オバマのママの物語(4) (TIME)

     TIME April 09, 2008
     The Story of Barack Obama's Mother by Amanda Ripley

S・アン・ダナム・ストロ(Soetoro [ suːtoʊroʊ ])


息子バラクが 2 歳の頃、アンは大学に戻った。経済的に困窮していて、
食事のために食料切符を集め、幼いバラクの世話は両親を頼った。
4 年後には学士号を取得した。2 度めの学生時代に、彼女はハワイ大学
もうひとりの異国学生と出会った(娘のマヤ・ストロ・ンは「独身の
女友だちには、ハワイ大学へ行きなさいって言うのよ」と冗談めかす。
マヤ自身もまた、そこで出会った外国人男性と結婚している)。
彼は寛大で、アンの父親のチェスの相手や幼い息子のレスリングの相手に
喜んで時間を割いてくれた。彼ロロは、1967 年にアンにプロポーズした。


写真を撮ってパスポートを取得し、航空チケットを買う —— 母子がロロについて
インドネシアへ行くための準備には数カ月かかった。そのときまで彼らは、
米国領から一歩も外に出たことはなかったのだ。長い旅程の後、彼らは地球上の
どこにあるかも知らない土地に降り立った。オバマは後年、こう書いている。


「飛行機から一歩外に踏み出すと、滑走路は熱で波打ち、太陽は炉のごとく燃え盛っていた」


「わたしは母の手を強く握りしめた。わたしが母を守るのだとの決意をこめて」


ロロの家はジャカルタ郊外にあり、高層建築の立ち並ぶホノルルとは、いろんな意味で
遠く離れていた。電気は通っておらず、道は鋪装されていない。国政はスハルト将軍の
支配体制に移行しつつあった。物価上昇率は 600 %以上にも達し、あらゆる物資が
不足していた。アンとオバマはその界隈で初めての外国人住民だったと、隣人たちは
語る。鶏とそこを塒とする鳥の群、そして 2 匹のワニが、裏庭を占拠していた。近所の
子どもたちと友だちになるために、家の前の塀に腰掛け、大きな鳥のように両腕を広げて
鴉の鳴き声を真似ていたオバマの姿を、幼友だちのカイ・イクラナグラは思い出す。


「わたしたちはそれを見て大笑いして、すぐに一緒に遊ぶようになったわ」


オバマカトリック系のフランチェスコアッシジ小学校に入学した。彼は
外国人であるというだけでなく、太っているという点でも目立つ存在だった。
しかし彼はからかわれても取り合わなかったし、ほかの子どもたちのように
トーフやテンペ(インドネシアの大豆食品)を買い食いしたりしなかったし、
サッカーに興じたり木に登ってグァバの実を取る仲間に入ろうとはしなかった。
当時の隣人バンバン・スッコの記憶では、オバマは子どもたちに「ニグロ」と
呼ばれても気にしていないふうだったという。


当初オバマの母親は、家の戸口に立つ物乞いのことごとくに施しを与えていた。しかし、
この惨めな境遇のひとびと —— 腕や脚のない子どもだったり、ハンセン病者だったり —— は、
ひっきりなしにやって来たため、誰に与えて誰に与えないかを彼女は選択せざるを得なくなった。
大きな苦しみと小さな苦しみを合理的に峻別しようと悩む彼女に、夫のロロは呆れていた。
彼はオバマに皮肉っぽく言った。


「きみのお母さんは、ソフトな心の持ち主だな」


アンがますますインドネシアに感化されるにつれ、夫のロロはますます西洋かぶれと
なった。米系石油会社に勤めるロロの地位が上がると、彼は一家を「上品な」地域に
移した。夫が連れ回すディナーパーティーは彼女をうんざりさせた。男たちは
ゴルフのスコアを自慢し合い、妻たちはインドネシア人召し使いへの愚痴をこぼす。
アンとロロは滅多に喧嘩をすることはなかったが、日々こころは離れていった。
「母は孤独と向き合う覚悟ができていなかった」と、オバマ回顧録に書いている。


「それは息切れのように、一定のリズムでコンスタントに母を追い詰めていった」


アンは米国大使館での英語教師の職を得る。彼女は生涯を通じて、夜明け前に起きるひとだった。
アメリカから届く通信教育の英語の教材をオバマに渡すために、彼女は毎朝 4 時に息子の部屋に
入っていった。彼女は、エリート・インターナショナル・スクールに通わせる余裕がないために、
息子に十分な教育機会を与えられないことを気に病んでいた。2 年後、オバマはそれまで
通っていたカトリック系学校から新居近くの国営小学校に転入した。彼は唯一の外国人だったと、
当時の級友アティ・キジャントは言う。しかし、いくらかのインドネシア語を話す彼には、
新しい友だちができた。