安倍晋三の番組改竄政治介入についての資料

永田浩三NHK、鉄の沈黙はだれのために/番組改変事件10周年目の告白』


柏書房 2010/07/25


NHK、鉄の沈黙はだれのために―番組改変事件10年目の告白


「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク(VAWW-NETジャパン)編『暴かれた真実/NHK番組改ざん事件/女性国際戦犯法廷と政治介入』


現代書館 2010/11/15


暴かれた真実NHK番組改ざん事件―女性国際戦犯法廷と政治介入


「戦争と女性への暴力」日本ネットワーク/NHK番組改変裁判弁護団女性国際戦犯法廷/NHK番組改変裁判記録集』


日本評論社 2010/12/08


NHK番組改変裁判記録集

鏑木清一「進駐軍慰安作戦」【東京12チャンネル1971/09/07放送】


東京12チャンネル社会教養部編 聞き手:三國一朗『新編/私の昭和史4/世相を追って』


學藝書林 1974/07/15


p.141-151

    • -

【p.141】

進駐軍慰安作戦


ゲスト …… 鏑木清一


昭和20年8月15日の敗戦の直後、「特殊慰安施設協会」(Recreation and amusement Association 略称RAA)が設立された。


日本に占領軍が進駐してくるという事態は、まさに有史以来のことであり、国内にはあらぬ噂が流れた。働き盛りの男は重労働を強制され、年頃の女はすべて犯されるというものであるが、そんな混乱をバックに、占領軍向き慰安施設の要請が、時の政府から出された。これに呼応して、東京料理飲食業組合をはじめとする東京都七団体の接客業者が、その任に当たることとなった。


協会の運営に当って、政府からは都合3300万円の融資、警視庁からは行政上の特例、東京都か


【p.142】


らは諸物資の優先的給付を受けるという、実質は国策慰安組織がここに発足した。


8月29日、宮城前で宣誓式が行われたが、その声明書にはこうある。



    同志結盟して信念の命ずるところに直往し、『昭和のお吉』幾千かの人柱の上に狂瀾を阻む防波堤を築き、民族の純血を百年の彼方に護持培養すると、共に、戦後社会秩序の根本に、見えざる地下の柱たらんとす。我らは断じて進駐軍に媚びるものに非ず。節をま[*1]げ、心を売るものに非ず。社会の安寧に寄与し以て大にしてこれを言えば、国体護持に挺身せんとすることを重ねて直言し以て声明となす



鏑木清一さん(明治39年生)は、元RAA情報課長。その実態をつぶさに目撃した証言者である。



□ どうしてRAAにお入りになったのですか


鏑木 わたしはちょうど終戦までは日本ニュースの海外局の方の連絡部の仕事をしておりました。終戦と同時に解散になりまして、ぶらぶらしておりました。たまたまわたしの遠い親戚みたいな筋に当る山下茂氏の呼びかけがございまして、「お前、今まで渉外事務をやっていたから、今度こ


【p.142】[写真:米兵と歩く女たち]


ういう協会が出来たのでGHQの方の渉外を担当したら」という話で、それでまあ情報課長。その当時では非常に好条件で。


GHQとの折衝が主なお仕事ですか


鏑木 GHQの中にスペシャル・サービス・オフィスというのがございまして、主にこうした進駐軍の慰安施設の方を担当している。それの折衝をやっておりました。


□ RAAが出来ましたのはGHQの要請にもよるのですか。


鏑木 ではないんですね。敗戦と同時にですね、警視庁あたりでも婦女の対処を非常に重要視したわけです。警視総監の発案で防犯部長が業者に呼びかけをしました。わたくしもですね、戦争中報道班員で満州とか南方を見て、それで日本軍が進駐した時にしたことを見聞きしているものですから、ある程度意義ある


【p.144】


仕事じゃないかと思いまして。


□ ずいぶん早手回しだったのですね。先手を打った形ですか。


鏑木 そうですね。8月19日にはスタートしたんですから。[*2]


□ 内容としては慰安施設というのですから、キャバレーだとかダンスホールだとか。


鏑木 最初は膨大な計画でございましたね。ダンスホール、キャバレー以外にも、いわゆるゴルフ場だとか。構想としては膨大なものだったですけどね。


□ しかし、いわゆる慰安所、これがやっぱりいちばん大きな…


鏑木 まあ、主目的はそこにあったわけです。


□ 接待に当る女性ですね、余り感じのよくない言葉ですが、慰安婦、その人たちをどういうふうにして集めたのですか。


鏑木 当初はですね、吉原の娼妓組合の組合長が、自分の従来手がけた女の子を集めました。焼けてしまって、地方へ帰ってしまったのを呼び集めました。


□ 国策的な事業に再就職ってわけですね。


鏑木 お国の為だとかいって、30数名集めましてね。しかし、多勢の進駐軍相手でございますから、とても足りない。そこで銀座街頭に大きな立看板出しまして、一般女性も募ったわけでございます。


【p.145】[写真:夜の街に泣く女たち]


□ 公募したわけですね。


鏑木 「ダンサー及び女子事務員を求む」および「日本の新女性を求む」というキャッチフレーズを作りまして。


□ 分かったような分からないような言葉ですね。「新日本女性」ですか。


鏑木 衣食も住もない時代でございますからね、それがまあ安定していますから、非常に応募者が。


□ 元RAAの常務理事の山下茂さんにその時の模様を。


山下 進駐軍のお相手する芸者、或いはダンサー、或いは接待婦 そんなような名目で全国的に新聞にも出し、ビラなどもどんどんとはって、何しましたら、それはまるで驚くほど女性


【p.146】


が集まりまして。銀座七丁目の松木の店頭から多い時には二丁ぐらい女性が並んだ。その女性を見れば本当に満足な洋服なんて誰もいないし、靴や下駄、ぞうりをはいた者すらいないといっていいくらい、今でいえばルンペンに等しい姿で、長い列を作って応接を待っている。わたしの想像では、本当に6割くらいは処女であったと思うんですが、年頃が20から24、5、あまり年よりはとりませんでしたので、そんな若き女性がどんどんと応募を自らすすんでするといった具合でした。(録音)


時期的には少しあとにはなりますけれども、当時の経済警察部長から各警察署長にあてた通達から


    待合芸者屋営業の取扱いに関する件(省略)


【p.147】


□ 占領軍に向かっての気の使い方がよく分かります。さて、慰安所は、最初はどこに。


鏑木 最初は大森の小町園。8月28日です。先ず経験者を主に、これは優先的に、第一陣として出したわけでございます。38名出しました。着物などは、東京都から配給してもらいまして。夏でございますから、単衣、ゆかた、帯だとか、それから石鹸、チリ紙やなんかそうしたものも持たせて。


□ 接客教育にはどういう人が。


鏑木 これはですね。理事の中の奥さんで、アメリカで飲食店をなさっていた方がおられまして。英語もなかなかできるのがおりませんですから、まあなんでもスマイルオンリーで済ませなさい、と。


□ スマイルオンリー。


鏑木 ええ、もう笑え、笑え。ほほえめ、ほほえめ。何を言われてもニコッと笑え。


□ そういう女性のことを、慰安婦さんと呼ぶわけには行きませんね。何と呼ぶのですか。


鏑木 正式にはですね。特別女子挺身隊員。


□ 挺身隊員。


鏑木 挺身隊員ですね。戦争中の意気込みと同じ気分だったのです。


【p.148】


□ 第一陣のお客を迎える時はどういう状況でした。


鏑木 その時にはもうそうした慰安所が大森に設置されたということをですね、スペシャル・サービス・オフィスの方から知らせてあったものですから、その小町園の玄関先からずっと国道に向かってですね、約600人近くが行列を作っていました。料金は、ショートタイム100円、泊まりが300円。早速ドルを百円札に換えましてね、兵隊は百円札を握りしめ、眼は血走っていましてね、地団駄踏んで開店を待っているわけです。その光景はほんとうにもう悲壮なものでした。建物のなかの造作はですね、料亭を改造したもので、いわゆる10畳敷きとか20畳敷きとかいうところですから、なかに針金を引きまして、カーテンで全部仕切りまして、いわゆる小部屋を作ったわけですね。ベッドなどございませんから、日本式のふとんを敷いてそこで接待した。


□ ずいぶん乱暴な兵隊もいたでしょうね。


鏑木 まあ、なかにはですね、待ちきれずウイスキーをラッパのみでのりこんで来るのもいますし、土足で上がりこんで来るのもございましてね。酔っぱらっている悪質なのはですね、女をさかさつりにしましてね、まるでオモチャですね。ところが、日本人はそれに対して手出しができないわけです。ですから、そういう時はしようがないですから、2、3名ずつ常駐しているMPに頼みこみました。


□ 随分ショックだったでしょうね、女性にとっては。


鏑木 はじめて外人に接した、その処女の女性がですね、以前は会社員だった方がですがね、3月10日


【p.149】[写真: リンタクに乗る米兵]


の空襲で御両親をなくした娘さんでしたが、このショックでですね、その晩に裏の京浜電車に飛び込みましてね、自殺しました。この事件は、従業員にひどく影響しますものですから、極く内密に葬式を済ませました。


□ 当時の警視庁の保安課から出た風紀情報という印刷物があります。


    「事故防止について

    慰安所関係に於ける事故は最近殆どなくなりましたが、たまに慰安婦が着物を部屋においたら盗まれたとか、帳場で金を計算していたら道路からこれを見て強奪されたとか、遊興出来なかった腹いせに土足で2階に登ったらそこに着物があったのを見て盗んでいったとか、というような事故があります。これらを見ても、相手に隙を与え


【p.150】


    ないことがたいせつだと思います。特に着物を羨ましがって盗る傾向がありますから、目につかない所へしまって、部屋などにかけておかないよう」


一方、日本人でありながら特権意識をふるって鏑木さんのような立場の方を悩ませた例もあるのではないですか。


鏑木 一番困るのは、将校連中について来る通訳と称する人種ですね。これは悪いのがおりましてね、自分がまるで戦勝国の人間みたいなつもりになっちゃうんです。「俺にも女を世話しろ」というようなのが出て来ましてね。わたしなども少し癪にさわりますからね、「それでも日本人か」と。それでもブツブツいっているんですね。


□ いつまでRAAにおられました。


鏑木 翌年の1月までおりましたけれども、わたしのところに毎日のようにですね、将校あたりから何子(なにこ)を呼べとかいわれましてね。まるでもう、いわゆる昔でいう、牛太郎みたいになってしまって、ほとほと嫌気がさしました。それでわたくし翌年の1月にやめました。


□ その後のRAAには駐留軍は入れないことになったそうですが。


鏑木 3月にですね、憲兵司令部からの通達が出ました。その頃になりますと、街の女が非常に増えてまいりましたものですから、性病が蔓延しまして、RAAの女もそうした方面に関係があるんじゃないかと疑われたわけです。


GHQの東京憲兵司令部から昭和21年3月25日付警視総監あての通達。


    進駐軍の淫売窟立入禁止に関する件。

    第8軍司令部より合衆国陸軍部隊に対し、今般左記抜抄に示す如き布告発せられしにつき、御参考の為差示し候。公娼私娼密淫売等、およそ売笑行為の行われる家には、進駐軍兵員の立入りを禁止すべし。当該家屋の入口には総てVD(性病)の表示を付せる立入禁止札をすみやかに提出すべし


こうしてRAAは実質的には事業を終えたわけですが。


鏑木 その時働いていた女性は、まあほとんどは街の女に転落しました。ですから、わたし思いますけれども、今、その時の女性は50近い年齢になっているわけですが、社会の片隅でどういう生活を送ってこられたか。一部から蔑視され、むくわれたものは何もないんですからね。この人たちがいなかったら、もっと大きな混乱があったに違いないんですね。【1971年9月7日放送】

*1:木辺に王

*2: id:dempax:20070510