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2016-07-17 「萌え」文化はミソジニーの発露なのか このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 オタク文化、特に漫画・アニメオタクの人たちによる「萌え絵」の文化は、これまでもしばしばミソジニー(女性憎悪)、特に男性のミソジニーと結び付けて語られてきました。今回取り上げる墨東公安委員会氏の記事も、以前からよくある論旨の一つだと言えます。

 そして小生が指摘せずにはおられないのは、ダイクストラが『倒錯の偶像』であまた紹介した、19世紀のミソジニーを表象した絵画のような文化風潮に相当する存在として、現在の日本で比定されるべきは、まさしく「オタク」文化とされる、「萌え」的な表象なのではないかということです。現在のオタクの「フェミ」嫌い、強いものに傾く権威主義などが、それを感じさせるにはおられません。
(中略)  まとめて言えば、「萌え」好きな「オタク」の一般化・大衆化は、日本会議的な反動の風潮と軌を一にしているのではないか、というのが、幾つかの書物を読んで小生が考えていることなのであります。

 この主張が妥当か否かを考える前に、注意しなくてはならないことがあります。「○○はミソジニーを含んでいる」などと言及する場合、それが「○○を構成する要素・関わる人たちの一部にミソジニーが含まれる」という意味なのか、それとも「○○は本質的にミソジニー的なものである」と理解するか、によって話は全く変わってくるからです。

 これとよく似た問題が、BLボーイズラブ)ジャンルとホモフォビア(同性愛憎悪)との間にあります。BLにはホモフォビア的な描写がしばしば含まれる(あるいは、BL愛好家の人たちの中には同性愛者を蔑視する人たちが含まれる)、という批判は以前からなされてきました。この指摘が正しいとしても(実際、ある程度は正しいと思います)、「BLは本質的にホモフォビア的なものである」とか「BLはホモフォビアを原動力に発展したものだ」というような結論はここからは導かれません。
 また、同様に「科学者コミュニティの内部における女性差別」といった例も挙げられます。「科学者の間での女性差別・蔑視」や、「女性差別を背景にした科学理論」などはしばしば批判の対象となってきました。これもやはり、ここから「科学は本質的に女性差別的なものである」というような結論は導けません。

 女性差別やミソジニー、ホモフォビアといった現象は広く社会全体にみられるものであり、萌え文化などのコミュニティも社会の内部にある以上、これらの影響を受けてしまう、ということは言えるでしょう。「BLが同性愛表象を愛でるものだからといってホモフォビアと無縁とはいえない」という主張は妥当です。しかし、それを「BLは本質的にホモフォビア的なものだ」へと結び付けるのは論理の飛躍といえます。

 墨東公安委員会氏の「萌え」とミソジニーとを結び付ける根拠は、「萌えオタク」の中に「フェミ嫌い」や「権威主義」、ミソジニー的な傾向の強い人たちが目に付く、というもの(これ自体は同意できます)で、これは先ほどの区分けでいえば前者です。しかし、氏はそれを「『萌え』が広がったのはミソジニー的風潮の反映である」という考察に繋げており、これは後者の主張といえるでしょう。ここには論理の飛躍があります。



 ただし、この「飛躍」は、ある前提を置くことで極めてスムーズに接続させることができます。それは、「萌え文化は現実の恋愛・性愛からの逃避により、その代替物として成立した」というものです。

 この主張は、墨東公安委員会氏も取り上げている喪男道の覚悟氏や、その思想的背景のひとつである本田透氏の著書『電波男』が理論の前提としているものです。現実の恋愛が「恋愛資本主義」に毒されて価値が失われ、純愛を求める男性はその代替を求めて「萌え」に向かった、という主張であり、この考え方では「現実の恋愛(あるいは現実の女性)」と「萌え文化」が対立関係ということになります。
 この対立関係を前提すれば、「社会のミソジニーの広がりによって、ミソジニーを根源とする『萌え』が広がった」という主張は当然の主張ということになるでしょう。逆にこれを前提しなければ、論理を飛躍させずに説明することは困難だと思います。

 この主張は、覚悟氏のような狭義のミソジニスト(女性憎悪を公言し、それが正義であると主張する人)にとって大変都合の良い考え方です。一方で、この主張は現実的に考えて多分に無理があります。「萌え」を楽しみながら現実でも恋愛あるいは結婚をしている人は大勢いますし、また、現実の恋愛・性愛を忌避する人が必ずしも「萌え」を愛好しているわけではありません。何よりこの理屈は「萌え文化」に関わる数多くのオタク女性の存在について、整合的な説明が難しい。先の本田透氏は、女性オタクについての記述自体を避けています。

 墨東公安委員会氏は、覚悟氏が「萌え的な表象がミソジニーの文化風潮を表している」と主張する書籍を評価していることについて、次のように述べています。

 「喪男道」の「覚悟」氏といえば、十年ばかり前にネットの一部界隈で流行っていた「非モテ論壇」最右翼の、ネット上のミソジニーの権化のような方として、その筋では名を轟かせておりました。しかしその女性嫌悪は氏自身の心をも蝕んでしまったのか、やがて氏はネット上の活動を休止され、その消息は分からないままです。
 そんなミソジニーの極北のような人が、知らずミソジニー批判の書である『倒錯の偶像』を自己の価値観に沿ったものとして受け入れている、これは何とまあ皮肉というか馬鹿げた光景であることよ、と小生は愕然というか憮然となったのでありました。

 しかし、先ほど述べた「論理の飛躍と接続」を考えれば、これは意外でもなんでもない、と私は思います。「萌えは本質的にミソジニー的なものだ」という主張は、覚悟氏のような人物にとって、自身の女性憎悪的な論理を補強してくれる「有利」な主張だからです。もっとも、「ミソジニー批判の(つもりの)言説が、かえってミソジニー的な主張を補強している」という意味では「皮肉」ではあるでしょう。

 女性憎悪的、あるいは女性差別・蔑視的な言説を批判すべきでないとは私は全く思いません。しかし、あるカテゴリー全般を女性差別的・蔑視的と決め付けることには(少なくとも)慎重であるべきだ、と考えます。なぜなら、そのような主張は女性差別的・蔑視的な論理を却って助長するものになりかねないからです。

crowserpentcrowserpent 2016/07/18 23:50 >id:lisagasu氏(ブックマークコメントより)
http://b.hatena.ne.jp/entry/294757735/comment/lisagasu
> 腐女子かつ萌え文化に関わるオタク女の一人だけど、自分の少女好きと大人の女、
> 母的なものへの強烈な嫌悪は無関係じゃないと思っている
> 女性オタクの存在は萌え文化ミソジニー説を否定する根拠としては弱いと思う

 うーん、「女性オタクの存在」がある故に「萌え文化の本質はミソジニーではない」という話ではないんですよ。そもそも「萌え文化の中に(も)ミソジニーが含まれる」から「萌え文化の本質はミソジニーだ」に繋げるには論理の飛躍があり、その飛躍を埋めるには(本田透氏のように)「現実の恋愛・性愛の代替」という前提を置く必要があるが、その理屈は「女性オタクの存在」を無視した形で構成されている、という話なんです。
 オタク女性の中にも強いミソジニーを持つ人は居るでしょうし、それはさほど不思議なことでもないと思います。オタク個々人をみたとき、「萌え文化」への関わりとミソジニーとが強く関連している人も居るでしょう。しかし、それを以って「萌え文化」全般が根源的にミソジニーに根差しているとは言えない、というのがこの記事で述べていることです。


>id:rag_en氏(ブックマークコメントより)
http://b.hatena.ne.jp/entry/294757735/comment/rag_en
> 『観測し得る「Xの否定」をして、観測し得ない内心について「Xへの憎悪」と
> 定義するのは、端的に言って「エスパー」』だよ、と。
> そもそも、表現者や消費者の「内心」を「問題」扱いしてる時点でダメ過ぎる。

 仰るとおり、「一部オタクのミソジニー」が問題だとされているとき、本来的に意味のある問題設定は「女性の権利に対する攻撃や否定の是非」であって、憎悪や恐怖といった「内心」ではないですね。問題が「ミソジニー」という枠に嵌め込まれることで論点がずれている面は確かにあると思います。この記事でも「ミソジニー」と「女性差別」などをきちんと峻別せずに書いてしまっているところは反省点です。

lisagasulisagasu 2016/07/20 10:57 ブコメに返信ありがとうございます。
>「女性オタクの存在」がある故に「萌え文化の本質はミソジニーではない」という話ではない
というところは理解しました。というか烏蛇さんが「女性(のオタク)はミソジニーと無縁」のような認識でいるとは思いにくかったので、私の読み違いならよかったです。
ただ、烏蛇さんのtwitterも読ませてただくと、最初にあげている「墨東公安委員会」さんによる萌え文化批判の対象は、男性オタクが形成してきたそれなんですよね。そして、仰るとおり本田氏は女性オタクの存在をほぼ無視して持論を展開していたので、本田論にそのまま乗っかれば「男性オタクにとって萌え文化の本質ミソジニー説」は成立する。
だとするとやっぱり、そこで「何より」と持ち出しても、女性オタクの存在によって否定できるものは無いように思うんですが…まだ読み違いしてるのかな?

余談ですがブコメを書いた後で「自分の少女好きと大人の女(母)嫌いは無縁ではない」と、とくに抵抗なく言えるのは、自分が女だからだと思いました。
もしも男性が同じことを言ったら、周囲も男性自身にも、もっと重く響いてしまうのではないでしょうか。
オタク文化、萌え文化に関わる人、愛する人には男性も女性もいますし、ミソジニーはどちらにもありえますが、それを同質のものとして語れるのか、また考えたいと思います。

crowserpentcrowserpent 2016/07/21 08:35 >lisagasu氏
 あー、なるほど。「萌え文化」を完全に「男性の萌え文化」と「女性の萌え文化」に分断できるという立場をとれば、「女性萌えオタクの存在」は矛盾にはならない、と言えるわけですね。私が普段触れてるジャンルのせいか、こういう立場の存在が頭になかったんですが、確かにこのように主張する人は割と居そうです。

> 「自分の少女好きと大人の女(母)嫌いは無縁ではない」と、とくに抵抗なく言えるのは、
> 自分が女だからだと思いました。
> もしも男性が同じことを言ったら、周囲も男性自身にも、もっと重く響いてしまうのではないでしょうか。

 rag_en氏へのレスを書いてるときもちょっと思いましたが、男性のミソジニーは即「女性差別・女性の権利への侵害」と結び付けられるのに対し、女性のミソジニーについてはそうではない、という非対称はあるような気がします。
 「男性と女性のミソジニーは同質なものか」という問いは、問いをどう解釈するかによって答えも変わってくるような問いだと思いますが、個人的には「本質的に同質か異質か」はさておき、「社会的な語りによって『異質なもの』と見做されている」という状況の方が気になっています。

crowserpentcrowserpent 2016/07/22 15:43 >id:muryan_tap3氏(ブックマークコメントより)
http://b.hatena.ne.jp/entry/294757735/comment/muryan_tap3
> 混ぜ返すようなことだけど「恋愛」や「結婚」はミソジニーを抱えてない証には
> ならない難しさ
> 女たらしのミソジニストなんて古今東西いくらでもいるだろう

 ちょっと前のコメントと繰り返しになりますが、「恋愛や結婚がミソジニーを抱えてない証にはならない」のはもちろん当然ですし、この記事では「恋愛や結婚している萌えオタクがいるからミソジニーではない」という話をしているのではありません。「萌えオタクの人たちの中に恋愛・結婚している人も居る」というのは「萌え文化は現実の恋愛・性愛の代替物である」という主張に対しての反論の一つとして出しています。


>id:hhasegawa氏(ブックマークコメントより)
http://b.hatena.ne.jp/entry/294757735/comment/hhasegawa
> この批評だと、@bokukouiさんの元記事がダイクストラの図像研究から出発し、
> ヴィクトリア朝美術で描かれる女性類型と「萌え」表象のそれが共通して
> 依拠する構造を示唆していることが無視されているのでは。

 無視したというか、元々の類推の根拠があやふやではっきりしない議論に思えたので、その部分には敢えて突っ込みませんでした。ダイクストラの議論そのものについても、要点として墨公委氏がまとめている

> 実際には不可能なガイニサイド(女性皆殺し)の妄想の代わりに、
> 第一次世界大戦に至ってジェノサイド(民族皆殺し)への道を切り開いた

などは第一次世界大戦に対する歴史的背景の考察としてやや首を傾げる、という印象だったというのもあります。
 ただ、この記事は件のダイクストラの著書をちゃんと読まずに書いているので、その点は私の不備ではあります。

muryan_tap3muryan_tap3 2016/07/23 19:36 今回のお話の筋ではないコメントで、丁寧に解説いただいて恐縮です。
現実の恋愛性愛の代替物であるという事への反論の一つというのを自分が理解していた事が答え合わせできて良かったです。
ミソジニーをめぐる話題が出た時、テンプレなミソジニストを揶揄するコメントに、恋愛結婚していれば自分は"安全圏"にいるとばかりに勘違いして上から目線のコメントをする人がいるがそんなことないんだぞ、という皮肉のつもりでした。
今回のお話には余計な一言でした。
それにしてもどんな物語文化もミソジニーの片鱗がまったく見つからないものって、あるのでしょうかと考えてしまいます。

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