生き物である日本酒


酒造りが杜氏の経験値 職人技だけに頼っていた戦争前の時代、酵母の働きは科学的に解明さてれてはいませんでした。


原材料の米も地元のものだけを使い、出来高は天候に左右され、品質が安定的ではなかったはずです。


不確定な要素たっぷりの中、うまい酒を造るのは杜氏の技に頼るしかなかったわけです。そういう時代ですから、ちょっとしたミスが重なって樽一本失敗してしまうことなどはよくあったと聞きます。場合によっては、蔵全体に雑菌が蔓延し、すべての樽 全滅ということもありました。雑菌が繁殖するとそれは数年に渡って住み続け酒造りができなくなったそうです。最悪 杜氏の夜逃げさえあったのです。


よく酒造りの間は納豆は禁物と言われますが、納豆菌が微量でも蔵に入り込めば恐ろしい全滅状態が危惧されたからです。



というような話題から入ったのは、日本酒造りは酵母を操る生き物を育てる作業であることを強調したかったからです。


戦争前に比べれば、バイオ技術が革新的に発達し、衛生管理の行き届いた蔵になったとはいえ、同じ材料を使い、同じ酵母と同じ麹菌を使って、データに基づいた作業工程を経たとしても確実の同じお酒が出来上がるわけではありません。


同じお父さんとお母さんから生まれて、同じものを食べ、同じ生活環境で育っても兄弟の性格が違うことと同様です。


料理に携わる私たちでさえ同様です。同じ食材を同じ調味料で調理しても確実に同じ味のものが毎日出来上がるわけでは決してありません。それらを僅差の範囲にとどめ、お客様には安定しているように見せるのが職人の技であるとも言えます。





大ぴらに言うことはありませんが、常に店の日本酒リストのラインアップにのぼり、人気だった蔵に微妙変化があることはよくあります。


プロフェッショナルのですの、素人衆が言う「あの蔵も味が落ちた」などという安易な決めつけではなく冷静に判断で変化を見極めていき、探っていくと、杜氏さんが変わっていたり、その年の酒米が溶けにくかったり、熟成具合が早かったり、それなりの理由が見つかることもあります。


私たち料理屋はとかく、その酒が一番美味しかった記憶で判断してしまいがちで、「あの時のあの味」がいつも再現されないと辛いのですが、生き物である日本酒の「あの時のあの味」は時に奇跡の一瞬であることもあります。



ある蔵が全国新酒鑑評会に市販の純米吟醸を出品して見事に金賞をとった年がありました。(鑑評会にはそれ専用の仕込みをした特別な大吟醸を用意すること通常です)


それは純吟クラスとしては素晴らしい出来で、「あの若主人の地道な努力がついに。。。」と手を打って喜んだのですが、翌年翌々年は金賞受賞年ほどの奇跡は起きませんでした。もちろん通常レベル以上の出来ではあるのですが、酒の出来上がりを待ちわびるようにして試飲しても「おお!」とは思わなかったのです。とは言っても、あのレベルを造る実力は間違いなく有るはずと信じて毎年試飲を重ねました。


今年2月、同じように試飲した純米吟醸もよくできたお酒で「この値段でこのレベル」は十分に納得ではあったのですが、あの金賞の時と同様か??というと今一歩であったような気がしました。こういう時は、とりあえず、「寝かせてみる」のが私のやり方です。


で、試飲したのがつい最近。「あっ、ずっとずっとよくなっています」 2月の時点で半年の熟成がここまでプラスに働くとは予想できませんでした。


冷静に考えてみると、金賞受賞後に試飲したのは7月。その次の年の試飲は常にお酒の販売直後の2月。熟成はさせましたが、半年寝かせたかどうか??


つまり、金賞受賞の時の味が再現できていないと思い込んでいた私は、熟成を段階的に経て試飲し判断してはいなかったのもしれないのです。


ことほど左様に、日本酒も熟成具合で味わいは劇的に変化することがよくあるのです。ここでも日本酒は生き物であることがよくわかります。


日本酒は蔵から出荷された時がピークで、封を切ったらその日のうちに開けてしまうのがベスト・・・とは全く思っていません。


自分の料理、自分の店のスタンスにはこの日本酒はどれだけ熟成させて、どれくらいの開封、何日で飲みきるべきかを一本づつ冷静に見極めるのが料理屋の大切な仕事です。


それに年による酒質の変化もそれに加わって「美味い!」とおっしゃって頂くための努力は歳を追うごとに難しさを増しています。


が、それが料理屋の醍醐味でもあります。そして、それは確かな舌と冷静な判断、経験値の積み重ねでしか達成できません。