涜書:鏑木政彦『ヴィルヘルム・ディルタイ』

The Philosophy of Social Research (Longman Social Research Series)』 第5章「The interpretative alternative」の絡みで。

ヴィルヘルム・ディルタイ―精神科学の生成と歴史的啓蒙の政治学

ヴィルヘルム・ディルタイ―精神科学の生成と歴史的啓蒙の政治学

読了。
良書でした。勉強になった。

  • 序論
  • 予備的考察
  • 第一章 宗教的啓蒙と歴史の科学──初期ディルタイの思想的課題(1852-1863)──
  • 第二章 精神の学から道徳哲学へ──前期ディルタイの人間研究の展開(1864-1876)──
  • 第三章 精神科学と想像力──中期ディルタイの精神科学論I(1877-1896)──
  • 第四章 歴史的世界の解釈学──中期ディルタイの精神科学論II(1877-1896)──
    • 第一節 ディルタイ教育史の分析
    • 第二節 歴史解釈と現代的課題の連関
  • 第五章 歴史的理性批判と啓蒙の精神──後期ディルタイアポリア(1897-1911)──
    • 第一節 類型の解釈学
      • 一 記述心理学への批判と反批判──中期末ディルタイの課題
      • 二 個性理解の方法──類型と比較──
      • 三 理解における自己と他者
    • 第二節 歴史的啓蒙の政治学
    • 第三節 解釈学と実践の帰結
  • 結 論 
      • 一 社会の分化と哲学の終焉
      • 二 精神科学の痕跡と現代の危機


社会学がらみでディルタイについて気になることはたくさんある。

歴史認識における)比較と類型、体験-表現-理解のトリアーデ。そして解釈‥‥ などなど、みんなディルタイ由来のものだ。

でもディルタイ研究はあまり盛んじゃないし、そもそもあまり読まれていない。だから研究書も少ない。門外漢が勉強するのはちょっとむつかしい。 ‥‥という中で、かつてぱらぱらしてみただけで積んどいたこいつを、冒頭に書いた事情により 通読してみたところ、これが良書だったのであった。問題設定が堅実で、議論も手堅く、論争的論点についても主張の提示にあわせて反論も紹介してあってバランスが良い。知らないこと*もいっぱい書いてあってよかった。

事項索引がついてないのはたいへん残念。
* 特に、ディルタイを、ガーダマー〜リクール〜ハバーマスの線で理解することの問題性の指摘には蒙を啓らかれた。
あと──これは前からそう思ってたけど──ディルタイが「勝ち馬乗り逃げ」的哲学史観の犠牲になってきた点についての指摘も説得的で、ちょっと溜飲を下げつつ読んだ(なぜそこで俺が溜飲を下げられるのだ、という問題はあるが)

■著者のひとのサイト:http://www.scs.kyushu-u.ac.jp/%7ekaburagi/index.html
こんな論文書いてはるのね:

  • 「相互作用と歴史──ディルタイのシステム論的解釈に向けて」[pdf:290k]
    注の68どこいった。


‥‥なんだけど。こちらの(勝手な)関心からすると隔靴掻痒の感が....。
たとえば「比較」について。

まず5章一節「類型の解釈学」第一項「記述心理学への批判と反批判」の要約をしておくと:
  • 1894年の『記述的分析的心理学論考』でディルタイは、構成的・説明的心理学に対置して記述心理学のアイディアを提出したよ。[p.228]
    • そこでのキーワードは「心的生の連関」、その「体験的把握」、「連関の斉一性」だったよ。[p.228-230]
  • これは、ヴィンデルバントエビングハウス、ヨルクからの批判を招いたよ*。
  • ヨルクの批判は、ディルタイの「比較Vergleichung という方法」に対するものだったよ。[p.232-]

で。

第2項「個性理解の方法」。

ディルタイの言い分:

ディルタイが類型という言葉に込める意味は、全体(普遍)を象徴する部分(個別)である。「ある類型的な生の外化eine typische Lebensäusserung は 一つのクラス全体を 現前するrepräsentieren」(V,279)。この類型的な外化*──例えば詩人の作品──をみて、そこにこめられた何らかの全体(普遍)を見出すことが「類型的にみるということdas typische Sehen」(V,279)である。ディルタイの「比較」とは「類型的にみる」ということであり、それは、外的なものから内的な普遍的意味内容を読みとる創造的な作業なのである。[p.233]

* 「外化」ってのは ほぼ「表現」のこと。言葉の使い方:詩人の「作品」とは 詩人の「生の連関」が「外化」されたものだ。

ヨルクの批判(大意):

  • 比較というのは外的な形態にかかわるものだ。だけど大事なのは 生の歴史性に即した内的な理解 じゃないか。(大意)[p.233-234]


著者問うて曰く:こうした批判があったにもかかわらず‥‥

ディルタイの基本的な姿勢は、比較の方法を受け付けない人間の歴史性の分析ではなく、比較の方法の適用できる歴史的存在としての人間の究明でありつづけるのである。ヨルクの批判にもかかわらず、ディルタイがかくも比較の方法にこだわるのは何故なのだろうか。これを理解するためには、ディルタイにおける比較が何を意味するのかをもっと吟味しなければならない。 [p.235]

「おぉそうだよね。もっと吟味してくれたまえ」‥‥と思いつつ読み進めてみると、しかし これが答えられないまま*本がおわってしまっているように見えるのである。

著者は前期〜中期の議論を振り返ったあと[p.235-240]、

歴史的個性の理解という問題に取り組んでいたディルタイが、ヨルクの批判にもかかわらず、比較を採用し、類型の解釈学を切り開いたのには、彼の精神科学を導く実践的意図が大きく作用していたと思われる。われわれは、この意図を彼の現代に対する危機意識から読み取ることができる。[p.240]

と述べて(いるにもかかわらず!)、もうこの場所には帰ってこないのだった。


著者がその後に書いているのは、「ディルタイが〈類型の解釈学〉でもって目指したこと」ではあっても、「ディルタイが〈類型の解釈学〉でもって達成できたこと」ではない。

* ひょっとしたら著者は「答えた」つもりなのかもしれないが、そうだとしたら答えになってないと思う(後述)
このあたりを著者自身がどう考えているのか、テキストからだけでは ちょっと読み取れない。
もちろん「こだわったのは何故か」という問いに対して「〜が出来るとおもったから」という答えの与え方はできるけれど、そういうやり方でディルタイのプロジェクトが擁護できるはずはない。
いずれにしても、今日の水準で議論を再構成しようとおもったら、まず、「内的な」とか「外的な」とかいう言葉を使わずに済ませるやりかたを考えたほうがいいんじゃないっすかー。


仕方がないので、「せめて」つーことで p.235-240 を もうちょっと丁寧にみておくとこんな感じ。



【前期ディルタイ】 5章一節二項「個性理解の方法」後半の要約:

  • ディルタイは前期から「比較という方法」を取り入れていた。[p.235]
    • 「比較」の目的は、「解釈」を経験科学の枠の中に置き、学としての厳密性を確保することだった。[p.235]
    • 「比較」の出自はまずはミル(逆演繹法にあったが、ミルとは異なり ディルタイは「歴史的比較」を強調した。[p.235]
    • ディルタイの謂う「比較」は、「生の構成的な特徴の背後へ回る」ものではない という点で「歴史的生に内在的」な方法である。[p.235-236]

このままでは、さしあたり「内在性」が消極的に主張されただけである。

つまり、「つまりどういうことなのか」はさっぱりわからない。

【中〜後期ディルタイ】 5章一節三項「理解における自己と他者」要約:

  • ディルタイの問題関心は「個性認識」にある。
    「個性認識は、個性を普遍的ななにものかで説明し理解することではなく、個性を成り立たせるそのもの、内的な形式そのものの認識なのである」[p.237]。
つーかだから「個性を成り立たせるそのもの、内的な形式そのもの」ってなによ?
  • ディルタイによれば、この課題に対して答えるのが「理解」なのである。
    • 「理解」とは、与えられた〈記号〉から、〈(記号として外化された)心的なもの〉を認識する過程である。[p.237]


この↑議論と、この↓議論は、一直線に結びつくようには思われないが....

全体的なものは個性的なものに表現され、個性的なものの理解を通して認識される。

歴史的全体、人類の歴史としての普遍史は、個別的生の歴史の中に形をとり、個別的生の理解を通して把握される。逆に、ある個別的歴史が普遍史的発展として位置づけられるのは、人類を結びつける内的完全性をそこで実現するからである。このような

個体と全体の一体性、照応関係こそ歴史的世界の理解を成り立たせ、歴史に意味を与える構造なのである。この構造のなかで普遍史的なものとして把握されるにいたった個体的なものは、もはやたんなる個別性ではなく、普遍的なものを表現する「類型Typus」である。類型は、歴史を通して伝えられる普遍性を有している限りにおいて、歴史的個別性に還元されきらない普遍的な型であり、この型をとおしてはじめて歴史は構造づけられ、記述可能となるのであり、またその比較を通してより妥当な認識へと近づくこともできるのである。[p.238-239]

にもかかわらず、それを「可能にしている」のがこの↓前提。
ディルタイ先生の『記述的分析的心理学』に曰く:

われわれが理解するときには、われわれに生き生きと与えられている全体の連関から出発して、その連関に基づいて個々のものをわれわれにとって把握できるようにする。(V,172) [p.237]

どっから出てきた「全体の連関」w。


‥‥と。このように、鬼のような論点先取とともに、議論は永遠にロンドを踊り続ける..... わけなんですが。


で、著者のまとめはというと....:

 問題は、全体と個別の照応関係というゲーテ的な観念それ自体は非歴史的なものではないのかということである。

ヨルクがディルタイの歴史に形態的なものの嫌疑をかけたのは、ディルタイの歴史のこの構造に対してであった。

おそらくここで道は二つに分かれるのだろう。

  1. ヨルクの如く、これを非歴史的とし、全体と部分の照応関係を認めず、歴史的なものと存在的なものとの差異につく*というのはたしかに一つの道ではある。
  2. しかしディルタイにとってみれば、この照応関係を認めず、したがって類型を否定する歴史性の立場は、歴史を記述することが出来ない。なぜなら、そうした類型を欠く場合、歴史的世界は無限に豊かな事象のなかに埋もれるほかないからである(20)

ディルタイは、ヨルクの批判の意味を理解しながらも、歴史を分析しつつ記述するために、この類型を捨てることは出来ないと考えたと思われる。[p239-240]

そういう「問題」かぁー? ‥‥という言葉をぐっと飲み込んで。

* ハイデガーが踏襲した道。


続けると、
箇条書きに(私が)書き換えた二つの部分が、対応してはいないことに注意しよう。後者(2)は、「帰結からの推論」であり、これでは「全体と部分の照応関係」を前提に置くことの正当化にはなっていない。
それに、ここで「根拠」にみえている

  • 「類型を欠く場合、歴史的世界は無限に豊かな事象のなかに埋もれるほかない」
    →「これでは歴史学は不可能だ」

という推論=主張は、前提と相即的に支えあっているから「根拠」に見えているだけなのであって、それ自体吟味の余地があるものである。

念のため敷衍しておくと:
  1. 類型を欠く場合、歴史的世界は無限に豊かな事象のなかに埋もれるほかない
  2. これでは歴史学は不可能だ
  3. しかし歴史学は必要だ
  4. だから類型は必要だ
[1]-[2] があやしいときに、[3]-[4] をいくら弄ってみてもしょうがない、ということ。


ちなみに著者は適切にも、この箇所に次の注を挟んでいる:

20 逆の立場から言えば、ディルタイ的な歴史は捏造であり、現実は無限の生の豊かさにほかならないとする批判もありえよう。バーリン isbn:400336841X, 38頁を参照。

そりゃそっちの指摘のほうが正しいでしょw。

でも社会学ではいまだに、たとえばエスノメソドロジーが、まさにこうした不当な論法による批判──「エスノメソドロジーには歴史が扱えない*」──を、し_か_も_し_ば_し_ば 受けているのを見かける。
それを見るたびに私は、笑ったらいいのか泣いたらいいのかわからなくなるんだけど。
いやー、ほんとに。ああいうのはどうしたらよいのでしょうwww
ただし、もうちょっとだけ突っ込んでおくと、 が正しくても──正しいと思うが──、そこから
  • 現実は無限の生の豊かさにほかならない
を導かなければならんわけではあるまい。こちらもまた──逆向きに──「飛びすぎ」である。同じ地平での争い。
* ちなみに「エスノメソドロジーには いま-ここ を超えるもの(社会構造とか)を扱えない」とかいう非難も論理的に同型の不当な難癖であります。
おいそこの君、「みんなが言ってる」からって 正しくなるわけじゃないぞ。ちょっとは考えてからしゃべれよwww


いずれにしてもここからわかるのは、結局ディルタイにできたのは、実質としては「必要に訴える」ことだけであって、ヨルクの批判に正面から答えることはできなかった、ということですかね。
──というまとめでいいですか?


あとこっちも読んだ。

ディルタイと現代―歴史的理性批判の射程

ディルタイと現代―歴史的理性批判の射程


私のコメントを一言でまとめれば:

内部とか外部とか言うな

、と。いうことで。

お買いもの:スウィンジウッド『社会学思想小史』

上記鏑木本で参照されていたもの。
p.39

社会学思想小史

社会学思想小史

社会学思想」という語をはじめて見た。
p.261(20)p.261(17)
世界を俯瞰する眼―比較社会史入門

世界を俯瞰する眼―比較社会史入門

内容(「BOOK」データベースより)

歴史学の課題は、時間系列に沿ってあらわれた諸事件の因果的説明だった。しかしながら、いまやそうした課題だけでは、現代人の知的要求や現実からの要請にこたえることができない。世界各地で表面化している諸現象を分析し、それを構成する諸要素の新しい組合せ方式を解読すること。本書の比較社会史は、現代にあって歴史学がおこないうる応答のひとつのかたちである。

なんだかたいへんに微妙な売り文句ですね。

でもこういう主張はよく見るけど。