古代ローマの生活

内容(「BOOK」データベースより)

1200年もの長き繁栄を誇った古代ローマ。そこに暮らす庶民たちの日常生活とは、一体どんなものだったのか。高層アパートが密集する首都ローマの住宅事情から、娯楽やファッション、医療や老後、冠婚葬祭、さらには性愛事情まで―史料をひも解きながら、現代人にも身近な28のテーマで、当時の社会とその実情を紹介。一読すれば2000年前の喧噪にタイムスリップ!古代ローマへの知的興味をかきたてる、極上の歴史案内。


 細々とした当時の日常生活の場面が描かれるというよりも、古代ローマがどういう社会だったかが古代ローマの社会制度や風習などが色々なデータを用いながら説明されていることで書かれている。
 古代ローマと一口にいっても1200年の範囲がある。『古代ローマ人の日常生活のありようが明確な像を結んで見えてくるのは、共和政末期以降のこと』(P11)であることもあって、この本で扱われるのは共和政末期から帝政期にかけての時代の首都ローマを中心とした都市部の話。
 アウグストゥス帝の没した紀元14年ごろには、500〜700万人ほど(帝国人口の15パーセント程度)が都市に暮らしていた。都市別の人口としては首都ローマが約80万で、それに次ぐ大都市としてはエジプトのアレキサンドリア、シリアのアンティオキア、北アフリカのカタルゴなど。それらの年の人口は分からないらしいが『最盛期のアレクサンドリアで約五〇万人、その他都市で二〇〜三〇万人ほどだったと推測されています。』(P15)
 ただ、ローマの外港として繁栄したオスティアが人口2〜3万、ポンペイは約1万人で、ポンペイ円形闘技場は近隣の都市や集落の住民に利用されていたので近辺の中心的都市だったようだ(つまり、普通の都市の人口は数千程度ということか)。
 ローマ法では、自由人か奴隷にわけられ。自由人は生来自由人と被解放自由人(解放奴隷)に分けられる。そして自由人はローマ市民、ラテン人(イタリア中部のラティウムに住む人々を他の地域の人よりも優遇していたが、後にその特権を与えられたローマ市民以外の人をいう)、それ以外の人にわけられる。そしてローマ市民は自権者と他権者(家父長権など誰かの権力に伏しているローマ市民)にわけられる。
 さらに紀元19年ごろに30歳未満ないしいい加減な手続きで解放された奴隷はローマ市民ではなく、ユニウス・ラテン人となると定められた。この人々は、ラテン人と同様の権利が認められたが遺言作成の権利は認められず、死後その財産はかつての主人に行くことになっていた。『ローマ法は、このような境遇を割いて、「ユニウス・ラテン人は生きているあいだは自由人であるが、その最後の息とともにユニウス・ラテン人は命と自由を失う」(『ユスティニアヌスの法学提要』三・七・四)と述べています。』(P26)
 さらに市民権はローマ市民権だけではなくそれぞれの都市での市民権があり、またどこの都市の市民権も持たない自由人もいるなどややこしい。そのようにローマ人といってもそれがどのような人々を指すのか不分明であるようだが、この本では『特に区分の必要がない場合には、ローマ帝国内で済み暮らしていた人々というあいまいな意味で「ローマ人」という表現』(P27)をしている。
 そのような細かい区分があっても、見た目ではどういった身分であるかどうかの区別がつけられなかったこともあって、日常生活においてはそのような区別は意味をなさなかった。しかし裁判沙汰や結婚、遺産相続などにかかわる時にはその区別が重要な意味を持つことになった。
 出生証明書の作成は親の意思に任されていたので、母親が解放奴隷であったため、その解放前に生まれたか後に生まれたか(それでローマ市民かユニウス・ラテン人と身分が変わるため)というのが裁判となった事例もあった。
 『アウレリアヌスの市壁に囲まれたローマの市街地面積は、東京の墨田区(一三七五ヘクタール)とほぼ同じで、山手線の内側の面積の四分の一ほどでした。/ ちなみに二〇一四年段階で墨田区の人口はおよそ二五・五万人なので、元首政期のローマ市の人口の四分の一から五分の一ほど』(P36)市壁外にも居住地が広がっていたが、現代のような高速移動手段なかったため、大消費都市ローマの経済に依存して生計を立てて暮らしていた人々はできるだけ市壁近くあるいは市内に暮らしていたと思われる。
 4世紀には、ローマには八つの大きな公園があったがそれだけでは首都住民の需要を満たせなかった。そのため多くのローマ詩人が農耕詩や牧歌を書いて人気を博したことからうかがえるように、当時のローマの人々に田園生活への憧れ・都市生活の嫌厭の両方があった。
 ローマの公衆浴場の中には食事室や図書館を備えていたところもあり、建物の壁や床下にはパイプが走っていてその中を熱い蒸気が通る仕組みとなっていた。そのため『冬でも温々(ぬくぬく)と読書や食事』(P55)をすることができた。食事室や図書館が全部の公衆浴場にあったわけでないにしろ、近隣にそうした施設を備えている公衆浴場があれば、貴族とかでなくとも一般の人がそういう過ごし方ができたというのは凄いことだな。
 水道でローマに供給されていた水の使用可能量(実際の使用量は不明)は、ローマの住民一人当たり1000リットル。東京都民一人当たりの水の使用量が232リットルということからもわかるように、十二分な水があった。
 ローマ人男性の平均寿命は22.8歳、女性は25.0歳。しかし赤ん坊の時に死ぬことが多かったため3分の1ほどの赤ん坊が1歳を迎えられなかった。しかし1歳を迎えた子供の平均余命は男34.1年女34.9年、つまり1歳まで生きれていたら平均男35.1歳、女35.9歳で死亡となり、5歳を迎えられたら平均余命は男39.0年、女40.1年で平均寿命が男44.0歳、女45.1歳になる。そして10歳を迎えるまでに約半分の子供が亡くなる。
 また35歳まで生きる人が男女ともおおよそ約3分の1(1歳まで生きていた子供のうちの半分)で、60歳まで生きられる人が男で8分の1(1歳を迎えた子供の約5分の1)、女で6分の1(1歳まで生きられた子供の約4分の1)。
 そうしたことが75ページの表5で、古代ローマでは生まれてきた子供10万人中何人ほどがその年齢で生存しているかという平均寿命とその歳まで生きたら平均であと何年生きられるかという平均余命がまとめられている表がのっていて、77ページに古代ローマの年齢構成表が書いてあるのは平均寿命で語られてもピンとこないから非常にうれしい。
 古代ローマの平均年齢は27歳ほどで、60歳以上が社会の5%程度で、9歳以下が24.9%、10〜19歳が20.6%と20未満で半分近い。
 古代ローマの家父長権は絶大で家父長が持つ生殺与奪権は『彼の所有権下にある奴隷はもとより、名分が立ちさえすればたとえわが子であっても、その権限に基づいて殺すことが認められていました。』(P81)
 去勢者『一世紀ごろになると、皇帝に仕える宦官や富豪の取り巻き、饗宴を盛り上げる道化や春を売る男娼としての去勢者の姿が、あちらこちらで見られるようになります。』(P86-7)宦官とか中国のイメージしかなかったが、ローマでもいたのね。
 嫁入り時の持参金、嫁資はおおよそ年収分くらい。近世ヨーロッパでは年収の3〜5年分と言うことを考えれば多額とはいえないが、可処分所得の低い階層にとっては年収分は大変な額。
 『乳幼児死亡率の高かったローマ帝国で人口を一定に保つためには、一五歳から四九歳までの出産可能年齢にあるローマ女性は、生涯に5人以上の子を産まなければならなかったと考えられています。』(P125)
 上層の人々が避妊や堕胎をよくおこなっていたので、『ある研究者の調査によれば、元老院家系の四分の三ほどは二世代足らずで断絶の憂き目を見ていたといいます。』(P129)
 赤子が捨てられて拾われた場合、その子は拾われた人の奴隷として使えることになる場合が多かった。研究者の中には大規模戦争がやんで、戦争捕虜という主要な奴隷供給源が少なくなった後、元首政期には捨て子出身の奴隷がおよそ半数だったと考える人もいる。
 古代ローマでは男性は晩婚の傾向があったため『ある研究者の算定によれば、父親の四六パーセントは自分の子供が一五才になる前に死亡し、父親の七〇パーセントは自分の子が二五歳になる前に死亡していたそうです。』(P152-3)
 また『死亡率の高かったローマ社会では、理想的な相続人たる息子のいる父親は全体の六〇パーセントほどにすぎませんでした。また、残りの四〇パーセントほどの父親のうち、二〇パーセントほどには娘しかおらず、もう二〇パーセントには生きている子が一人もいないというのが現実でした。』(P165)
 ローマの食事、『二世紀後半の医師ガレノスが、病人、老人、子供は三度食事をするようにとわざわざ忠告していることからもわかるように、やはりローマでは二度の食事が一般的だった』(P179)。
 国家による穀物の無料配布、対象となったのは首都住民の3分の1ほどで必ずしも貧しい人ばかりでなく、また不足分は自分で購入する必要があった。パンとサーカスという言葉の印象から、パンに困らないと思っていたけどそうでもないということか。
 ローマ時代のかつらは女性がするもので、男性は髪を気を使いすぎると女々しいと非難されることがあったのでかつらに頼れなかった。しかし『インドから輸入された黒髪に関税がかけられていたといいますから、帝国内ではかなりの需要があったことをうかがわせます。』(P200)という具合に、当時からそんな遠い国から髪の毛を輸入していたというのは凄いわ。
 初等教師に支払う授業料はそれほど高額ではなかったため、『庶民層の子供たちであっても、初等教師のもとで学ぶ機会はある程度はあったと思われます。』(P221)そして『授業は朝早くから六時間ほどおこなわれ、八日目ごとに休みとなっていました。』(P221)それを夏休みはさんで10ヶ月。何年もやるものではなかったのかもしれないけど、結構みっちりやっていたのだな。
 ローマには大半の街路には特定の名前がなかったこともあり、『「どこそこの近く」という曖昧な表記に留まったので、地元民ではない余所者には不親切きわまりないものでした。』(P246)。