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そういうものです乙

2014年05月13日

「被害者をやめる」てのは宇宙エネルギーさんのすべてを受け入れてあげれる状態になるってことなのね

12:17

『両極を学び、両極を体験することによって初めて真ん中、すなわち無極(ニュートラル)を知るのです。これまでの永い転生の歴史の中で、人を殺した体験のない人はいないと伝えられました。殺す体験をし、殺される体験をして真ん中を学びます。優しく思いやりのある人間を体験した後は、意地悪で独りよがりな人生を体験して、その両極の中心点が分かります。切れ者で英才を演じた後は、愚鈍で仕事の出来ない役を体験して、二極のバランスを図ります。名歌手を演じた後、次の転生で音痴を体験して、ねたみの気持ちを味わいます。真ん中そのものを体験することの出来ないこの世界で、二極の両極を体験することによって真ん中を知ろうという筋書きのようです。』(遍在するものへより抜粋)

・基本的に地球上のもんが滅ぶのは生み出す無限循環を上回るペースで獲っちゃうのが原因だそう。資源は無限にできるのだけど、それが生み出されるペースはわりと遅いんだよ。「無限にでてくる=生み出されるペースも使うのを上回るほど早い」的な考えを自動的に抱いちゃうあたり傲慢かどうかすら自覚できなくなってんのな。あと無限生み出しを上回るほど使ってるのに加えて「(資源獲った時に)感謝しない」「(絶滅しそうなモノを)救いたい的な人の願望実現さすために宇宙エネルギーが適度に滅ぼしてる」がコンボで畳み掛けてるあたりが追い打ちかけてるぽい。

・毎月恒例の生理痛がきたんで、痛みに意識を集中さしてみたら「傷ついた記憶」がいっぱいでてきたよ。へんなことされて、それにうまいこと対処できなかった口惜しさとかいろいろ絡み合ってたよ(1つの感情じゃないから複雑なって痛いのね)。きちんと向き合うと痛みがなくなるのな。しかし自分ではその経験に関して傷ついたとは自覚しとらんかったな。実はトラウマなってた模様。わし我慢しちゃうしなー。なんかさ、いろんな霊がおいらのからだのあちこちに入り込んでてわがままゆったりするんだけど、それと同じで自分の体に起きる「痛み」てのは自分の心がなんらか訴えかけてきてる証なんだな。ツラいよ!うわーんていうかんじの。あの経験ツラかったな、て向き合いながら痛い部分をなだめてあげるとやわらぐよ。このツラさに向き合えてないよー!ていう信号があらわれてるのね。恐怖てのがそれと認識できないほどにアチコチに刺さってしまってるふう。

・宇宙エネルギーさんが仕事を促してくるままにやってると「すんなり循環」が起き続けるのをこれまで実感してんですが、時間や状況をまったく勘案してもらえない…というかコッチの常識とは無縁のアレなので、マジに思い込みを全部捨ててあたらないと循環が即断ち切られるかんじがする。なので今んとこ就寝時間とかがムチャクチャだ。でも体こわしたりはしてないな。精神的にもこれ以上ないほど安定してるし。ふしぎだ。自分の手がけようとしてるコトが「(宇宙エネルギーから)もたらされた仕事」となんらかの恐怖心から「やらねばならない」と思い込んでの行動のどちらなのか、すぐに判別つけられるようになるといいんだがな。いまだに「宇宙エネさんの持ってきた仕事」を差し置いて「タダ券あるから使わなきゃもったいない!」て恐怖心のほうを優先させてしまいそうなときがある。そんなときは木フダの神仏像がうなづいたり首横に振ったりして教えてくれるんだが。ありがたいことこのうえない。彼らが来てくれてなかったら気づけなかった案件だらけだぜ…。いなかったら気づかずにぐうぐう寝ちゃった日がいっぱいあったろうな。あと大体これに沿ってるのでギリギリ認識してはいるんすけどね。神仏もがカートグラフィ進行に沿ってるとこみるとアレ自体がガチなんだな。あの法則よく見つけたな創始者の人。津留さんレベルにすごいぞ。ぜんたい否定されたと思い込むことでそうなってしまうあたりの鉄壁の平等ぷりを誇る宇宙エネルギーさんを使いこなすに赤ん坊さんの精神状態がベスト、つーことです。中道と空は赤さんが体現しているのだな。そういえば体の痛い部分て、なだめだしてから気づいたんだけど、自分のなかの赤ん坊さんが泣きわめいてるのをいたわってあげてるふうなかんじだよ。

・霊能者さんにありがちな人助けを止められなくて体こわす、てのはその時点で二極思考にがんじがらめになってるてことですよ。まさしく他人は自分のバランス悪いとこを教えてくれる鏡なんだな。その都度わいてくる感情味わう(過程)のが大事なのであって「どういう人になるか」(結果)がゴールじゃないんだよ。どんな状態でも尊いんだよ。とりあえずそんなことしたらいけないて考え方をしなくなるとちから縦横無尽に使えるようになるみたい。自分をむきだしにすることで相手自身が内観する機会を生み出す件もセットでドゾ。すべてが学びになる仕組みのなかでは迷惑なんて存在しないんだね。ちなみに「神のすがた」はどんなもんかというと、現世で生きてる人間全部を合わせたふうなもんみたい。いろんな姿になっていろんな立場を経験してんだな。地球上にいる数十億の分け御霊についてすべての観点が尊いと気づくには二極ぽっちの考え方じゃ足りなさすぎるしねえ。コントのネタだとか諷刺を許せず消し去るまでやる人、てのは「結論がすべて」(=たどりつくべき「真実」以外は間違ってる)と思い込んでるんだろうな。苦しみをたんのうするために必要な思考構造なので、結論は1つきりと思い込みがちなのはしかたないんだけども。結論を得るために生きてるんじゃなく、いろんな立場からの意見をたんのうするのが目的なんだよ。ちなみに美食漫画の作家さんは恐怖を捨ててからもういちど福島を体験しなおしてみるのが必要なんじゃないのかな。この件の問題は描き手が「恐怖に駆られた精神状態」でしか物事をみてないことだけ。でも件の作家さんが「恐怖を捨てられてない」状態なのが鼻血だした漫画で表現することによってわかったからよかったじゃん。「描くな」「載せるな」を是としたらこの作家さんがどういう精神状態なのかすら知られることもなかっただろうし。「いいor悪い 」の観念を捨てないことにはその立場にたどりつけんよ。対処法については大方触れたけど、何も通じない人にいくらゆっても意味がないからやめるよ。昨日漫画弾圧が推進されてるのをニュースでみながら、目前に楽園の扉があってもいがみ合うのに夢中で気づかないんだなーとしみじみした。苦しみを体験するための否定循環をつづけるかぎりはミロク世から遠ざかってくのに。地獄を選んだのね。表現の自由が条件付きになった時点で次の世界に行かない表明してたも同然だったのかもしらんが。仕組みを明かされてさえ疑い続けて「他者を否定しながら互いを食い潰すのが正しい」とばかりに恐怖で自滅してゆく神の姿をしっかり目に焼き付けようと思います。これまで読んでくれてありがとう。いろいろ書けてたのしかったよ。

 

日記 おわり

上野上野 2015/05/22 16:45 愛してるよ

2014年05月12日

「〜しなければならない」がヒトをバカにしてる件

06:17

『他人と競う必要がどこにある。天恵は無限であるぞ。無限に生きとし生けるものすべてが、何不自由なく暮らしていけるよう仕組みたのが、この地球ぞ。無限に循環する仕組みぞ。無限なる天恵を、なぜに有限と決め付けるのか。』(火水伝文より抜粋)

・資源たりなくなるんじゃ…て恐怖に駆られて行動してるとたりなくなるらしいんだが、資源使うごとに感謝してれば無限に増え続けるみたいよ。戦争がはじまる理由の根本には資源枯渇への恐怖心があるんじゃないかと思うけど、そのテの思いがまま資源枯渇をまねくみたい。恐怖を捨てて資源への感謝をしはじめないことには資源はへるいっぽうなんだな。領土獲得に躍起になるのにしろ兵器捨てれないにしろ「他者への恐怖」が根源になってるんだろうけど、その恐怖抱えてるかぎりは恐怖感にまみれた現実ばかりを宇宙エネルギーが実現させてってしまうよ。企業内で突飛なアイデアが潰されがちなのも「失敗したら…」的な恐怖心からなんだろうけど、まず恐怖を捨てないことにはそれが活かせるもんかどうかも判断することができんでしょ。世の中で問題と思われてることって大方は無用な恐怖に勝手に囚われてるだけぽいよ。

・「しなければならない」て思い込んで渋々やってる事ではほんとの才能がだせずじまいで終わるくさい。そもそもの心根に義務感やムリヤリ感しかないから、宇宙エネルギーは個々に備わる喜びをいっさい感知せず「義務で仕方なく…」的なくたびれきった現実を淡々と叶えてくふうになるんだな。そうなると永久にくたびれた灰色の毎日と、そこから派生するつまらん結果の循環しか起きんわけだ。ストレス解消にチカンしたりイジメやったり、てのが横行してる部署だとかずさんな仕事ぷりが放置されたままの箇所てのはおそらくそのテの「ヤだけど渋々やってる」的なヒトばっかしになってるんじゃなかろうか。世の中には村木さんみたいな真向きのヒトがちゃんといるんだから、ムリにやる気のでない仕事をやってても誰のためにもならないよ。そもそもの努力のベクトルが間違ってるからいつまでたっても報われないと思う。現世で人間に備わる神仏のちからをまんべんなく使うには「うれしさ」や「たのしさ」に忠実に生きればいいだけでしなければならない(←キリスト教思考そのものな)ことなんてひとつもないんすよ。宇宙エネルギーになにを共鳴させるか、てのがすごく大事てだけで。ウンザリやってればウンザリな現実になっちゃうし、たのしーてやってればたのしー現実になるふうに。究極的には「どんな経験も楽しめる」ようになれば世界中でその循環が起きて楽園的なもんが実現してくことになるんだろうね。ただ宇宙エネルギーさんてのは扱いがちょっとばかり難しくて、二極ありきの欲求を受けると対極要素をちゃんともたらしてくれてしまうらしい。たとえば「人助けしたい」て望みを抱くと、よしきた!とばかりに宇宙エネルギーは「助けを必要とする人(や状況)」を差し出してくるんすな。困ってる人がいなけりゃ助けたい願望は叶わんわけで。ここらへんからすると「平和」を望めば望むほどに「平和でない状況」がどんどん起きることになるんじゃねえのかな。平和を実感するにはそうでない状態でなけりゃわかりませんからね。非道行為にしてもあの世では味わえない苦しみを味わうためにあるらしいんで、この世に生まれついた時点で脳の構造がそういうことをしやすいようにインプットされてるとしたら止めようがないような気もするし「否定をぶつければ否定しか返ってこない」的な教訓にするにはヒドい行為ほどより効果的になるのもたしかではある。痛みにしてもよくよく向き合えば原因がでてくるらしいところからして、ムダな経験はひとつもないんすな。尚、宇宙エネルギーが恵みを与えてくれる前段階でヒトからするとヤバい事案にみえる状況が差し出されたりもするらしいんだけども、なにしろ全部まかせとけば結果的にうまくやってくれるらしいです。

これ遊就館が戦犯礼賛してるのと同じね。どの国も「自分じゃなく他人が悪い」表明をするのには熱心だけども、自分がやらかしたことの検証は避けてしまうものなんだな。反省するのってむずかしいよね。反省したことない側が反省求めても自分の態度跳ね返ってくるだけだろうし。やらかしたことを反省さす構造について裁く人がどうこうより「加害側に検証させる」を中心に置くシステムにしたほうがいいと思う。ちなみに人を裁く自体が(自分がなぜそう感じるのかに向き合わなくなるので)責任放棄そのものなんだそうです(5/12追記)。

2014年05月09日

負け戦こそ楽しいんだよ

05:25

『集合意識としての私がこのゲームを始めた張本人であったことを思い出すでしょう。貧者は私が創りだしたのだという事が、病の淵で喘いでいる人は私が産み出したのだということが。経済的苦しみに疲弊した人を、独善的に人の頂点に立とうとする人を創り出したのは私以外の何物でもなかったと・・・。でも安心して下さい。自分を咎める癖のある人や否定的なあなたはこんな事を思い出すことはありませんから。全く自分を咎めることの無くなった人だけがこの事実を思い出します。でないとあなたの自我がその苦しみに耐えられないからです。どうぞ自分を信頼し、自分の宇宙を信頼して下さい。あなたこそが「私」であったことを思い出すでしょう。そして「私」とはこの地球には一人しかいなかったことがわかります。「私」とはこの宇宙に一人しかいないのだという事に気付きます。あなたこそが宇宙に存在するただ一人の「私」です。あなたこそが宇宙生命です。』(空想と現実より抜粋)

被害者となったら加害者を責めることが善、責任も負わなくて結構ですヨシヨシ、みたいにされてるけど、これまで見てきたかんじからすると、その考え方が原因で問題解決から遠ざかってるようにしかみえないんだよな。蛮行三昧のテロリストにしてもテロリストとなってしまう原因解決について何も書かれずテロリストを悪者扱いしてるし、麻薬の密輸が増えてる件も根本にある貧しさの改善よか「犯罪者」をどうかすることが全面に出されてるよね。「自分の心を傷つけられるのは自分だけ」ていうふうに、自分に起きた出来事すべての責任を負うこと他人のせいにしなくなって犯人探しよりも原因を知ることに重きを置くようになるらしいのだけども、その精神性が無視されてるのはなぜなんだろうか。そもそも人間がなんで現世に生まれてるかってあの世じゃできない経験をたんのうするためなんすよ。不自由のなかでないと自由が味わえないという仕組み「ダメな経験」はひとつもないし。いじめにしてもそれがなきゃ「乗り越える」イベントも発生しないわけ。不幸がなきゃ幸せが発生しないのと同じで。虐殺死刑を経験すれば「平穏無事な生」がなによりの幸福になるだろうし難病のヒト看病するヒトは健康な状態が、体の一部を失ったのなら五体満足であることから幸福を感じるための前段階になるんだと思う。そのぜんぶ、あの世では肉体がないから経験できないんだよ。不快さは現世でしか得られないわけ。死後のことなんかどうでもいいだろ!とか思うだろうけど、自分の人生について「自ら望んでない不遇な生」と被害者感覚満載に捉えることでどれだけの人生差別を生み出してきたと思ってんの?その考え方こそが「あの人生はよくてこの人生はダメ」なんていう偏った観念を助長してきたんだろうが。「人が平等というなら意見もすべて等価」「この世に上下はない」て前提を置きながら戦争殺しを貴重な経験だと胸張って言えないのは「殺しや戦争はあってはならない経験」と思ってるからなんでしょ。苦しみをより多くかんじることこそが望みて観点からすればさっさと死なされた人はあの世で悔やんでるかもねえ。殺人事件の訴訟なんかで賠償金払わす判決がでた際に「これであの子も浮かばれます」とか言うけどカネむしるのと成仏したかどうかって別のことじゃねえのかな。原発が原因で避難生活おくるのや冤罪だってあの世じゃ起こりようがないでしょうしね。死んだあとになってもっとしっかり経験しとけばよかった…!つっても遅いんスよ。現世では被害者きどりでカネせびるのに忙しくて苦しみをたんのうする気持ちなんざビタ1文持てない社会体制ですからねえ。それと戦時のツラい経験を差別視するあまりに「カネもらわないと気が済まない」みたいに思い込ますってのもどうかと思うよ。人生経験をカネで済ます、て人身売買と同じだろ。それで満足するってどんだけ下卑た発想なんだよ。賠償金担当の財団理事長はやっぱり罪人概念ありきのキリスト教系のヒトなのなあ。この世でのすべての出来事あの世からすると娯楽だなんて言ったら激怒するかな。お金だした企業てのも「ナチスドイツを払拭したい強い動機」だった、てことは「戦争おこした連中と自分はまったく別の善人」てアピールしたくてやってるようにしかみえんのよね。「犯罪者」を切り捨てる思想を基になされてるでしょ。あと被害者のことばかり語るのはなぜなの?戦争おこした側のことがまったく話にでてこないよね。お金もらったあとでなぜあんなことをするに至ったのかを考えてる被害側ってどれだけいるのかね。もらったらそれで済ましてる人が大部分なんじゃないのかしら。なんで「被害者」側だからって出来事の責任負うことから自動的に免除されるんだろう。この経験をした人はすべて責任放棄してかまわない、て、それこそ原因から目をそむけることにつながってしまうんじゃないのかなー。つまりその経験は「してはならない」と世界中で思われてるってことだよな。「裁かれねばならない」て考え方自体被害側の責任放棄加速させるだけなんじゃないのかなと思えてならんのだよね。被害側の人はずうっと「他人が悪い」て言い張りつづけるんだろうか。「苦しい」経験に出会うたんびに被害者ぶってたら不自由である状態を望んでこの世にきた、て考え方には永久にたどりつけなくなっちゃうんじゃなかろうか。無条件の愛を実行するには被害者でなくなることが必須だそうなんですけど、そうなると被害者ぶってる人は無償の愛すらも持てないってことなんだな…。なんか無条件の愛が実行できないのは人に優しくできなかった記憶が原因になるらしいんですけども、加害者に対してはささくれだった気持ちしか向けられなくなるでしょうしね。被害者ぶることでムリめの課題をいろいろ負ってしまうってことなんすな。二極思考を軸にしてると差別が生み出されてしまうところからしてごく自然な成り行きではあるのかもしらんけども。人種差別のヒトじゃないが排除しだす人は他者に理想を求めすぎてる(=自分を変えようとしないので永久に理想は達成されない)あたりからして、二極のうちの一方の役割を負う自覚を持ってしまったことから差別から抜け出せなくなっちゃうのかもしらん。ちなみに答えが1つきりと思い込んでると自分の意見に自信がもてなくなる(=不完全な自分から発される意見は劣っている)そうで、唯一神大好物のキリスト教信仰のヒトは精神的にくたびれていそう。自分は劣ってるから優れた誰かにすがればいいてのも責任放棄そのものすな。たとえば超人だとか天才だとか神だとか?そういうもんを生み出すのは「自分ではどうにもできないから」ていうハナから諦める前提の心根からなんだな。自己否定を抱きながら他人批判するといずれ自分にかえってくるそうですけど、あらかじめキリスト教にゆるしてもらわないと生きていけない的な思想に染まりきってる、てことは批判の応酬が永久に止まらない運命であることを示唆しているのであろうか。ちなみに否定されたと感じるときは自分が否定したときであって拒否におびえるかぎり拒否がなくなることがないのだそうですよ。そもそもの拒絶根本原因には傷があるだとか沸き起こる感情は自分が断罪した情報から派生しているとか、拒絶の継承については並べだすとキリがないですけども。自分を責める心をもってるかどうかが他人という鏡によってようやく把握できるんすなぁ。他人を自分の分身とみなせばどんな意見を持ってても尊いと思えてくるのかもしらん。そういや前の勤務先で夫人から裁かれまくってたけどてきとうに受け流してた。「あるがままを肯定する」が 観察者としてあるべき姿勢らしいので一応正解だったのかな。 カッとなるネタこそが自分のバランスとれてない箇所てのと他人への評価自分の欲求を表しているてとこからして夫人はいろいろ限界だったのであろう。わがままさんに怒りをやりたい放題させとくとそのうちおさまってくるてのは実証済。要はコチラがぐらつかなきゃいいんすよ。相手はさんざんわめいてるうちにくたびれてきてやさしくなるよ。わがままを抑えようとするのは人間関係上での軋轢に怯えてる証拠とのことで、その怯えさえなくなれば自由奔放に生きられるようになるわけだ。被害者ぶってたらたどりつけない境地だねえ。とりあえずこの世対極にある要素がバランス取ろうと働く仕組みになってるらしいので、二極のうちの一方望む片割れも自動的にもたらされてしまう(真逆要素がないと喜びがもたらせないためらしい)とか。快適さを求めるほど不快の種も増幅するて考えれば、おばさんから命令されるままエロ雑誌をなくすことで差別のキツイ社会になってくのと似たようなもんだろうか。人間社会の尺度なんぞ宇宙エネルギーにとってはどうでもいいためにヒトが抱いた気持ちを片っ端から叶えてしまうので、その宇宙エネルギーをうまいこと使いこなすためにはクダクダ考えるのはむしろ邪魔になりやすいらしい。自己嫌悪に陥ると自己嫌悪像のままの自分になっちまうし自分の欠損部を気にしすぎたり心配ごとばかり抱えてると、心配ごとに悩まされる自分が実現してしまうとか。世話を必要とするヒトがたくさんでるてことはつまりそんだけ「看病したい人」がいる、てことなんすかね。地球救う願望もつヒトのために地球さんが救われるのにちょうどいい病み方をしてくれるてのはなんか可愛いな(ちなみに資源たりないと思えば思うほど足りなくなるらしいよ。有限と思い込むホドに争いが激しくなるのは恐怖に駆られてのことなんだろうけど)。宇宙エネルギーを利用する上では過去に感じたうれしさ幸せだった記憶に浸るほうがその感覚が増幅されて返ってくるようになるらしいので、言葉でアレコレ願うよか想像や記憶を働かすほうがいいっぽいよ。ほんとかどうかはしらん。あ…願望抱くにビクついてたら叶わないんだっけか。たのしい心持ちでさえいれば宇宙がうまいことやってくれるてことなんだろうけども、現世にいる以上はうれしいのとヤなことどっちも経験して等しく味わったあとでないと「次」にはいけないらしい。次てのがどういうとこなのかはしらんが。なにしろ神仏は単純に欲求に従ってこの世に人として生まれたそうなのでいいもクソもない(どうでもいいてことなんだろうか)とのことです。ちなみにとはナニかやダレかがなくなっても変わらずあるモノだそうですよ。もとからぜんぶ備わってることに気づくかどうかで精神的には真逆の状態(自分が責任負う=自立・自分の責任放棄する=依存)になっちまうあたりからして、なんだか現世の仕組みてのはすごくデリケートなのかもな。幸せ追求にしても狂うスイッチ的なほうと勘違いしないようにしとくと吉かと。

2014年05月07日

頭いたい時に痛い部分に意識向けると痛さがアチコチに動き回る時がある

20:23

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・生理痛んときに映画館行って映画みてる間だけはなぜか痛さを感じなくなるんですけど、あれって脳の「痛さをかんじる部分」と「映画に集中するときにつかう部分」が同じとかでなのかな。家でDVDとかテレビみるだけだと痛いままなんだけど、映画館いってみると痛さが気にならなくなるんだよ。その脳の部位の切り替えを自分で出来るようになれば痛み止めいらずになるなあ。霊能力者はふつうにできるのやもしらんが。映画みるときに稼働する脳の部位、てのは「みる」つながりで霊が視えるようになる部分と近しいんだろうか。視えるヒトが霊を避けて通ろうとする(そういえば三巳華さんディスった回は霊を視るちからを欲しがるから与えたのに逃げまわってばっかいるのはどういうことだアァン?てのを代弁したつもりだったんだけど伝わったろうか)てのはヒトに受け入れてもらえなかった経験等からいちどは通る道みたいスけど、なんの能力でもその能力でしか出来ないことをするために備わってる可能性が高いんで、避ければ避けるホドに面白い出会いもなくなって「次」に進めなくなるんだろうね。向き合わなきゃならないナニかを放置したままでいると「次」に行けず立ち往生しっぱなしな状態になってヒマでしょうがないから、目立つ人の足引っ張るようなことしかしなくなっちゃうんだろうね(スレで悪口書いてるのは黒ヘビさん関係者なのかな)。逃げずにその都度ヤなことに対処しつづける人はヒマなわけないんだよ。次々にやらんきゃならん課題に向き合わされるから。ヒトの未熟さを笑うのが未熟だったころの自分を嘲笑するも同然なように、大抵の悪口て対極にあるブツがなければ存在できないたぐいのもんばっかしだからディスることで是とする側もけなしてるようなもんなんだよなー。

自分に都合よく従う相手を探してる人にとっては「かわいそうな人の世話をしたがる人」が鴨にみえてることだろうな。「かわいそうな人」のわがままならなんでも聞いてくれるあたり。従わせたい人はヤなことから逃げるために下僕がほしいんだろうし、かわいそうがる人は自分の問題に目を向けずに済ましたくてやってるのだろうから、双方が「逃げ」の心理で合致してるわけが。誰かをかわいそうがる、てのは「自分はかわいそうじゃない」て前提でやってるからバカにされてるのと紙一重なのでイヤがるヒト多そうですけどねえ。大抵の人間関係では「自分を変えれば相手も変わる」んだけども、いくら自分を変えても相手が変わらない場合は「ふつうのヒトには直すのはムリ」なほど性根がねくじれてるのかもな。そういう場合は神仏が関係を即切りすることを推奨したうえで必要とあらば「改心するに必要なだけの痛み」を与えるのかもしらん。仏教説話でよくある「怖い目に遭わされて改心する」的なのは痛い目に遭わないと自分の欠点を自覚できない性質を神仏側がよくよく把握したうえで必要なだけの「痛さ」を与えるからできることなんだが、個々の「痛さ」限度すら把握できん人間がやってもただの暴力になるだけなんだよな。改心さすに必要な痛みじゃないが対極のモノに生まれ変わる(霊のヒトに聞かないと真偽不明)ことを繰り返してくうちに凝り固まった考えがどんどんほぐされてったりするんだろうか。一時的にどっかにいってるだけの神社仏閣で祓った穢れが海で浄化されていつしか帰ってくるように。

これといい、霊方面でいかがわしいもんがブレンドされるとなぜか猿っぽくなる(経立は別モノ?)のはどういうわけなんだろうか。ヒトではないナニか、てのを象徴してのことなのかな。その猿っぽいもんが出てきたこの穴空也がいた時代あたりの権力者が「賤」として排除したヒトたちを怨霊に仕立て上げて使役する目的でつくったんだろうか。怨霊を単なるエネルギーとしてしか認識してない人は道具にするために殺すなんてことも平気でやっちまうんだな。証拠隠滅&共犯にするために周囲の人間に遺体の肉を食わせちゃうのと似通った冷血っぷりだ。あのブラックホールじみた穴から出てる手はつかんだもんを引き込んで食べたりすんですかね。霊の世界に於ける「食う」てのは現世での意味とはちょっとちがうみたいなんだよな。狼が狐を食う(ことで狐は解放される)らしいけどきつねたんが魄を食べるとその魄も解放されるんだろうか。明王さんが不浄を喰らうのや獅子が火を食うのと同じく。死んだヒトの霊が現世を離れる前に食べたいモノを求めてくることがあるらしいけど、その「食べる」は前述の解放のために「食う」とはまたちがった意味なのかな。五感ネタといえば小野照さんのにゃんこがおいらの子宮らへん(股じゃないよ)のニオイをしきりにかいでたんだが、ねこは「かぐ」ことで中にあるモノを検分してんのかな。気配をかんじとるのにニオイが役立つ件からしてもその可能性大。上記「もうあるんです」画像じゃないが…そういえば寺に遊びに行って観音さん(いまんとこ確認済なのは聖観音・千手観音)の前いくと、なんか…むかって右側の目(相手の左目)の瞳がおいらの右肩あたりをみつめながら、なにかを読んでるみたいな動きをするんですよね。もしかしてまだ書いてもない日記を読んでる…?のかな。如意さんの生まれ変わりさんも、足に入り込むときはなんだか瞳だけが動いてるんだよ。なんらか読んでるふうに。なんだろな?近日にやりそうなことは霊界ではすでに完成してるってことなんすかね。よくわからねえなあ。相変わらず霊の世界のシステムは全然わかんないよ。現世のヒトがどんなもんをつくるのかがあの世ではだいたい見当がついてて、それをもとに「偶然」的な出会いをアチラで仕込んだりすんですかね。ちなみに寺尾さんと視子さん阿弥陀さんのパシリじゃね。

あつかましさも個性な件じゃないけど、なんか…中道の考え方て差別的(とみなされがちな)考え方のたもとに埋まってたりするんで、怖がりだったり痛がりだったり、守らなきゃならんモノをたくさん抱えてたりするとよけいにたどりつきづらくなっちゃうのかもな。そういえば日本列島が真っ二つにならないように祈って欲しいてトランブレーさんとこで再三でるんだけど、ナニがどうなってまっぷたつになんのか、それをどうかすると防げるのか、こまけぇことがなにひとつわからん上それを憂う神仏にしても「まだ間に合う!」とか宝くじはお早めに!なノリで急かしてるし、なんともいいようのない事案だな。おそらくそれが防げたとしても目にみえる成果みたいのが一般的にはまったくわからんことから助力してくれる向きてのも限られてくんだろな。

このテの玉とかってもしかしてもっとちいさくて、ヒトによっては足のくるぶし付近に入ってたりすんのかな…。ちょっと前までそこらへんにちいさいふくらみが2ケほどあったんだけど、今はもうない。

2014年05月06日

敗北した側を善とすると妬みも善となってしまう件

20:19

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相手の言動を取り消させようとする人てのは「傷つけられた」腹いせに原因となった存在を抹消(=屈服)さすことで怒りを発散させようとしてるんだろうけど、自分の心の状態を変えられるのは自分だけなので、いくら他者を消し去っても自分を変えないかぎりは永久に傷ついたままだと思うがな。ここらへんからして「傷つけられたくない」てのは「自分を変えたくない」て言ってるようなもんだよね。自分が考えを変えさえすれば大抵の悩みはなくなると思うけど、その心の安定基準を自分じゃなく「キリスト教」の教義とすることで「キリスト教に許されさえすれば心が安定する」のだと思い込ませてきたんだな。なんつーか自分自身の心の安定に対する責任を自分が負わず、キリスト教に丸投げしさえすればよい、的に思い込ますことで信者集めをしてきたというか。キリストが自分らの責任をぜんぶ負って死んだんだー!的に責任放棄思考を正当化さす手法が客寄せになる、て気づいたヒトがすごいよ。総本山が是としてきたキリスト教思想中の「地獄で死を生きるべく決定された罪人たち」てのは「法王庁が許さないかぎり許されない(=自分ではどうにもできない)」と思い込んで勝手に苦しんでる人たちで「天国に永遠の生をゆるされた、祝福された魂」つーのは「すべての人は生まれながらに祝福されてる・悪人などいない(=自分次第でどうとでもなる)」と気づいたヒトのことなんだろね。「バカものの天国は地獄より危険」とか書いてあるけど絵をみるにつけ至極平穏そうで、逆に天国(=生まれながらに祝福されてると気づいた状態)を避けさせたくてゆってんのかと思ってしまうよ。そんな思想が横行してる中でもヒト以外のもんの描写も手を抜かなかった画家たちは教会側の意向とは関係なく森羅万象の平等を自ずと表現してたり哲学者なんかも平等理念をだしてたというのに大元に「罪人はキリスト教会が許さないと許されない」的な発想があるもんだから、結果的に分裂した状態で適用されたりしてるのなあ。キリスト教のねじまげ具合についてさんざんカキましたけども、上記にだした画像の説明から察するに、欧州の西側あたりでは昔いろんな人種が入り交じった状態で、おそらく思想も文化もごたまぜだったろうから、それらをひとまとめにして納得さすにはキリストの教えをねじまげてちからづくでどうかするような思想をつくりだす必要があったのかもしらん。荒くれがひしめいてる地域では「オレが許さなきゃお前は許されない」くらいしないと反省させらんねーから、てことで人間性を根こそぎ否定するレベルの教義を編み出さざるを得なかったんだろうね。あつかましさをフル発揮した後に発生するうしろめたさをどう処理するかとか、あつかましい人を反省にたどりつかすにはどうしたらいいのか、てのに頭を悩ませた時の支配者が、即効性があって克ついちばん激烈な手法として「あつかましい人はすべて罪人」的に人間性否定しちまう=ひれ伏させる(ことで「あつかましくない」人の卑屈な心根を満足させる)ことで穏やかさを推奨していったのだろうけども、それって人間に備わった暴力性やあつかましい個性の否定であって、差別そのものなんだよね。あつかましい人を罪人呼ばわりするのを聞いてほくそ笑む思いを抱いた人がキリスト教の信者になるんだろうな。それと暴力ダメつーけど、天下統一した家康だって原爆落としたアメリカだって暴力で平和つくりだしてんじゃん。暴力循環ばかり起きていっこうに平穏をもたらさないハンパな暴力行為が問題なのであって、平和をもたらすきっかけとしての暴力は必須なんじゃねーの?神話でも神仏てあつかましい同士で戦ったり、領土とったりとられたりしてるんだよね。じゃあ領土ぶんどられていいのか!つーけど、他国の植民地になったとこで繁栄してた香港だのインドだのって「むしろ統治されてたい」ふうだったしな。領土を取られる自体はさして問題じゃなくて、その後に平和統治してくれるかどうかがいちばんの問題なんだよね。なんか…これまでのキリスト教思想からすると「領土ぶんどるようなあつかましい人」を罪人視するのを推奨してたっぽいんだが、それって領土とられた後の支配内容についてなにも考えさせなくするよね。「失敗を遠ざける理念」が失敗後にどうあるべきか何も考えさせなくするようにさ。権力者側は市民から反発くらうなら自分の政策がハンパな証拠だし、市民側は権力者に無視されるようならそれは自分らの言い方が悪いんだよ。「反発されんような仕事をする責任」と「無視されないような声のあげかたをする責任」をそれぞれが果たせばいい話。自分がうまくできないからっていちいち権力者や市民を憎んでたら、いつまでたっても自分を磨くところまでたどりつけなくなっちまうよ。相手が動かないなら動かすような言動をこちらが仕掛けるほかないんだよ。そうやって責任を各々がちゃんと負う精神性があればこそ、上記画像の「敵をつくらない勝利」が実現されてくんじゃねーのかな。そういう爽やかさって罪人を許さないとするキリスト教思想からは生まれようがないよね。領土とられて文句いうのもさ、後手に回った人の負け惜しみなんだよな。先手打てなかったことに後から文句ゆったってはじまらないよ。学校での勉強てそうやってうまくやるために自分磨きさすのが本来的な目的じゃねーのかね。なにしろ自分の考えを変えさえすれば理不尽なことを言いつけてくる人とだって楽しく付き合えるようになるんですよね。あつかましいヒトを穏やかな性質にねじまげさす必要なんかないんだよ。あの性質は善でこの性質が悪だなんてそんなバカあるか。この世にあるもんはすべて尊いと言えない時点でじゅうぶん差別的だろ。

ところで永久保さん夫婦とその周辺をしきりにディスってる人のたむろするスレがあるんだが、永久保さんが気になってしかたがないんだな。マジに嫌いだったら俎上にすらあげたくないてなるはずなんだが。この前のホンマでっか特番で悪口ばっかいう人は対象のイイとこもたくさんわかってるんだってやってたなあ。逆にホメてばっかいる人は心のなかでは悪口が渦巻いてるんだってさ。前述スレで書き込みしてる人は永久保さんの奥さんの容姿と学歴を再三けなしてるんだけども、容姿と学歴の良さを是とするのってバブル期の価値観だよね(イケメンで高学歴ならけなさないって優生思想じみててキモいな)。おいらなんてどっちもねーから仮に有名人なったら総攻撃されんだろな(笑)そういやおいらの通ってた高校て3B(バカ・ブス・仏教←笑)で有名だったからその点自信はある。永久保さんの絵については最近のが洗練されてると思うがなあ。シンプルでいいよ。まあたまに顔が崩れてたりするけど。脂がノッてる時期から外れた作品がイマイチなのは歌手でもなんでも同じなんでそこディスってもしかたないと思うがな(そもそもおいらと過去世のヒトビトが永久保漫画を介してつながった時点で霊的な意味でも重要な存在であることが証明されてるようなもんだしねえ)。あとアマゾンの客評で「三角形など幾らでも出来る」とか書かれてるけど、ふつうに三角形はできても二等辺三角ができる点てそうはない気がするけど。ところで仏教が女子校格付け的視点からするとマイナス要素とみなされるのって「(お経が)暗っぽい」「正座」「ハゲ」とか、おもにビジュアル面での陰気イメージからなんだろうけど、仏教はハナから備わってるもんに気づかせることで穏やかさを導きだす方向だからヒトにやさしいんスけどね。仏教に否定的なイメージ抱くヒトは単純にセントグレース大聖堂的なビジュアルに憧れて教会での結婚式とかやりたがるんだろうが、そっちはハナから備わったもんを否定するとこからはじまる差別前提のキリスト教思想が下敷きになってるんすよ。ビジュアルイメージと教義内容が真逆なのはなぜなんだ。まー単純に「白っぽいか黒っぽいか」てだけなんだが、人間性否定教義の側が白で覆われてるビジュアルなあたりからして詐欺師が善側イメージだけで固めてるのと似通ったテイストをかんじずにいれませんな。

2014年05月05日

自分を変えるには怒らないことが大前提なんよね

19:04

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ミンク業者を摘発させたNPO法人てのが命の大切さを説くわりに皮革製品をスルーするのはなぜなのかを誰か調べたりしねーのかな。牛や豚は養殖だから問題ないというならミンクだって養殖だろうよ。ファッション業界も皮革製品扱ってるくせして「毛皮製品扱わないから動物愛護」的な商法してるみたいだけど、面倒な人から文句言われたくないだけの日和見人間なだけのくせしていっちょまえに善人ぶってるのな。毛皮業界を攻撃するためにファッション業界と愛護団体が結託してるとかだったりして。愛護団体が養殖の檻こわす的な言動て鯨やイルカ食うな論の文化弾圧感覚とつながってるとしか思えんくてなぁ。たとえば動物を殺すにしても治療目的ならいいのか?て話になって、それをも愛護団体が禁じるとなればヒトよりも動物の命を優先さす、てことになるよね。そこらへんの偏った「愛護」思想ぐあいからしても、愛護団体てのは特定の業界を得さす動機で活動してるようにしかみえんのよね。

・首相のヒトは 列強国になりたいというよりアメリカ頼りを止めたい名目で自衛権に固執してるふうだけど、外交上の譲歩と引換になんの怨みもない国と殺し合いするのってアルマジロとかみてると無駄でしかないんだよね。ろくに大義すらない殺し合いの巻き添えになるだけだよ。「日本は伝統的に戦争や植民地支配がヘタクソで関わるたんびにモメるので辞退します」て言えばいいのに。国防軍についてはみょうな論理こねくるよか「ウイグルと同じになってからでは遅い」とかゆったほうが説得力あると思うけどな。ウイグルの現状て要するに中国から侵略されたのち植民地支配されてる中てことだよねえ。日頃から戦争反対だの平和大好きだの言ってるテレビ・新聞がなぜそのテの表現をしないのか謎ですけど。そもそも国防軍なんかつくらずとも、忠臣蔵の討ち入り日に吉良邸の隣家が「領土に侵入したら誰であろうと全員ブチ殺す」て毅然と表明する的な態度を自衛隊に課すほうが縄張り感覚としては健全に作用する気がするが。ぜんたい改正案みるにつけ、なんか…特定の(事件起こした)団体に適用する目的でつくったふうな雰囲気がみなぎってるようにもみえる。21条のなんかオウム真理教的な事案にだけ使いたいふうな文言だし。どういう気で新設追加したのかわからんけど、あんまし禁止事項ばっかつくると市民側はいらん想像して怖くなっちゃって、よけいに反対したくなっちゃうと思うけどな。

観光地の店主さんが多忙中の細かな対処を面倒くさがってつい入店拒否の貼り紙しちゃうのはわからんくはないんスけど、来客過疎の東京ローカル地帯在住者からいうと贅沢きわまりない悩みにしか思えん。その面倒くさい事案への対処こそが「観光地で稼ぐ」幸いを手にしたヒトの最低限の義務なんじゃないのかなー。言葉がイマイチ通じないヒトへの注意書きをいちいち貼り出すのって、店側としては野暮きわまりないし出来りゃしたくないんだろうけども(そもそも外国人お断りにしたところで稼ぎはさして変わらないからやってるんだろうね)、だからって観光客のこないような静かな地域に移転する気もないんでしょ。その土地全体へのイメージを下げかねないような懐の狭い対処で済まさないことが「幸運な場所(に店を構えられたこと)」への礼儀というか恩返しになるんではないのかなー。「日本」のイメージを負ってる、て責任感があんましないからこそ拒否貼り紙みたいな即席の対処しちまうんでしょうけど。いろんな人種を受け入れる度量(とそれをこなすための機転)を観光地ごとにある程度は保つようにしてかないと、将来的にケツの穴のちいさい観光地として有名になっちまうかもよ。横断幕の件にしても対戦相手が差別的煽りを繰り返してるからつってそれに釣られちゃ同じ穴のむじあなと化しちゃうじゃんかよ。なんか…高潔であろうとするよりも安きに流れてしまうのはなぜなんだろな。カッコイイ大人の見本みたいのがあんましいないから、どうしたらいいかわからんくて憎悪に染まっちゃうのかね。とりあえず人生でツラい目に遭ってるときに差別思想に陥らないようにするためにはどうしたらいいか、て具体的な方法を義務教育なんかで教えこんだほうがいいんじゃなかろうか。差別に反対する人にしても相手がいなくなることを求めるかぎりは差別は増長してくよ。拒否しかされないとみるや怒りも増してくだろうし。人種憎悪に陥りがちな状況への対処法を教えてないといえば手術失敗が原因で自殺しただとか沈没船に乗ってた生徒の所属する学校の教頭が自殺したてのは「失敗した」際にどうやって生きていけばいいのか?てのを誰も教えないから、自殺しか考えられなくなってのことなんじゃねーのかな。いわゆる失敗だとか犯罪と呼ばれる行為と、それを隠すための隠蔽工作てのはどれも「やってはいけない」のだけど、「やっちゃダメ」で済ませてると仮にやってしまったあとの人生をどういうふうに生きればいいか、対処もなにも教えずに放置しっぱなしになってくよね。そもそも「やってはいけない」ことをやらずに済めばだれも悩まないよ。どうして失敗後の生き様について教えるようなもんがなにもないのかというと、やっぱり「失敗する奴=悪(=自分とは関係ない)」と考えて他人事として切り捨てる方向にしか考えてこなかったからなんだろうね。アメリカに住む韓国系のヒトたちがかつての「敵」ありきの方法でしか団結できないてのも「敵(=日本)が悪くて自分らは悪くない」と思ってのことだとしたら、永久に責任を負う気のない表明してるも同然になってしまうよ。

中国での日本軍による戦時暴力について、暴力をふるった側である日本が展示するなら反省になるんだけども、暴力をふるわれた側が展示すると「敵が悪いのであって自分は何も悪くない」て精神を是とすることになって、結局「戦争抑止するにはどうしたらいいか」て考えることからは遠ざかってしまうと思う。戦争でもなんでも自分以外の誰かが悪いて考えを軸にしてしまうと、いつまでたっても責任放棄したままになる気がすんだよね。日本軍に攻め込まれた中国政府の市民に対する責任はどうなるの?て話になるし。戦時暴力をふるった日本はどういう反省のしかたをすればいいのかというと、戦時に他国蹂躙をした事実を徹底して調べあげて、国内の展示施設なんかに常設しとくのがいちばんの反省行為になるんじゃないかと思う。やった側である日本が「徹底した事実調査」をしきれてないからこそ中国や韓国が嘘をまぜこんだ喧伝を繰り広げてるんだろうし。慰安婦さんが荒稼ぎしてた件だとかハンセン病に関する周辺事実だとかにしても細かい事実を詳細にしらべるごとにバラエティ豊かなネタがじゃんじゃんでてきて、知るほどにすごく面白いのよ。でも暴力をふるった側を一方的に責めたり謝罪さそうと罵倒したりすると、責められた側はクチを閉ざしてしまって、そのテの詳細な事実が出てこなくなっちまうんだよ。暴力ふるった側に洗いざらいしゃべらせるのが戦争の抑止に際していちばん役立つだろうに、黙らせちゃったら逆効果でしかないだろ。暴力ふるった側も誰かから責められるのとは関係なく、自分らが戦時にナニをやったか、てのをいろんな事実を列挙しながらみていけば、おそらく思いもよらないような事実がみえてきて、1面では切り捨てえない複雑さを多くが知ることができるようになると思う。念仏聖と部落と文学が直結してる件じゃないけど、現状でだれもが触れたくないと思ってることにこそ物凄く面白いネタがわんさと詰まってるんじゃないかと踏んでる。戦時のことだってたぶん同じかそれ以上にいろいろな要素が混乱を極めるほど凝縮されてるんじゃなかろうか。なので、いろんな国が責めるネタほど徹底して事実調査をして、常設展でいつでも観覧できるようにしとくべきだと思う。遊就館は本来的にそういう展示をしとくほうが外国の方に日本を深く知ってもらう上でも大切な場所になるはずなんだがな。なにしろ国家の反省の尺度として、その国が自国のやらかした蛮行について市民によく知ってもらう体制をしてるか、ていうのはいちばんの目安になると思う(あと暴力ふるった側の国民から慰霊担当の家系をだすとか)。「どっかの国が悪いんであって自国は悪くない」てしてるかぎりは反省からは程遠い体制敷いてるとみてほぼ間違いないと思うよ。文革に怒ってるヒトたちに対しては中国政府が市民殺した際の事実を詳細に調べ上げて常設展示にするほかないだろうな。それと、なんの対処にしても精神的苦痛をお金で補うのは解決にならんと思うけど、ヒドい目に遭った際にそれを拒否できるほどの高潔さを保っていられるかというと、結局それができるのは生活に余裕のある金持ちだけ、みたいな話になってしまうのかもしらん。

・公立小が荒んでるからって子供を私立小に入学させたがる風潮がわりに進んでるとのことを前の勤務先にいたTさんから実体験として聞かされたんだが、いじめっ子に向き合って暴力ふるわなくなるまで徹底的に話し合ってわかり合う、てのもそうとう貴重な経験になると思うがな。巷じゃ愛だのやさしさだの軽々しく喧伝してるけど、そもそも勇気がゼロだからそういうのが発動されずじまいなのな。いじめっ子が多い、てのはそれだけ無二の友や経験をするための機会がそこらじゅうにあるも同然なんだが、困難避けるを優先するあまりに「困難を克服することでしか得られない大きな喜び」をも手にすることはできなくなってくわけだ。まず自分が変わらなきゃ「相手を変えさす」なんてできっこないのにねー。誰かを傷つけずにいられない暴力行為、てのはその子に問題があることの現れなので、暴力自体を禁じることで問題があることすらも把握できなくなっちゃうから解決にはつながらないよ、てことは以前書いたけども、それと暴力行為についてだけ謝罪させてると「人間に備わった暴力性の存在をゆるさない」とかなって、キリスト教がさんざん喧伝してきた人間否定がはじまってしまうんだよな。暴力に抗するに「どんなことされてもグラつかない」が最上の対処法(グラついたら暴力ふるった側の思うつぼなんよ)ではあるんだけども、市井で実践するにはむつかしいか?グラつかされたほうが負けといえばさーノンストップ!で時間どうりに準備できない妻をなじる夫の意見がやりだまにあげられつつ「あらかじめ伝えておいたんだから間に合わすべき」て正論がでてましたが、そのテの正論て夫人みたいなわがままなヒトだと全然通用しないので「このヒトは時間指定しても間に合わないだろうから早めに設定しとこ」て急かさせたい側が勘案したほうが早いと思うよ。相手を変えさせたいんならまず自分が変わるの。相手の性質だとか個性を完全に把握すれば円滑にいくでしょ。セックスなんかでも同じことだと思うがなー。相手のツボどころをみつけないかぎり喜ばすことはできぬよ。この回で取り上げてた夫の人の言いぶんて大部分が「相手が自分の思いどおりにならないから」つってキレた系列の内容ばっかしだったなぁ。旅先でスマホいじるなんてありえない!つって車から奥さんおろしちゃったりさ。夫人と同じくわがままであつかましい人なんだろうなー。自分に従わないから、つって反乱分子の弾圧しまくる天朝の精神性とさしてかわらねーじゃん日本男児て思わずにいれませんでした。なにしろこのテのヒトの性質を完全に把握したうえでころがしてあげてると、しだいに落ち着いてきてやさしくなってくるよ。そういえばこの回のノンストップ!だったか?西川先生が旅先での予定をギッチギチ(激安パックツアーみたいだ)に立てた直筆の表を出してたけど、あれって「絶対損したくない(=得だけしたい)」て貧乏根性から派生したもんなんじゃねーのかなー。だから結婚もうまくいかなかったのね。て実母がしみじみゆってました。「予定通りに進ます」を結婚生活に待ち込むと苦しいことこのうえないだろうな。予定外の突発的出来事に対応できないってことだし。予定はたてず、臨機応変に対応する柔軟態勢でいるほうが人生の収支的には得になる気がするけど。そもそも離婚すら想定できないレベルの狭い了見だけで計った損得を物差しにする時点で全体的に損してるような気もする。ぜんたい上記にだした自己啓発本の広告漫画じゃないけど相手がすねちゃう場合は自分のほうの言い方をアレコレ工夫するしかないと思う。つーことで頭ごなしに否定する手合いは本音を聞き出すために酒のみにでも誘ってみたらいいんではなかろうか。ごくまれに同じ箇所にはいられないほどウマの合わない同士はムリに話し合ったところで逆効果になることもあるけどな。

荒行後に質素な料理に感謝したくなる件とか幽閉された生(での抑圧)があったからこその活動的な生(による開放感)とかみるにつけ、不遇(とみなされがち)な人生てのは…もしかして来世で幸福感を味わうために必要不可欠なイベントなんだろうか。ヤな思いしたあとにかんじる幸福感じゃないけど、ヤなことがなければささいなネタから幸せを感じることもなかっただろうし。ただ改善がよろこびにつながる悩みのタネは…それを見越して要求を持つ者が仕込んでるってことなんだろうか。

2014年05月01日

悪者叩きはするホドに問題解決から遠ざかってく件

15:21

観光名所にラクガキしたヒトは目立ちたいだとか面白半分でなんだろうけど「やったらいけない場所」だからこそやるんだよな。サイコパスの人が「法で定められてる」からこそ破るんだ的にゆってたらしいけど、厳重に禁じられてるモノを汚す、そうでなければいられない心持ちがどういう場合にわいてくるもんなのかを解明しないとまたふつうにやらかすヒトが出るでしょうな。サイコパスといえば子供の裸撮りためてた人は小児性癖みたいだけど感受性が強烈な小児期に感じた欲求が深層心理に焼き付くことでその後の人生を支配する性癖となってしまうとすると、抑止てのは不可能だろうね。小児性癖の精神分析とかしてるヒトいないのかね。サイコパスと似た根なんじゃないのかと思ってる。なんらか強烈さに他の機能が働かなくなってる的なとこが。

・植民地支配した際にヘタクソだった者だけが責任を取らなきゃならんてことは、つまり「植民地支配をするに現地市民からの反感をださせずうまいことやった国はお咎めなしでOK」て論理なんだろうか。これが根源になって平和な世の中になったとしたら、それは「善き戦だった」として後世に語られることになるのと同じね。いま紛争地と呼ばれてる国にしても、現地から家康的なヒトが出ないかぎりは収まらないんだろうね。さんざん殺し合いした中でずば抜けたちから持ったヒトが現れておさまったうえで今の世が築かれた日本からしたら「戦乱がダメだ」なんて本来的には言えないはずなんだが。部外者がハンパに手出しするのがその国にとってほんとにいいことなのかどうかわからんし。

同性愛者差別だとか人種差別に陥っちゃうヒトがどうしてそういう考えを捨てられないのか、当事者と周辺がじっくり話し合って理解してくが真の解決策だとすると差別する人を追い出して済ましてるかぎり人種差別はなくならないんじゃなかろうか。「追い出す」てのは気に入らんモノを見えないとこへ追いやるだけで、なにも解決してないよね。アメリカあたりで差別が根にあると思しき状況がいまだに残り続けてるのは「差別を差別的行いで対処」してることの証なんじゃないのかなー。距離を置く方向の対処を続けてくにつれてどんどんその溝が深くなってしまうような気がする。その都度親密に話しこむ、て方向にはどうしてもなりづらいんだな。その方法は時間がかかるだけに結果がすぐ出ないから、せっかちなアメリカンとしては「とりあえず追い出す」方向の簡単な方法を選びがちなんだろね。差別といわれる言動は大方が不遇が原因で荒んでる人に陰謀論のっけて「叩く根拠」に仕立て上げたのちに個人的鬱屈をぶちまける対象にするが根源なんじゃないのかなと踏んでますけど、鬱屈ぶちまけが目的てとこからして「一体感欲求みたす目的の敵叩き」と似てますな。敵味方分かれて高揚さす、てのを市民に強いてたころから連綿と続いてるのな。マンデラさんにしても市民間の誤解を長期にわたって解消してくふうな政策を敷けなかったことが痛恨のやり残しだな。こういっちゃなんだけど、商売でもなんでも「一時的にうまくいかす」てのはわりと誰でもできるくさいんよね。それを政府が何百年単位で維持できるかどうか、てのがいちばんの問題でさ。特定のなにかを憎悪して発散対象に仕立てあげてしまう、てのは人間であれば誰しもが陥ってしまう心理である(そうならないように気をつけましょう)的な教えが義務教育なんかでされてないってことなんだろうけども。「差別してはいけない=してる人がいたら追い出しましょう」てのは「決め事に従わない人間の排除」であって、差別的心理に陥ったヒトを蔑む考えにつながってしまうんじゃなかろうか。それと同じく、ひっくりかえっちゃった船の船長だとか関係者を叩くヒトは「自分はそんなことするわけない(=自分は善・間違った相手は悪)」て思いながらやってるんだろうけど、他人ごとだと思う気持ちを抱いてるかぎり同じような事故が何度でも起きると思うよ。傾いた船からそそくさ逃げる船長さんとかも、事故なんざ他人事だと思って責任負う気がビタ1文なかったからこそさっさと船捨てたんだろうし。「誰しもいつその立場になるかわからない」ていう考えを多くが抱いてくほうが再発防止になる気がする。犯罪と呼ばれる出来事も同じで、誰しもがいつその立場になるかわからないのに、善人ヅラして「アイツらだけが悪い」なんて、誰にも言えないはずなんだけどな。人間であればいつそうなるかわからない、ていう考えこそが不遇な状況にあるヒトをも差別せず地続きで思いやることなんじゃなかろうか。中国や韓国がさんざんやらかした人に墓参りするのと同じだとして靖国参拝を咎めるけど、かつて非道をやらかした権力者を「悪」として排除するのもまた彼らを見下して「他人事」として切り捨てる心持ちから派生してるだけに、なんの解決にもならないと思う。ヒトラーや東条だってみんなと同じ人間だったんだよ。同じ立場になったときに「彼らがしたのと同じ間違い」をしないようにするには、彼らを対等の存在として見なす心持ちが必須なんじゃないのかな。「罪を憎んで人を憎まず」を実践できてるヒトってほとんどいないのかもね。なんつーか、失敗したヒトだとか極端な心理状態にあるヒトを見下してるかぎり、その状況下で発生する問題について「責任をもって対処する」ことから遠ざかってしまうと思う。責任もつ、てのは自分の身になって考えるってことなんじゃないのかな。「悪者をみつけだして叩く」てのは憎悪をたぎらせることで、解決にはならないんだよね。それやってるかぎりは「自分がすべての責任を負う」て心持ちにいつまでたってもたどりつかないし。ちゅーごく(金が入り用で過去のことほじくってんのかねえ)にしても「自分以外の誰かが悪い」てしてるかぎり、国内の問題は解決されないままでどんどん悪化すると思うよ。自国政府がこれまでやらかした蛮行についての展示を政府がするのであれば、それだけで反省してることの証になると思うんだけども「敵によって自分の国がいかに蹂躙されたか」てやってるかぎりは物騒な考えにいまだにしがみついてる証にしかならんと思うがな。その点は日本やいろんな国ですら出来てないだろうけど(自国民の客足がのびないだろうしな…)。巨大な売り手市場であるちゅーごく様にソッポ向かれたくない一心でその思想に賛同する付き合いしかできないのもどうかと思う。「敵ありき」の思想こそがこれまで世界中に憎悪の種を植えつけた元凶なんだがな。それに賛同してくとなると、これからも紛争の原因を世界中にばらまいてまわるのを推奨する(現にウイグルで蛮行繰り広げてる中ですしね)形になりかねん気もするが。真逆なはずの「反省(=責任もつ)」と「叩く(=責任放棄)」を平然といっしょくたにして善行的に見なしてるふうなのが滑稽でねえ。書かずにいれんかった。

・バチカンで逢いましょう(4/26。武蔵野館)て映画を夫人に連行されてみてきたんだが、スジとしては法王マニアのドイツ人の太ったおばあさんがローマに突入して、孫娘んとこに転がりこんだことで追いかけてきた娘ともども家族会議をする話で、なんか…このおばあさんが「ローマ法王に許しと祝福を与えてもらわないと生きていけない」的な考えなんだけども、だれかに許されなくても全員ゆるされてるし祝福されてるんだがな。神仏の分け御霊である自分を「だれかにゆるされないと生きられない存在」なんて貶めて考える自体が精神衛生上よろしくないような気がするけど。そもそもキリストの考えを「法王庁を崇め奉らせるための奴隷づくり思想」にねじまげた団体の管理者のどこらへんがありがたいんだろうか。信者の子を強姦せずにいられんくせして性欲否定し続けるつー時代遅れな思想強いる団体のどこが聖なるもんなのかビタ1文わからん。このおばあさんの孫娘さんは彼氏んちに居候してるかなんかで、その彼氏んちの壁には彼氏の描いた裸の女子絵が描かれてるんですけども、まーけしからん!とばかりにおばあさんがその絵のおっぱいと股のとこに法王の写真貼りまくっててさ。「敬虔なクリスチャン」からすると性欲と裸を否定する(=不自然)のが善なんだねー。あるがまま(=自然)を認められない時点で人間を憎んでるとしか思えんがなあ。そのわりにこのばーちゃんが彼氏かなんかにフラれた(そもそもあのベスバの爺さんがばあちゃんに偽装結婚持ちかけた理由が全然わからんかった。偽装結婚してどうする気だったんだろ?ひと儲けするのだとしてもそれに易々とのっかるおばあちゃんはクリスちゃん信念がカタいのかユルいのかよくわからない)際、やけっぱちになったかなんかで孫娘の働くバーかなんかで踊り出した挙げ句に「愛はすべてをゆるすのよー!」とか叫びだして、ばあちゃんホントはわかってんじゃんて思いました。なんかさー…世界中の「キリスト教徒」のヒトってはけ口として都合がよければなんでもいいんじゃねえの?て思わずにいれなかった。たまたまキリスト後の権力者が機関存続のためにつくりだした「オレらの決めた罪を犯したらオレらが許さないかぎりお前は許されない」てのに市井で自然発生する罪悪感解消観念が合致しやすかった、てだけでさ。それを信じるあまりに自分がハナから祝福されてる神仏の分け御霊だなんて受け入れられずにいるってだけなんでしょ。罪人なんてどこにもいないんだよ。見下す対象つくりだす思想にすがっておきながら何が世界平和だ。笑わせんな。余談だけど、前の勤め先にいたH部さんて女性(いまはアメリカ西海岸在住)がゴリゴリのプロテスタントなんだが、ジャーニーてバンドにハマってた過去話をしながら「前はわたしもそういう罪深いものを好んでて…」的に言い出してさ。その人はジャーニーだけじゃなくロック自体を罪だと見なしてたんだけども、ジャーニーやロック方面の才能持ってる人全員を差別してることに気づいてないんだなあと思ったっけ。ちなみにH部さんは同性愛もものすごく嫌っていた。物騒な宗教だねえキリスト教てのは。自分で憎悪ばらまいてることに気づきもしねーんだからな。ローマ法王庁を礼賛しながらキリストを踏みにじってるてわからんのだろうか。あんたらキリストを拷問にかけてる人と同じだぜ。まーこれまでのキリスト教は「なにが間違いなのか」てのを2千年来えんえんと体現してきたって意味では必要だったんだろうけどもな。それがなければ何が正しいのかってのもまたわからんよね。三位一体ではなく悪魔(=これまで全力で間違いをばらまいてきた法王庁)を加えた四位一体でなければ「世界を把握する」ことは不可能だった、てことをずうっと証明してきたようなものですね。

2014年04月25日

体が裸じゃなくとも心が裸の光景をみせられても後ろめたくなるんだな

17:35

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アジア・アナーキー・アライアンス(3/12。TWS本郷)→ゴジラ(神保町シアター)→stay gold(3/27。空蓮房)→成田光房(4/23。湯島)→バルテュス展(東京都美術館)とみまして、バルテュスは服をはだけた少女が長椅子に寝そべってるふうな絵を多く描いた少女好きまっしぐらな画家さんの展ですけども、 このヒトの絵てなんか不自然さがみなぎってて、なんでなのかな…?と思いながらみたところ、人体のデフォルメ具合が針金人形ちっくだからなのかもしらん。上記画像の男の絵に顕著なんですけど「頭でっかち+足がスラリと長い+(足に比べて)短い腕・小さい手」ビジュアルな人(多くは少女)が、手足を無軌道に伸ばしきったうえで、すぐそばに他人がいるにも関わらず、まるで自慰をしてる最中みたいに「ある種の感情」に浸りきってるふうな表情を浮かべてるたぐいの絵が多いんすよね。上記に出した画像の鏡みてうっとりしてる少女じゃないけど、あの顔て他人にはぜったい見せない表情のひとつだよね。自分にみとれてるんだぜ。タンス預金をこっそり取り出して札束の枚数かぞえてるときの顔じゃないけど、自己愛にひたりきってる中のありさまが堂々と描かれてるもんだから、あの絵をみた瞬間にのぞきの現行犯目線にさせられてしまうふうな感覚に陥るんだよな。しかも少女がうっとりしてる系の絵の多くは薄暗い屋内で、そのうえで人体が木偶人形ちっくにデフォルメされてるから戯画感覚というか玩具遊び中の人形がほったらかしになってるみたいな「事後の空虚感」が漂ってる雰囲気が濃厚なんだよ。なんか…ヘンな浮遊感みたいなのがみなぎってんだよな。バルテュスの少女絵てさ。自己愛で閉じられていながら遺棄された人形の虚ろ感が漂ってるというかね。屋内少女絵の特徴として、展示作品中の16(Alice in the MIrror)・17(Cathy at her Toilette)・21(Therese Dreaming)に描かれたテーブルの脚と椅子の脚の影の伸びてる方向と、描かれた少女の目線や顔の向きが比例してるというか、少女が目線を向けてるほうから光があたってるふうな絵が多い(ちなみに上記画像の絵の少女は鏡を通して光源を見ているふう)。50(Katia Reading)なんかは光があたってるほうに目は向けてるにも関わらず、その光を遮断するかのように読んでる中の本を顔の真ん前に据えていて、克つ少女の目つきはなぜか疑るような雰囲気。光源遮断系の構図は34(The Week of the Four Thursdays)て作品に顕著で、椅子に座った少女が体のけぞらせて、着てるバスローブはだけてまで窓からの光から顔をそむけてるふう。日本語題の「決して来ない時」てのとやたら相俟ってる。光に目を向けてる少女が「受け入れ」を表してるとすると、光から目を背けてる少女は「拒否」を表してるんだろうか。34の習作と思しきD28(The Golden Days)は無関係かもしらんけど、窓から少女のほうへ2本の直線が描かれてるんよね。やっぱり光と少女の位置関係を重要視して描いてたってことなのかな。光の位置関係といえば38(The Window: Over the Cour de Rohan)ていう開かれた窓だけを描いただけの絵があるんだが、これって屋内/屋外との位置関係をけっこう重視してたあらわれなのかしらね。直線で構成された内装や家具と人間との位置関係を重視してる点はちょっとだけハンマースホイちっくでもある。そういえば17(Cathy at her Toilette)でも人物の背後にある戸棚の開き戸がすこしだけ開いてるんだよな。窓や戸棚の「開き具合」を盛り込まずにいれなかったのかなやっぱ。その絵に描かれてるのは少女じゃなく成熟した女性ですけども(でもまんこはツルツルのパイパンです)。なんか当時バルテュスが付き合ってた気難しい女性だとか説明にぐじゃぐじゃ書いてありましたけど、たしかに怖い顔してるしな。ほぼ全裸で靴だけ履いてる(このパターンがやたら多い)んですけども、むきだしのおっぱいなんかつーんと上向きながらもそれぞれの乳首が別のほうを向いてるという気性荒い感みなぎる描き方されすぎなのな。よっぽど怖いおねーさんだったのであろう。その脇で青年(たぶんバルテュス自身)が苦難をぐっと堪えてるふうな顔しながら、しがみつくように両手で椅子の背をつかんでいるのに対して、ほぼ全裸の怖いおねーさんは片手でかるく鏡台の枠木に触れている。気性の荒いにゃんこのそっけなさと、それをどうにもできずにいる真面目青年みたいなかんじの絵。怖いおねーさんとにゃんこ絵系列では33(Girl with Goldfish)つー金魚を見下すように見つめる少女と、その光景に背を向けて鑑賞者のほうに顔向けてるにゃんこの絵があったな。ふつう金魚と猫が描かれる場合、にゃんこは獲物(金魚)をみてることが多いんだけども、あのにゃんこは金魚には興味がないんだろうか。しかもあの少女、位置的に金魚じゃなく少年を見つめてるふうにもみえるあたり、ちょっとどういう絵なのかわからんかんじ。強烈な感情がみなぎってる空間にだけ漂う緊張感を絵にしてみる傾向なんだろな。なんらかの緊張感を感じさそうとする傾向の描き方は初期の絵にもすこしあらわれはじめてて、9(Storm in the Jardin du Luxembourg)のなかに描かれてる2人の男が言い争ってるかなんかしてるふうな、何事かが起きてる中を感じさす描き方をしてるし、13(The Jardin du Luxembourg)は輪っかを転がしてる中の少年がちょうど画面からいなくなる瞬間を描いた(つーかよく見ると少年は輪をつついてころがすための棒を持ってるほうの手を上に振り上げてて、それがどうしてなのかがよくわからない)…ふうな絵で、なんらかの劇的な瞬間を切り取る方向を模索してたのかなーと思える。劇的な感情がほとばしる瞬間の空間にみなぎった緊張感を描こうとしてたふうなのが顕著にでてるのがD4-D17の嵐が丘の挿絵ですけど、怖いおねーさん絵とほぼ同時期に制作されてんのな。どっちが先なのかな。そういえばバルテュスの絵に描かれてる人物て、全員クチをかたく閉じてるんですよね。なんらかの緊張状態にある、てことを表してるからなんだろうか。人物以外で緊張感を表してるふうな絵もたまにあって、24(Still Life with a Figure)なんかはテーブル上の食物を描いた絵なんですけども、飲み物がハンパに入ってるグラスと、器から飛び出しかかってる果物(36の伊勢海老絵に顕著なんですけど「皿からハミでるほどのブツ」描写好きなんでしょうね。長椅子から手足をだらしなく放り出してる少女と同様に)と、それとナイフが刺さったままのパンという、だれかが何かした痕跡だとか「途中」ふうをニオわせる状態のブツばかり配置してる。これがなぜかカーテン風の幕によって隠されてたらしくて、少女がその幕を手で持ち上げてるんですね。どういう状況なのか、前後を知りたくなる構図が多いんだよな。前後を知りたくなるといえば47(The Cardplayers)はトランプ遊び中と思しき少年少女の絵ですけども、目つきの不敵さから緊張感はもちろんあるんですが、なんか…人物の描き方がゴツい兵隊を小さい人形にしたふうなデフォルメがキツくて、幼年期の緊張感に漂う滑稽さを戯画化したとかなのかな。そこまで殺意みなぎらせる場でもねーだろ(笑)みたいなふうにも見える。真面目ぶってるふうなのでは31(The Room)てのが全裸にくつ下の金髪寸胴少女が真っ正面向いてキリスト風なポーズとってる絵とかはエロというより戯画風な側面がちょっと強いかんじ。でもその全裸にくつ下の金髪少女のうしろにいる女中風のおばさんが叩く道具(たぶん布団たたき)持ってたりする32(Georgette at Her Toilette)なんかはちょっとだけ不穏さをニオわせてたりする。なんか、描き手がしたいことを脇の道具でそれとなく演出してるふうな絵てのもけっこうあって、21(Therese Dreaming)とか顕著。パンツまるだしのまま両目閉じてる少女のすぐ脇で猫がミルクなめてるとか、あからさまですね。叩きたい。舐めたい。そうですか。直接描くとマズイので間接表現。上記画像とかみた瞬間「滾らせてんなー(笑」てふつうに思いました。今回は出品されてなかったけど、まんこまるだしの少女が女教師から折檻されてる中と思しき絵とか、けっこうあからさまだよな。大回顧てからにはあすこらへんの代表作もきてるかと思って期待してたんだけども、きわどいのは全然なかった。あからさまっていうには足りないけど、習作であるD50(Still Life with Basket)に描かれてる桃(杏か)の割れ目にだけ赤色をひかえめに乗せてたのがちょっとよかった。静物画系でも薄暗かったりするのが多くて、どうしても屋内感が充満してるのが多かったな。41(Morning Glories II)なんて上からみたせいか背景が焦げ茶1色だし。屋外ぽさや陽の光描写をぜんぜん描かないんだからな。後年の作品である51(Montecalvello Landscape II)なんかも暗めの色合いの風景中で、川だけが細く青白く光ってるふうな描き方してて、なんか汚濁の中の聖水なんだなと思った。そういえば1930年代に描かれた風景画で、絶妙の安定感を誇る作品があったな。19(Summertime[Study for The Mountain])ていう、背後の山々と同じようにゆったりと原っぱのうえで寝そべる絵と、あと23(The Cliff)つー手前に草原があって奥に山々があるというなんてことない風景画なんだけども、あの落ち着く感覚はなんなんだろうな。なんか…絨毯のうえにきたみたいな穏やかさをかんじる絵だった。バルテュスの風景画であんなに癒される作品があるとはね。他には1950年代のやたらに暗い雰囲気の大人の女の絵から成熟した女への興味なくしたんだな感をひしひしと感じたのと、1960年代の春画感あふれる女体絵から新たな覚醒をかんじた。49(Japanese Woman with a Red Table)は着物はだけた浮世絵風の色白女性が軟体動物ぽく描かれてるうえ、周囲の小道具なんかもちゃんと描き込んでるし、日本におけるエロ盛り上げ小道具使い回しすらもこなすって生粋の変態にしかできんよなぁと感心した。そういえば48に自作したと思しき粘土ぽいもんで出来た少女のトルソてのがありましたけど、なんかクオリティがボロボロでどうしたんだろう。それと展示で写真だとか来歴説明なんかもけっこうありましたが、バルテュスはデビッドボウイと並んで着物の似合う外人男子ですな。完璧に自分のモノにしていた。

stay goldは木漏れ日から差し込む陽の光をPC加工(なのか?)できらびやかに目立たせたふうな写真なんですが、ギャラリーの構造上、屋内にカドがないことから物陰的な部分が極端に排除されてまっさら感が強烈なので、展示された作品の表現する光がより際立たされたかんじだった。部屋のすみっこに座って観賞すると狭さを感じない。広い空間でじっくり向き合ってる味わい。浄土に恐ろしいモノや未知のモノがひとつもないのだとすれば、それは満ちた光によってすべてが白日の下にさらされるからだろう。光によってすべてが明らかにされ、安堵する。だが、その光が強すぎれば目がくらみ、なにもみえなくなる―ひいてはすべてが焼きつくされ、形あるモノが無くなってしまうだろう。木々の下にいるとき、木漏れ日をかんじるとき、なぜ心地よさを感じるのか?それは木々が「ちょうどよさ」によってしか育まれない存在だからだ。光、土、水―それらのうちのどれかひとつでも過剰になればたちまち干涸びるか、腐り落ちてしまう。生きるとは「ちょうどよさ」を体現してゆくことなのかもしれない。木々に囲まれるとき、わたしたちは「ちょうどよさ」に囲まれて心地よさを享受している。木漏れ日の輝きを宝飾品のように散りばめた武田陽介の写真をみると、女性が宝飾品を好むのはかの「ちょうどよさ」を身につけていたいからなのかもしれない、と思えてならなかった。武田陽介の際立たせたきらびやかな光は鋭く、ときに丸い。心霊写真と称されるモノに映し出されるオーブ―霊魂のたぐいがまるいのはなぜなのか。蜂の巣の六角、雪の結晶の風変わりな形状、丸と角の織りなす水と陽のかたち、そのなかで「色」とはいったいなんなんのか。影では見えず、光があたることではじめて見えるようになる色。ちょうどよい光だけがもたらす色彩は、調和の証なのかもしれない。

成田光房はなんか私塾もやってる美術家さんちにあがりこんでいろんな作品を拝見した。バルテュス展いく途中にチャリでフラついてたら八重桜の花びらで敷き詰められた小道を発見して、この先にギャラリーがある的な案内がでてたんで行ってみたっつー。成田秀彦さんは最初は写真表現をやってたそうなんですが、やってるうちに写真だけじゃ表現しきれなくなって絵や立体なんかも手がけるようになったもよう。おもに平面作品をいろいろ見せてもらったんですけども、上記画像にもあるように円形がなんだか出てきてしまうらしかった。当人は意識してないらしいんですけど、丸形だとか円が入ってる作品がすごく多い。上記画像の「吸い殻入り灰皿+たまご+稲」作品はつくった当人もなぜだか気になって、あの並びまんまで銅かなんかの立体をもつくったとのこと(みせてもらった)。なぜだかわからないけど、この並びは日本人にしかできないよ、とおっしゃっていた。ほかにもアメリカのサ店のカウンターに置かれてるような販促用マネキン的なのの写真とかわんさとあったけれども、自分から展覧会とかする気はないとゆっていた。そんなことする暇あるなら作品づくりしてたいとのことです。自分の内にあるモノをひたすら具現化するのが大事で、ヒトに知られるかどうかはどうでもいいとかそういうことらしい。成田さん宅には亡くなった美術家さんの残した作品なんかもたくさん保管されていて、なかでも田中繁一さんという方の絵がよかった。直線使いという意味ではモンドリアンの系譜なんだけども、モンドリアン絵が太めのタテ黒線とヨコ黒線で構成されたいろんな大きさの四角に、それぞれが引き立て合うような3〜4色の原色がまぜこぜに配置されてる(印象派の花畑表現とかカンディンスキークレーあたりの抽象表現をさらにデフォルメしたノリね。ドット画の走りなのかな)傾向なのに対して、田中繁一さんの絵は「直線使い」て点だけはモンドリアンと共通してるんですけども、隣合う色同士が同系色の淡いパステルカラーで構成されてるので、直線しかないのになにかやわらかさや儚さを醸し出してるふう。モンドリアン絵がカタくてガッチリ構成された直線なのに対して、繁一さん絵はふんわりやわらかな直線を色合いで表してるかんじ。無機的な「物」を有機的に感じさすにはどうしたらいいか?てとこからつくられた辰野登恵子さん絵だとか、ロゴマーク的な商業手法でもってエロ表現してる高橋秀さんの版画を思わせる。つーかこの2者の作品といっしょに展示してほしい。いまさらだけど、美術家さんてのは「説明はできないけど日頃からなんとなく感じてるモノ」について表現せずにいられんのだなーと思った。日頃目にはしているけれど、はっきりと言葉で表すことのできない心地よさや違和感について、いつか出さねばと思ってるんだろな。あとは中根明貴子さんて方の1976年の作品で、暴風が砂埃を巻き上がらせた瞬間に浮かび上がった輝くナニかを捉えた瞬間をまま形にしたふうな版画がよかった。中根さんは後年はこのヒトの作品のノリに近いコラージュ的な抽象画なんかを描いてたっぽい。他にも森田玖吾さんて方の鉄製のフクロウの立体だとかいろいろ面白いもんがあったんだけども、名前で検索してもインターネッツではあんましでてこないのな…。インターネッツにでないとなると埋もれたままになる確率が高くなる気がするんだが。トシくってからPC覚えるのってたいへんなんだよなー。身内でPCやるヒトがぜんぜんいないとなるとさらにハードル高くなるしな。

ゴジラは初めてみてみましたが、なんか…怪獣てよりふつうに生物扱いなのな。動物学者さんが調査に赴いたりしてたし。深海に住んでた恐竜の生き残りが水爆実験の影響で放射能吐くようになってしまって、都会を火の海にしてまわるってスジ。これどうやって収拾つけんのかなーと思ってたら天才科学者みたいのがでてきて、こっそり開発してた兵器(水中の酸素をすべてなくしたうえ生き物をすべて溶かしちゃう…んだっけ)を使ってやっつける、てオチだった。あのあと魚とれなくなっちゃったろうな。ゴジラもなんか…学者さんが調査にいった際、音もなく山陰からスッて現れて、意外と身軽なのかなと思った。いなくなるときも足音すらたてずに海に消えてたし。映ってるときは重たそうに動いてるのにな。みてないとこではフットワーク軽いのかもしらん。島にのこされたゴジラの足跡に三葉虫が残されてるくだりがほのぼのした。全体的に反戦映画なかんじだった。兵器を開発した者の苦悩とかもちゃんと描かれてたし。

アジアアナーキーは戦時プロパガンダの不穏さを静かに表現してるふうな傾向の作品が中心だった。しょっぱなに展示されてたジョンペット・クスウィダナントさんのはデモ隊の服装だけが立ち姿ままで展示されてて、近寄ると自動的に服装に付随されてる楽器が鳴り出すふうな作品でしたけど、頭部がすっぽり覆われてるふうな出で立ちってのはイスラム教関連のナニかってことなのかしら。イスラムに関する知識がまったくないおいらからするとあの「頭部が覆われてる出で立ち+デモ隊」の組み合わせからはどうしても過激派がよぎってしまっていかんな。付随してあるグッツは武器でもなんでもなく楽器でしかないのに。イメージて怖いもんだな。あとザッとしか見てないんですけど、義務教育の体操着みたいのを着たイイおっさんたちが商店街で体操してるふうなチェン・チンヤオさん作品とか、おそらくCG映像だと思うんですけど小舟1艘につき男がひとり乗ってて、それぞれが立ったまま信号弾みたいのを何分かおきに撃ちあげるチェン・ジンユエンさん作品(寄る辺なく漂い続ける不安感と、信号弾を撃ちあげ続ける―誰に伝わることもない状態から醸し出される逃げ場のない不穏感が妙に合致してますね)だとか、あと切り絵アニメ風な映像で自然に囲まれた平穏な地域がいろんな人種に踏み荒らされて次第に不穏になってくふうなドゥ・ペイシーさん作品もよかった。自然現象でいろんなモノが破壊されるとこをみるにつけ、そこから生まれた人間てのは元来破壊したい性質が備わってるのかもしらんなあと思う。映像作品ではヤオ・レイヅォンさんの「万歳ー!万歳ー!」て叫びをカメラが追ってくと廃屋の奥の広間壇上で軍服みたいなの着た男がひとりで叫びつづけてるとこまでたどりつく映像がよかった。だれも声高には言ってないけど「体制」ていうモノに対する漠然としたイメージを作品に盛り込んでるふうなのが中心だった気がする。日本人であるおいらがいうのもなんだが、暴力て心に刺さるからこそ芸術作品にしたときにもその効力を同じく発揮するんだよね。マジに平穏な世の中になったらこういう作品もまったく生まれなくなるかもしれんな。このアジアアナーキー展てTWS本郷だけじゃなくいろんなとこでやってたみたいだけど、各々が遠いからまわるのひと苦労に思えてしまって足が遠のいてしまったよ。ほんとはちゃんとみなきゃならんかったよなこれ。

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