スペインレコンキスタ時代の王たち

 250ページ弱という短いページ数の中でイベリア半島北部沿岸の山岳地帯に追い込まれていたイベリア半島でのカトリック勢力の拡大していく様子や、王家の婚姻などで複数の国がまとまったり、逆に分割相続で複数の国に分かれたりしたことなどが書かれている。
 レコンキスタ時代のイベリア半島でどのようにカトリック勢力の国がまとまったり分裂したりしたのかという話が面白かった。また短いページ数で勢力拡大していく様子や王家の相続や婚姻、それに関連した国の集合離散の大まかな流れを知ることができて便利。
 「第1章 アストゥリアス王国の誕生 七一八年」
 711年からイスラム勢力がイベリア半島をどんどん征服していき、キリスト教勢力は北部沿岸の山岳地帯のアストゥリアス地方のみとなる。西ゴート王国ロドリゴ王の近い親戚であるペラヨが、718年にアストゥリアス王国を建設し初代王であることを宣言。
 「第2章 聖ヤコブの墓の発見 八一四年」
 西暦800年フランク王国カール大帝ピレネー山脈の南側も得ようと出征してきた。その出来事をきっかけに『フランス王権が我らが半島に興味を示している。せっかくイスラムからは自由になっているというのに、これではたまらない。我々にも強い王国が必要である。」/と、八一〇年、ナバラで王国が誕生し、イニゴ・アリスタが初代王となりました。』(P45)
 カール大帝フランク王国は785年にジローナを降伏させて、815年にバルセロナを征服する。『そんな経緯から、ジローナ・バルセロナを含むあたりは、フランク王国支配下となり、この土地の事をマルカ・イスパニカと呼んでいるのです。が、これは名前の話であって、まとまった自治体というわけではなく、イスラム境界の地域をこう呼んでいたのです。マルカの中には、異なる名前で呼ばれるいくつかの伯領があって、伯は、フランク王から任命された役職であり、王に変わる統治者となっていました。』(P46)
 「第3章 レオン王国へ 九一〇年」
 アストゥリアス王アルフォンソ三世(866-910)は急拡大した国の領土を『ひとりで統治をするには無理がある、とアルフォンソ三世は考え』(P59)、領土をレオン、ガリシアアストゥリアスに分割して三人の息子に与えたが、結局その死後十五年ほどで再び一つの王国となった。ただしアストゥリアは吸収され、ガリシア王国はレオン王国に従属する存在となったので、レオン王国と名前を変えて再統合された。
 「第4章 ナバラ王サンチョ大王 一〇〇〇年」
 ナバラのサンチョ大王サンチョ・ガルセス三世(1000-1035)はレオン王国カスティーリャ伯の娘ムニアと結婚する。妻の弟カスティーリャ伯ガルシア・サンチェスととレオン王女サンチャ・デ・レオンとの結婚が決まった。王女はレオン王国カスティーリャ伯の間の係争地を持参金代わりにすることとなっていた。しかしカスティーリャ伯ガルシア・サンチェスが暗殺されたことで、カスティーリャ伯の領土は事実上サンチョ大王のものとなる。
 そしてレオン王女サンチャ・デ・レオンはサンチョ大王の息子フェルナンドと結婚することになり、その持参金はカスティーリャ伯との結婚の取り決めと同様に係争地ということになった。そうしてレオン王国カスティーリャ伯の間の係争地はナバラ王国の領土となった。
 1035年のサンチョ大王の死後、遺言に従って広大な領土は息子たちに分割相続された。『長男ガルシアには、ナバラ王国を。/次男フェルナンドには、カスティーリャ伯領をカスティーリャ王国として。/三男ゴンサロには、ボブラルベ伯領、リバゴルサ伯領などを。/婚外子のラミロには、アラゴン伯領をアラゴン王国として。』(P82)そうしてカスティーリャ伯領とアラゴン伯領が独立国となった。三男ゴンサロは1040年ごろになくなって、その領土はアラゴン王国に引き継がれた。
 サンチョ大王の死後レオン王ベルムード三世は件の係争地を取り戻そうとして起こったタマロンの戦いで戦死する。そしてレオン王国はベルムードの姉サンチャ・デ・レオンに引き継がれることになり、彼女の夫のカスティーリャ王フェルナンドはレオン王にもなった。
 「第5章 トレド奪還 一〇八五年」
 カスティーリャ・レオン王フェルナンド一世も父と同じく息子たちに領土を分割相続する。長男はカスティーリャ王サンチョ二世になり、次男はレオン王アルフォンソ六世勇敢王になり、三男はレオンから分離してガリシアポルトガル領土が与えられてガリシア王ガルシア一世となった。
 カスティーリャ王サンチョ二世とレオン王アルフォンソ六世は弟であるガリシア王ガルシア一世を攻めて、その領土を二人で分ける。その後カスティーリャ王サンチョ二世とレオン王アルフォンソ六世が戦い、サンチョ二世が勝利を収めて、『父フェルナンド一世大王の領土は、再び、サンチョ二世がひとりで占有することになったのです。』(P95)
 アルフォンソがトレド国の宮廷に身を潜めている間に妹ウラカやアンスレス伯がレオン王国が決起するための準備をしていた。そのことを知ったサンチョ二世は妹の領地サモラを包囲するが、暗殺される。その結果アルフォンソはレオンに戻り再びレオン王になり、『兄の持っていたカスティーリャガリシアも手に入れたのです。こうして、カスティーリャ・レオン王アルフォンソ六世は誕生しました。』(P96)
 「第6章 アラゴン事情 一一三七年」
 初代アラゴン王ラミロの領土は狭く、王の称号はあるものの『アラゴン王国ナバラ王国に付属しているようなもので、実のところ弟のナバラ王ガルシア三世に服従する立場でした。』(P111)二代目アラゴン王サンチョ・ラミレス一世の時代、ナバラ王が弟と妹の共謀で殺害される。その後アラゴン王サンチョ・ラミレス一世がナバラ王に選ばれてナバラ王サンチョ五世となった。
 アラゴン王ラミロ二世の娘である王女ペトロニーラはバルセロナ伯ラモン・べレンゲール四世と結婚する。この結婚によって、1137年『アラゴンバルセロナ伯領とは連合し、いわゆる「アラゴン連合王国」となります。』(P122)
 『バルセロナのあたりは古くはマルカ・イスパニカと呼ばれる伯領の集合体で、当初は一〇程度の伯領があり、(中略)八七八年、バルセロナ伯領の貴族ビフレードは、フランク王カルロス・エル・カルボから、カタルーニャのほとんどの伯領を譲り受けたことで、かなりの伯領を手に入れ、フランス支配下バルセロナ伯領となって他の伯領から頭一つ飛び出したのです。』(P123)985年にアル・マンスールが攻めてきたときにフランス王の援助を待ったが、二年後フランスのカロリング朝は滅亡するということもあって余力がなく援助は来なかった。『そんなことから、バルセロナ伯領はフランス支配から抜け出し、独立の自治領となっていったのです。』(P123)
 「第7章 ラス・ナバス・デ・トロサの戦い 一二一二年」
 イベリア皇帝を名のったカスティーリャ・レオン王アルフォンソ七世の死後、長男サンチョがカスティーリャ王国を継ぎサンチョ三世に、次男フェルナンドはレオン王国を継ぎフェルナンド二世となった。
 その後アルフォンソ八世の死後アルフォンソ八世の一人息子のエンリケは早世。そのためレオン王アルフォンソ九世妃となっていたアルフォンソ八世の娘べレンゲ―ラの子フェルナンドがカスティーリャを継ぎ、彼はカスティーリャ・レオン王フェルナンド三世聖王となる。
 「第10章 アラゴン王国もトラスタマラ家 一四一二年」
 アラゴンマルティン一世の死亡時に嫡子が既に亡かったこともあり、アラゴン王位を主張した人物は6人居た。そこで1412年にアラゴン王を選ぶ会議がカスペで開かれて、カスティーリャ王子フェルナンド・デ・アンテケラが王となることが決まる。
 そうして誕生したアラゴン王フェルナンド一世の長男アラゴン王アルフォンソ五世は、ナポリも手に入れナポリ王となった。アラゴンは妃マリアに任せて、自分で暮らす。次男フアンはナバラ王カルロス三世の王女ブランカを妃としていて、1425年のカルロス三世の死後ブランカナバラ女王となり自分もナバラ王となる。
 「第11章 グラナダ開城、レコンキスタの完了 一四九二年」
 カスティーリャ王フアン二世の王女イサベルはアラゴン王子フェルナンドと結婚する。イサベルは兄のエンリケ二世の死亡に伴い、カスティーリャ女王イサベル一世となり夫のフェルナンドはカスティーリャ王フェルナンド五世となる。
 カスティーリャ王フェルナンド五世の父であるアラゴン王フアン二世(カスティーリャ王のフアン二世とは違う)は兄アルフォンソ五世の死後60歳でアラゴン王となった。しかしその前にナバラ女王となるブランカと結婚していてナバラ王となっていた。カスティーリャ王フェルナンド五世も、父の死後にアラゴン王フェルナンド二世になる。フェルナンド五世の母はナバラ女王ブランカではなく、後妻のフエナ・エンリケスの子だったためナバラ王にはならなかった。
 親子で複数の国の王となって、しかも二人とも自分が王子として生まれた国で王になるより、配偶者が女王になったことで夫である彼らも王位を得る方が先というのは珍しい。
 そしてイザベラ女王とフェルナンド王のカトリック両王は10年を超えるグラナダ戦争を戦い抜き、グラナダを開城させてレコンキスタを完了させた。