルターが描いたものなんですね。しかも、エリザベスはどうやらウォルターにも気があるらしい。「オリバーには信じられた」というのが面白いですね。彼女はそういうタイプだということを、薄々感づいてていたんですよ。
結局、このことがきっかけになって、オリバーとエリザベスは別れてしまいます。このあと、彼の書いた詩が書評誌に掲載されることになったところで、この章は終わります。詩? いやん、あの臀部のソネットですよ。


「オリバーとポーリーン 一九三八年」
そして2年後。オリバーの恋人は、資産家の娘ポーリーンになります。二人の出会いのシーンから。

その後、二人を引き合わせたパーティの最中、屋外で二人きりになったタイミングに彼らは雷雨に襲われ、共謀関係が生まれた。二人が大きなブナの木の下で雨宿りをしていると、稲妻が夜闇を裂き、鼻をほじるポーリーンの姿を照らしたのだ。オリバーは見て見ぬふりができなかった。「暇なときはそうやって時間を潰しているんだね」

鼻くそから始まる恋。ふざけてるなあ。それにしても、この作品の登場人物たちは、パーティーで恋に落ちるという決まりでもあるんでしょうか? 基本的に、登場人物たちはお金持ちというか、上流階級なんですよね。で、ことあるごとにパーティを開いている。ポーリーンは早くして両親を亡くし、姉のモードと共に遺産を引き継いだとか。実は遺産の9割は姉に残されたものなので、ポーリーン自身の資産はそれほどないんですが。モードは、最初の章に出てきたアランの奥さんですね。
ポーリーンは、経済的に自立をしたくて競馬にハマります。またしても、競馬。さらに、オリバーの父親プルーエル氏とポーリーンが会うシーンも出てきます。前章同様、こういうときオリバーは同席しないんですよね。もう一つ、前章とのつながりで僕がにんまりしたのは、オリバーとポーリーンの初めてのセックスのシーン。彼は彼女をメビル温泉へと誘います。わ、これってエリザベスと初めて寝た場所じゃん!

オリバーはポーリーンにあふれるほど愛を注いだ――彼の詩が現実のものとなった。温泉の後、彼は別のもっとふさわしくない場所やもっと人目のある場所でも彼女と交わった。樹上小屋(ツリーハウス)の中、ガイザーパークのゴルフ場の月に照らされたグリーンの上、ルゼルネ湖に浮かんだボートの中。二人はキルティ夫人の宅の部屋も使い、長い午後を過ごした。彼は口を使って、彼女が想像したこともないことをした。彼は彼女が感じる方法を工夫した。

ここに挙げられている場所のうち、「ルゼルネ湖に浮かんだボート」「キルティ夫人の宅の部屋」は、どちらもオリバーがエリザベスに連れて行かれた場所です。もちろんポーリーンはそんなことは知りませんが、年上の女性の手ほどきで学んだことを、オリバーは新しい恋人に実践しているということでしょう。こういうさりげないところに、作者の意地の悪さを感じます。
ここまでの三章で、アラン&エリザベス、オリバー&エリザベス、オリバー&ポーリーンと、二人の人物の関係性が相手を取り替えながら描かれてきました。このスタイルは、マックス・オフュルス監督の『輪舞』という映画を思わせます。ダンスのパートナーを替えていくように、しりとり形式でカップルの様子が描かれるという映画です。この形式が面白いのは、視点を取り替えると、これらの男女がお互いのことを理解しているわけではないということがわかってくるというところ。作者の一歩引いた目線が、それをさりげなく伝えてくる。
例えば、オリバーとポーリーンの互いの第一印象は「彼が彼女を気に入ったのは、容易に信頼を寄せてくれたからだ。彼女が彼を気に入ったのは、彼が信頼しやすい人物だったからだ」とあります。これって、互いのことを見ているようで実は自分のことしか見ていない。エリザベスとの失敗をオリバーは御しやすい女性で解消しようとしているようにも見えます。もしくは、この章の終わりに出てくるこんなフレーズ。

彼女は、彼が何のためらいも努力もなしに入っていける未来図に属する女性だった。その未来像にほとんど独自性がないとしても、彼はそれを自分が創り出したもののように誇りに思った。そう思えたのはおそらく、彼がほとんど自分一人でその未来を握っていると感じていたからだろう。

オリバーは、すべてを自分でコントロールできるということに喜びを感じているんです。作者は、その陳腐な権力志向を非常に突き放して描いている。「独自性がない」とちくりと皮肉り、愛の名の下にある利己的な感情をわずかな文章で暴いてしまう。最後の「感じていたからだろう」という締め方も意地悪ですね。彼はそう「感じていた」かもしれないけど、実際はそうではないということが言外に匂わされているわけです。


ということで、今日はここ(P57)まで。サクサクと物語は展開していきますが、これ、いたるところに細かなトラップが仕掛けられているような文体ですね。鼻をひくつかせながら、読み進めたいと思います。