アントニー・アンド・ザ・ジョンソンズ / アイ・アム・ア・バード・ナウ

 今年のベストアルバムはこれ、と書いたところで、過去に同じようなことを言っていたような気がしてきたたので検索してみたところ、3月24日のエントリで既にこのフレーズを使っていた(笑)。しかも、ルーファス・ウェインライトの『ウォント・トゥー』で。しかも、このアルバムについての詳しい感想は追って…などと書いておきながら、完全に書くのを忘れていた…。
 確かにルーファスの新作は素晴らしい。だが、そのルーファスの新作に収録されている「オールド・ホアーズ・ダイエット」においてルーファスとの見事なデュエットを決めていたアントニーの2ndアルバムの衝撃のほうを、今年の収穫としていまは挙げておきたい。アントニーの『アイ・アム・ア・バード・ナウ』は今年最大の問題作だと思う。実際にどれだけ話題になるか/なったかは置いておくとしても。
 
 事実、おそらくこのアルバムを聴いたすべての人が1曲目の出だしからアントニーの歌声に衝撃を受けるだろう。ゲイというセクシャリティが彼の音楽と切り離すことができないということも疑う余地なく伝わってくるはずだ。ピアノだけをバックに、美しく震えるファルセット・ヴォイスが孤独を象っていく様はとてもこの世のものとは思えない。そして一度、引き込まれれば、あとはアルバムの最後までただ耳を澄ますだけだ。
 苦難に満ちた自分の女性物語を確かな歌声で語る2曲目、「いずれ美しい女性になるのだけれど、今日のところは少年にすぎない」と何度も何度も繰り返し、いまの現実を突きつける3曲目、「私を許してくれ、私を生かしてくれ、私の宿命を祝福してくれ、私の精神を自由にしてくれ」と絶望すれすれの願いを歌う4曲目……。彼は性の、つまりは生の哀しみを、人間の儚さを、繊細なガラス彫刻のように聴き手の心のなかに刻みあげていく。
 ゲストミュージシャンも豪華だ。ボーイ・ジョージルーファス・ウェインライトルー・リード、ディヴェンドラ・バンハートといった個性溢れる優れたミュージシャンたちがアントニーをサポートしている。
 
 このアルバムのジェケットには写真家ピーター・ヒュージャーの代表作「キャンディ・ダーリン・オン・ハー・デスベッド(死の床にいるキャンディ・ダーリン)」が使われている。キャンディ・ダーリンはヴェルヴェット・アンダーグラウンドの「キャンディ・セズ」やルー・リードの「ワイルド・サイドを歩け」でも取り上げられている伝説的なゲイの麗人であり、ファクトリー周辺の人々のなかでも屈指の有名人だ。白血病のために74年に亡くなった。
 ベッドに横たわるモノクローム写真のキャンディは無表情であり、感情を何も表していない。見ようによっては、くつろいでいるかのようでもある。死期が近づいていることを取り立てて強調するような演劇性はなく、キャンディを変わらぬ美しさでもって捉えている。ヒュージャーの写真はロバート・メイプルソープのそれとは異なり、対象のエッジをシャープに切り取るかのようなスタイルの厳格さがない。そのため人間の存在そのものの儚さが画面に漂っている。
 
 ところで、死の床にいるキャンディの写真を撮ったピーター・ヒュージャーはメイプルソープ同様、ゲイの写真家であり、エイズで亡くなっている。87年のことだ(メイプルソープは89年に逝った)。そのヒュージャーの死の床もまた、彼の恋人のデイヴィッド・ヴォイナロヴィッチによって撮影された写真が残っている。ヒュージャーによるキャンディの写真とは異なり、その写真は恋人の変わり果てた姿を映し出している。目と口が半開きになり、ほとんど意識を失っているヒュージャー。そして、ヴォイナロヴィッチもまたヒュージャーの死から5年後にエイズでこの世を去ることになるだろう。
 アントニールー・リードとの対談で、「ニューヨークの文化はあの頃(ウォーホルのファクトリーの時代のこと:引用者注)よりもっと薄っぺらになってしまいました。今ではエイズがニューヨークの文化的黙示録を引き起こしていて、とても残念なことです」と語っている。アントニーの音楽を聴く際に、やはりこうしたニューヨークのアートシーンの状況を避けることはできない。彼はその文脈を引き受けながら歌っているのだから。
 
 ルー・リードのライヴ・アルバム『アニマル・セレナーデ』において、既存の性からの解放の願いを青い鳥に託すキャンディの言葉を綴った「キャンディ・セズ」を歌っているアントニーが、自身のアルバムにキャンディの写真を使い、タイトルを『アイ・アム・ア・バード・ナウ』と名づけた意図は、今野雄二が言うように*1誰の目にも明らかだ。だが、これはもちろん、単純に自分は解放されたという意味だと誤解してはならない。ジャケットに使われている写真もあくまで「死の床にいるキャンディ」なのだ。つねに死と隣り合わせであるような解放、解放とは言えないかもしれないような解放。最後の曲「バード・ガール」では、アントニーが美声を震わせながら次のように歌っている。

I'm gonna be born
Into soon the sky
'Cause I'm a bird girl
And the bird girls go to heaven
I'm a bird girl
And the bird girls can fly
Bird girls can fly

 あるいはルーファス・ウェインライトと歌う6曲目「ホワット・キャン・アイ・ドゥ」では次のように歌われる。

What can I do
When the bird's got to die

 
 「ゲイ」と「鳥」と言えば、僕はデイヴィッド・バーンの名曲「ナウ・アイム・ユア・マム」を思い出す。92年の『UH-OH』の1曲目を飾るこの曲は、性転換した父親が息子に「私はおまえの父親だった。だが、いまは母親なんだ」と語り掛けるという難しいシチュエーションを取り上げ、見事に軽快な歌にしているのだが、そのなかで鳥やミツバチたちはこの父親を讃えるために"Tweedle dee dee, Tweedle dee dee"と祝福の歌をさえずっているのだ。感動的なまでにあっけなくも力強い勝利宣言。世界はまばゆいばかりに輝いている。
 一方、アントニーのこのアルバムで歌われる状況はそれほど明るいものではなく、彼の認識もまたさらに苦い。だが、そうであっても彼の歌は瀕死の白鳥の歌のようにあまりにも美しい。どれだけ悲惨な状況を歌っていようとも、そしていまにもかき消されそうな歌声であるかもしれないが、彼の歌そのものもまた輝かしい勝利以外の何ものでもないのだ。来日公演を切望する。「彼がうたうとき、人生の中で聴くことになる最も美しいものがそこにある」というローリー・アンダーソンの言葉を疑ってはならない。必聴。
 

アイ・アム・ア・バード・ナウ

アイ・アム・ア・バード・ナウ